第15章「振り返るな」
第15章「振り返るな」
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凛が「行く」と言った。
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた何かがほどけた。
安堵。それだけじゃない。嬉しいのか、怖いのか、分からない。ただ、胸の奥で名前のつかない感情が渦を巻いていた。
「おばあちゃんに、挨拶してくるねっ」
凛が、家の中に戻っていく。
俺は玄関の前に立ったまま、空を見上げた。
六月の午後。雲が少しずつ厚みを増している。どこかで鳶が鳴いていた。
間に合った。
そう思った。
でも、まだ終わりじゃない。凛を安全な場所まで連れて行くまでは。
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五分ほどして、凛が戻ってきた。
小さなリュックを背負っている。それだけだった。
「……それだけか」
「うん。必要なものだけ、詰めてきましたっ」
凛は笑った。でも、目が赤かった。泣いた跡を隠すように、前髪で目元を隠している。
俺は、それ以上何も聞かなかった。
「トメさんは」
「中にいるよ。最後に、迅くんにも挨拶してほしいって」
俺は頷いた。
玄関を上がり、居間に向かう。畳の匂いと、どこからか漂う線香の香りが鼻をついた。
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トメさんは、縁側に座っていた。
庭の紫陽花を眺めている。青と紫の花が、午後の光を受けて静かに揺れていた。
「トメさん」
「迅ちゃん」
トメさんが振り向いた。
頬に涙の跡があった。でも、口元は穏やかに笑っていた。
「凛を、頼んだよ」
「……はい」
「この子は、お前に任せる。もう、心配はしてない」
俺は、トメさんの前に膝をついた。
畳の硬さが、膝に食い込む。
「トメさん。一緒に来てください」
言わなければならないと思った。
たとえ、答えが分かっていても。
「俺が連れて行きます。避難所まで、一緒に」
「いいんだよ」
トメさんが、穏やかに俺の言葉を遮った。
「私は、ここにいる。じいさんも、息子も、嫁も、みんなここで眠ってる」
トメさんの声には、迷いがなかった。
「私も、ここで終わりたいんだ。それが、私の望みだよ」
昨日の老人と、同じだ。
あの老人の言葉が蘇った。
『お前さんも、本当は分かっとるんだろう』
分かる。
分かってしまう。
だから何も言えない。言葉が喉の奥で固まって、出てこなかった。
「迅ちゃん」
「……はい」
「お前は、優しい子だ。昔から、そうだった」
トメさんが、俺の手を取った。
しわだらけの手。でも温かい。母の手に似ていると、ふと思った。
「でもね、優しいだけじゃ、人は救えない」
「……」
「時には、置いていく強さも必要だ。分かるね」
答えられなかった。
置いていく強さ。
それは俺が、一番持っていないものだ。
救いたい。全員を救いたい。でも救えない。分かっているのに、諦められない。その矛盾が、いつも俺を締め付ける。
「凛を、幸せにしてやってくれ」
トメさんの目が、真っ直ぐに俺を見た。
「あの子は、お前のことが好きなんだよ。昔から、ずっと」
心臓が跳ねた。
血が一気に頭に上るのを感じた。嬉しいのか、戸惑っているのか、分からない。いや、嬉しいはずだ。なのに、どこかで「俺なんかが」という声が聞こえる。
「私には分かる。あの子の目を見れば、分かる」
「トメさん……」
「お前がどう思ってるかは、知らない。でも、あの子を守ってやってくれ。それだけで、十分だ」
俺は深く頭を下げた。
額が畳につくほど。
「……必ず、守ります」
声が震えた。自分でも気づかなかった。
「ああ。信じてるよ」
トメさんが、俺の頭をそっと撫でた。
その瞬間、母の手の感触が蘇った。八年前に失われた、あの温かさ。
目頭が熱くなった。堪えた。堪えきった。
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玄関を出ると、凛が待っていた。
空を見上げている。雲がさらに厚くなっていた。湿った風が、潮の匂いを運んでくる。
「迅くん」
「ああ」
「おばあちゃんと、話した?」
「……ああ」
凛が俺の顔を見た。何かを読み取ろうとするように、じっと。
俺は目を逸らした。今、目を合わせたら、何かが崩れそうだった。
「行こう。避難所まで、二時間くらいかかる」
「うんっ」
凛が、玄関の方を振り返ろうとした。
気づいたら、俺の手が凛の肩を掴んでいた。
「振り返るな」
凛が、俺を見た。
「……え?」
「振り返ったら、行けなくなる。だから、前だけ見ろ」
凛の瞳が揺れた。
何かを堪えるように、唇を噛んでいる。
でも、頷いた。
「……うん」
俺たちは、車に向かって歩き出した。
背後で、引き戸が開く音がした。
トメさんが、見送りに出てきたのだろう。
凛の背中が、一瞬だけ強張った。
足が止まりかけた。でも、前を向いて歩き続けた。
車まで、あと十歩。
あと五歩。
その時だった。
「凛」
トメさんの声が聞こえた。
小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた。
「元気でね」
凛の足が止まった。
肩が小刻みに動いている。呼吸を整えようとしているのか、堪えようとしているのか。
「凛」
俺が声をかける前に、凛は振り返っていた。
体が勝手に動いたのだろう。俺には分かる。そういう瞬間がある。
玄関の前に立つトメさんの姿を、凛は見つめていた。
小さな体。白い髪。しわだらけの顔。
笑っていた。頬を涙が伝っているのに、笑っていた。
「おばあちゃん……っ」
凛の声が震えた。
そして、叫んだ。
「おばあちゃん、今までありがとう!」
声を張り上げて、叫んだ。
静かな港町に、その声が響き渡った。
「ありがとう! 大好きだよ! ずっと、ずっと大好き!」
凛の頬を、涙が流れ落ちていた。
止めようとしても止まらない。そういう涙だった。
「忘れない! 絶対に忘れないからっ!」
トメさんが、手を振った。
大きく、何度も。
「行きなさい!」
トメさんの声が響いた。
掠れていた。でも、力強かった。
「幸せになりなさい! 凛!」
凛は、涙を流しながら笑った。
泣き笑い。悲しいのか嬉しいのか分からない。きっと、両方だ。
そして、俺の方を向いた。
「迅くん、ごめんね。振り返っちゃった」
俺は首を横に振った。
「……いい」
それしか言えなかった。
言葉が出てこない。喉の奥が熱くて、詰まっていて。
「行こう」
俺は凛の背中にそっと手を添えた。
触れた瞬間、凛の体が小さく震えているのが分かった。
車のドアを開ける。凛を助手席に乗せた。
俺も運転席に乗り込んだ。
エンジンをかける。低い振動が、車内に響いた。
バックミラーに、トメさんの姿が映っていた。
まだ手を振っている。涙を流しながら、笑いながら。
凛は窓の外を見ていた。トメさんの方を。
もう「前を向け」とは言わなかった。言えなかった。
俺はアクセルを踏んだ。
車が動き出す。
港町の景色が、後ろへ流れていく。
海。漁港。古い家々。防波堤。錆びた看板。干された漁網。
凛が育った町。俺の両親が眠る町と、同じ匂いがする場所。
バックミラーの中で、トメさんの姿が小さくなっていく。
やがて、見えなくなった。
凛が、前を向いた。
膝の上で、拳を握りしめていた。白くなるほど、強く。
頬にはまだ涙の跡が残っていた。
でも、その目には光があった。前を見据える、強い光が。
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国道に出て、内陸へ向かう。
車内は静かだった。エンジン音と、時折すれ違う車の音だけが聞こえる。
凛は時折、窓の外を見ていた。何を考えているのか、分からない。
俺も、何を言えばいいか分からなかった。
三十分ほど走った頃。
ポケットの中で、携帯電話が震えた。
運転中だったが、画面を確認した。
杉浦。
俺はハンズフリーに切り替えて応答した。
「杉浦か」
『神谷三佐、今どこですか』
杉浦の声が、緊張していた。いつもの冷静さがない。早口で、少し上ずっている。
「内陸に向かってる。避難民を一人、連れてる」
『そう、ですか……』
一瞬の沈黙。
嫌な予感がした。
「何かあったのか」
『確率が急上昇しています』
俺の手が、ハンドルを握りしめた。
『今朝の時点で七八パーセントでした。それが一時間前に八二パーセントを超えて……今も上がり続けてます』
「八二……」
『海底水圧計の変動が、さらに激しくなってるんです。パターンが変わりました。こんな変動は、私も見たことがない』
杉浦の声が震えていた。いつもの理論武装が、崩れかけている。
『神谷三佐。地震が、予想より早く来るかもしれません』
俺はアクセルを踏み込んだ。
速度計の針が上がっていく。
「どのくらい早く」
『分かりません。明日かもしれないし、今夜かもしれない。……一時間後かもしれない。データが、追いつかないんです』
声の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえた。必死で何かを確認しているのだろう。
『とにかく、沿岸部から離れてください。できるだけ早く、高い場所へ。……お願いします』
最後の言葉は、科学者としてではなく、一人の人間としての声に聞こえた。
「分かった」
俺は電話を切った。
凛が、俺を見ていた。
顔が青ざめている。
「迅くん。今の電話……」
「ああ」
俺は前を見たまま答えた。
「地震が、近い」
凛の息を呑む音が聞こえた。
「急ぐぞ。シートベルト、しっかり締めろ」
「……うんっ」
俺はアクセルをさらに踏み込んだ。
フロントガラスの向こうに、山が見えていた。内陸部。高い場所。
間に合え。
頼むから、間に合ってくれ。
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【第15章 終】




