表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

15/19

第15章「振り返るな」

第15章「振り返るな」

────────────────────────────────


凛が「行く」と言った。


その言葉を聞いた瞬間、俺の中で張り詰めていた何かがほどけた。

安堵。それだけじゃない。嬉しいのか、怖いのか、分からない。ただ、胸の奥で名前のつかない感情が渦を巻いていた。


「おばあちゃんに、挨拶してくるねっ」


凛が、家の中に戻っていく。

俺は玄関の前に立ったまま、空を見上げた。

六月の午後。雲が少しずつ厚みを増している。どこかで鳶が鳴いていた。


間に合った。


そう思った。

でも、まだ終わりじゃない。凛を安全な場所まで連れて行くまでは。


────────────────────────────────


五分ほどして、凛が戻ってきた。

小さなリュックを背負っている。それだけだった。


「……それだけか」


「うん。必要なものだけ、詰めてきましたっ」


凛は笑った。でも、目が赤かった。泣いた跡を隠すように、前髪で目元を隠している。

俺は、それ以上何も聞かなかった。


「トメさんは」


「中にいるよ。最後に、迅くんにも挨拶してほしいって」


俺は頷いた。

玄関を上がり、居間に向かう。畳の匂いと、どこからか漂う線香の香りが鼻をついた。


────────────────────────────────


トメさんは、縁側に座っていた。

庭の紫陽花を眺めている。青と紫の花が、午後の光を受けて静かに揺れていた。


「トメさん」


「迅ちゃん」


トメさんが振り向いた。

頬に涙の跡があった。でも、口元は穏やかに笑っていた。


「凛を、頼んだよ」


「……はい」


「この子は、お前に任せる。もう、心配はしてない」


俺は、トメさんの前に膝をついた。

畳の硬さが、膝に食い込む。


「トメさん。一緒に来てください」


言わなければならないと思った。

たとえ、答えが分かっていても。


「俺が連れて行きます。避難所まで、一緒に」


「いいんだよ」


トメさんが、穏やかに俺の言葉を遮った。


「私は、ここにいる。じいさんも、息子も、嫁も、みんなここで眠ってる」


トメさんの声には、迷いがなかった。


「私も、ここで終わりたいんだ。それが、私の望みだよ」


昨日の老人と、同じだ。


あの老人の言葉が蘇った。

『お前さんも、本当は分かっとるんだろう』


分かる。

分かってしまう。

だから何も言えない。言葉が喉の奥で固まって、出てこなかった。


「迅ちゃん」


「……はい」


「お前は、優しい子だ。昔から、そうだった」


トメさんが、俺の手を取った。

しわだらけの手。でも温かい。母の手に似ていると、ふと思った。


「でもね、優しいだけじゃ、人は救えない」


「……」


「時には、置いていく強さも必要だ。分かるね」


答えられなかった。


置いていく強さ。

それは俺が、一番持っていないものだ。

救いたい。全員を救いたい。でも救えない。分かっているのに、諦められない。その矛盾が、いつも俺を締め付ける。


「凛を、幸せにしてやってくれ」


トメさんの目が、真っ直ぐに俺を見た。


「あの子は、お前のことが好きなんだよ。昔から、ずっと」


心臓が跳ねた。

血が一気に頭に上るのを感じた。嬉しいのか、戸惑っているのか、分からない。いや、嬉しいはずだ。なのに、どこかで「俺なんかが」という声が聞こえる。


「私には分かる。あの子の目を見れば、分かる」


「トメさん……」


「お前がどう思ってるかは、知らない。でも、あの子を守ってやってくれ。それだけで、十分だ」


俺は深く頭を下げた。

額が畳につくほど。


「……必ず、守ります」


声が震えた。自分でも気づかなかった。


「ああ。信じてるよ」


トメさんが、俺の頭をそっと撫でた。

その瞬間、母の手の感触が蘇った。八年前に失われた、あの温かさ。

目頭が熱くなった。堪えた。堪えきった。


────────────────────────────────


玄関を出ると、凛が待っていた。

空を見上げている。雲がさらに厚くなっていた。湿った風が、潮の匂いを運んでくる。


「迅くん」


「ああ」


「おばあちゃんと、話した?」


「……ああ」


凛が俺の顔を見た。何かを読み取ろうとするように、じっと。

俺は目を逸らした。今、目を合わせたら、何かが崩れそうだった。


「行こう。避難所まで、二時間くらいかかる」


「うんっ」


凛が、玄関の方を振り返ろうとした。

気づいたら、俺の手が凛の肩を掴んでいた。


「振り返るな」


凛が、俺を見た。


「……え?」


「振り返ったら、行けなくなる。だから、前だけ見ろ」


凛の瞳が揺れた。

何かを堪えるように、唇を噛んでいる。

でも、頷いた。


「……うん」


俺たちは、車に向かって歩き出した。


背後で、引き戸が開く音がした。

トメさんが、見送りに出てきたのだろう。


凛の背中が、一瞬だけ強張った。

足が止まりかけた。でも、前を向いて歩き続けた。


車まで、あと十歩。

あと五歩。


その時だった。


「凛」


トメさんの声が聞こえた。

小さな声だった。でも、はっきりと聞こえた。


「元気でね」


凛の足が止まった。

肩が小刻みに動いている。呼吸を整えようとしているのか、堪えようとしているのか。


「凛」


俺が声をかける前に、凛は振り返っていた。

体が勝手に動いたのだろう。俺には分かる。そういう瞬間がある。


玄関の前に立つトメさんの姿を、凛は見つめていた。


小さな体。白い髪。しわだらけの顔。

笑っていた。頬を涙が伝っているのに、笑っていた。


「おばあちゃん……っ」


凛の声が震えた。

そして、叫んだ。


「おばあちゃん、今までありがとう!」


声を張り上げて、叫んだ。

静かな港町に、その声が響き渡った。


「ありがとう! 大好きだよ! ずっと、ずっと大好き!」


凛の頬を、涙が流れ落ちていた。

止めようとしても止まらない。そういう涙だった。


「忘れない! 絶対に忘れないからっ!」


トメさんが、手を振った。

大きく、何度も。


「行きなさい!」


トメさんの声が響いた。

掠れていた。でも、力強かった。


「幸せになりなさい! 凛!」


凛は、涙を流しながら笑った。

泣き笑い。悲しいのか嬉しいのか分からない。きっと、両方だ。


そして、俺の方を向いた。


「迅くん、ごめんね。振り返っちゃった」


俺は首を横に振った。


「……いい」


それしか言えなかった。

言葉が出てこない。喉の奥が熱くて、詰まっていて。


「行こう」


俺は凛の背中にそっと手を添えた。

触れた瞬間、凛の体が小さく震えているのが分かった。

車のドアを開ける。凛を助手席に乗せた。


俺も運転席に乗り込んだ。

エンジンをかける。低い振動が、車内に響いた。


バックミラーに、トメさんの姿が映っていた。

まだ手を振っている。涙を流しながら、笑いながら。


凛は窓の外を見ていた。トメさんの方を。

もう「前を向け」とは言わなかった。言えなかった。


俺はアクセルを踏んだ。

車が動き出す。


港町の景色が、後ろへ流れていく。

海。漁港。古い家々。防波堤。錆びた看板。干された漁網。


凛が育った町。俺の両親が眠る町と、同じ匂いがする場所。


バックミラーの中で、トメさんの姿が小さくなっていく。

やがて、見えなくなった。


凛が、前を向いた。

膝の上で、拳を握りしめていた。白くなるほど、強く。


頬にはまだ涙の跡が残っていた。

でも、その目には光があった。前を見据える、強い光が。


────────────────────────────────


国道に出て、内陸へ向かう。

車内は静かだった。エンジン音と、時折すれ違う車の音だけが聞こえる。


凛は時折、窓の外を見ていた。何を考えているのか、分からない。

俺も、何を言えばいいか分からなかった。


三十分ほど走った頃。


ポケットの中で、携帯電話が震えた。

運転中だったが、画面を確認した。


杉浦。


俺はハンズフリーに切り替えて応答した。


「杉浦か」


『神谷三佐、今どこですか』


杉浦の声が、緊張していた。いつもの冷静さがない。早口で、少し上ずっている。


「内陸に向かってる。避難民を一人、連れてる」


『そう、ですか……』


一瞬の沈黙。

嫌な予感がした。


「何かあったのか」


『確率が急上昇しています』


俺の手が、ハンドルを握りしめた。


『今朝の時点で七八パーセントでした。それが一時間前に八二パーセントを超えて……今も上がり続けてます』


「八二……」


『海底水圧計の変動が、さらに激しくなってるんです。パターンが変わりました。こんな変動は、私も見たことがない』


杉浦の声が震えていた。いつもの理論武装が、崩れかけている。


『神谷三佐。地震が、予想より早く来るかもしれません』


俺はアクセルを踏み込んだ。

速度計の針が上がっていく。


「どのくらい早く」


『分かりません。明日かもしれないし、今夜かもしれない。……一時間後かもしれない。データが、追いつかないんです』


声の向こうで、キーボードを叩く音が聞こえた。必死で何かを確認しているのだろう。


『とにかく、沿岸部から離れてください。できるだけ早く、高い場所へ。……お願いします』


最後の言葉は、科学者としてではなく、一人の人間としての声に聞こえた。


「分かった」


俺は電話を切った。


凛が、俺を見ていた。

顔が青ざめている。


「迅くん。今の電話……」


「ああ」


俺は前を見たまま答えた。


「地震が、近い」


凛の息を呑む音が聞こえた。


「急ぐぞ。シートベルト、しっかり締めろ」


「……うんっ」


俺はアクセルをさらに踏み込んだ。

フロントガラスの向こうに、山が見えていた。内陸部。高い場所。


間に合え。


頼むから、間に合ってくれ。


────────────────────────────────


【第15章 終】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ