表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
沈みゆく列島で、君と  作者: シュバ起きエクスカリバー


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/24

第14章「送り火」

第14章「送り火」

【海野凛視点】

────────────────────────────────


夜が、明けようとしていた。


私は、自分の部屋の窓から海を見ていた。

六月の夜明け。水平線が、少しずつ白んでいく。


昨夜、迅くんに電話をした。

『決めた』と言った。『明日会いたい』と。


でも——本当は、まだ決められていなかった。

口から出た言葉が、自分を追い込んだだけだった。


逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ち。

どっちも本当で、どっちも嘘みたいで、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。


────────────────────────────────


朝食の準備をしていると、おばあちゃんが起きてきた。


「凛、早いねえ」


「うん。ちょっと、眠れなくて」


おばあちゃんは、私の顔をじっと見た。

何も言わなかった。でも、分かっているような目だった。


「今日、迅ちゃんが来るんだろう」


「……うん」


「そうかい」


おばあちゃんは、食卓についた。

私は、味噌汁をよそいながら、言葉を探していた。


「おばあちゃん」


「何だい」


「……私、どうしたらいいか、分からないんです」


声が、掠れた。

おばあちゃんは、黙って私を見ていた。


「この町を離れたくない。お父さんとお母さんの思い出が、全部ここにあるから」


「……」


「でも、迅くんは逃げろって言う。地震が来るって。ここにいたら死ぬかもしれないって」


味噌汁の椀を握る手に、力が入った。


「おばあちゃんは、どうするの」


おばあちゃんは答えなかった。

窓の外を見た。朝日が差し込んで、しわだらけの顔を照らしていた。


「私は、ここに残るよ」


その声は、静かだった。


「おばあちゃん——」


「八十二年、この町で生きてきた。じいさんもここで死んだ。私も、ここで終わりたい」


おばあちゃんは、私を見た。


「でもね、凛」


「……」


「お前は、行きなさい」


────────────────────────────────


おばあちゃんの言葉が、頭から離れなかった。


——お前は、行きなさい。


どうして。

私だって、この町で生まれた。この町で育った。おばあちゃんと同じだ。


朝食の後、私は診療所に向かった。

高橋先生に、会いたかった。


先生なら、何か——答えをくれるかもしれない。

そう思った自分が、情けなかった。誰かに背中を押してもらわないと、決められない自分が。


────────────────────────────────


診療所は、いつもより静かだった。

待合室には、誰もいない。避難が始まって、患者の多くが町を離れたのだろう。


消毒液の匂いが、鼻をついた。子どもの頃、熱を出して連れてこられた時と同じ匂い。


奥の診察室から、先生の声が聞こえた。


「——凛ちゃんか。入りなさい」


私は、診察室のドアを開けた。


高橋先生は、机に向かって書類を整理していた。

白衣。白髪。穏やかな目。

八年前から、ずっと変わらない。


「先生」


「どうした。顔色が悪いな」


「……先生は、逃げないんですか」


先生の手が、止まった。


「今朝、診療所の前で消防団の人に会って……先生は避難しないって、聞きました」


「……ああ」


先生は、椅子を回して私の方を向いた。


「座りなさい」


私は、診察用の丸椅子に座った。


「凛ちゃん」


「はい」


「私は、この町に残る。患者を置いて逃げるわけにはいかないからね」


先生の声は、穏やかだった。


「まだ何人か、動けない患者がいる。寝たきりの人もいる。その人たちを置いて、私だけ逃げるわけにはいかない」


「……」


「それに——私ももう七十五だ。残りの人生を、どこで過ごすかは自分で決めたい」


先生は、窓の外を見た。


「この町で生まれて、この町で医者をやって、この町で死ぬ。それが、私の人生だ」


私は、黙っていた。

おばあちゃんと、似たことを言っている。


——ここで終わりたい。


それが、この町に残る人たちの答えなのか。


「でもね、凛ちゃん」


先生が、私を見た。


「君には、まだ時間がある」


おばあちゃんとは、違う言い方だった。


「どういう意味ですか」


「私やトメさんは、人生のほとんどを生きた。でも君は、まだ十八だ。人生は、これからなんだよ」


先生は、立ち上がった。

そして、私の前に立った。


「君のお父さんとお母さんは、私の友人だった」


「……」


「二人とも、君のことをとても愛していた。君が生まれた時、お父さんは泣いて喜んでいたよ」


胸の奥が、きゅっと締まった。


「二人が生きていたら——何と言うと思う?」


答えようとして、言葉が出なかった。


「『凛、逃げろ』と言うよ。間違いなく」


先生の目が、真っ直ぐに私を見ていた。


「君が生きていれば、二人の記憶も生き続ける。君が死んだら、二人の記憶も一緒に消える」


「……」


「この町を離れても、君の中に二人は生きている。忘れるわけがないだろう」


視界が、滲んだ。

頬を何かが伝っていくのを、止められなかった。


「先生……っ」


「泣いていいよ。泣きなさい」


先生は、私の頭をそっと撫でた。

八年前、両親の葬儀の後にも、同じようにしてくれた。


あの時も、私はこの人の前で泣いた。

今日も——同じだった。子どものように、しゃくり上げながら。


────────────────────────────────


診療所を出た時、空は青く晴れていた。

六月の陽射しが、眩しかった。


私は、海沿いの道を歩いた。

防波堤の向こうに、海が広がっている。潮の匂いが、風に乗って流れてくる。


いつもと同じ、この町の景色。


——私には、まだ時間がある。


おばあちゃんも、先生も、同じことを伝えようとしていた。

言い方は違っても、意味は同じだった。


おばあちゃんは、八十二年をこの町で生きた。先生は、七十五年をこの町で生きた。

二人には、ここで終わる覚悟がある。


でも、私は——まだ十八年しか生きていない。

人生は、これからだ。


先生の言葉が、蘇る。


——君が生きていれば、二人の記憶も生き続ける。


そうだ。

私が生きていれば、お父さんとお母さんの記憶を、誰かに伝えられる。

この町のことを、誰かに話せる。


海の匂いを、潮風を、漁港の朝を、夕焼けを——全部、覚えていられる。


でも、私が死んだら。

全部、消える。

お父さんとお母さんの記憶も。この町の記憶も。全部。


——それは、嫌だ。


私は、立ち止まった。

海を見た。


青い海。白い波。いつもと同じ。

でも、今日が——この海を見る最後の日になるかもしれない。


足元の砂利を、波の音が洗っていた。

いつもと同じ音なのに、今日は違って聞こえた。


「……行こう」


私は、呟いた。

声に出したら、胸の中で何かが固まった気がした。


迅くんと一緒に、この町を出よう。

生きよう。

お父さんとお母さんの分まで。


——でも、おばあちゃんを置いていくことになる。


その事実が、喉の奥に刺さった。

逃げたい。でも、置いていきたくない。

分かってる。分かってるけど、どうすればいい。


答えは出なかった。

出ないまま、私は家に向かって歩き出した。


────────────────────────────────


家に戻ると、おばあちゃんが縁側に座っていた。

庭の紫陽花を、眺めていた。


青と紫のグラデーション。今年も、綺麗に咲いた。


「おばあちゃん」


「おかえり」


私は、おばあちゃんの隣に座った。


「……決めたよ」


おばあちゃんが、私を見た。


「私、逃げる。迅くんと一緒に、この町を出る」


言葉にしたら、胸が痛かった。

逃げる。この言葉が、こんなに重いなんて思わなかった。


おばあちゃんは、何も言わなかった。

ただ、目に光るものが浮かんでいた。

でも——口元は、笑っていた。


「……よく決めたね」


その声は、震えていた。


「おばあちゃん——」


「私は、ここに残る。でも、お前は行きなさい」


おばあちゃんは、私の手を取った。

しわだらけの、温かい手。


「お前のお父さんとお母さんは、お前を守るために死んだんだよ」


「……え?」


心臓が、止まった気がした。


「津波が来た時、二人は魚市場にいた。逃げる時間はあったはずだ」


おばあちゃんの声が、掠れた。


「でも、二人は戻ってきた。お前を迎えに、学校に戻ろうとした」


息が、できなかった。


「途中で、津波に呑まれた。二人とも、手を繋いで——お前のところに、戻ろうとしていたんだ」


知らなかった。

八年間、知らなかった。

どうして、誰も教えてくれなかったの。


——教えられなかったんだ。私に、背負わせたくなかったんだ。


「だから、お前は生きなさい」


おばあちゃんが、私を抱きしめた。


「二人が守った命を、無駄にしちゃいけない。生きて、幸せになりなさい」


「おばあちゃん……っ」


私は、おばあちゃんにしがみついた。

声を上げた。子どもみたいに。


おばあちゃんの匂い。線香と、畳と、干した布団の匂い。この家の匂い。

全部、覚えておこう。

絶対に、忘れない。


泣きながら、そう思った。


────────────────────────────────


午後三時。


玄関の外で、車の音がした。

私は、窓から外を見た。


レンタカーが、停まっていた。

運転席から、迅くんが降りてきた。


目が合った。

その目に、何かが揺れていた。不安なのか、期待なのか、分からない。


私は、深呼吸をした。

目元を手の甲で拭って、玄関を開けた。


迅くんが、こちらを見ていた。


「迅くん」


私は、笑った。

泣いた後で、きっと顔がひどいことになってる。でも、いい。


「私、行きますね」


迅くんの目が、わずかに見開かれた。


「この町を出る。迅くんと一緒に、逃げます」


迅くんは、何も言わなかった。

ただ、黙って頷いた。


その目に、安堵のようなものが浮かんだ気がした。

肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。


「……ありがとう」


迅くんの声は、かすれていた。


「ありがとう、凛」


私は、首を横に振った。


「お礼を言うのは、私の方ですよ」


迅くんが、私を見た。


「迅くんが来てくれたから、決められたんです。一人じゃ、絶対に無理でした」


泣いた後なのに、また目頭が熱くなった。

でも、今度は——悲しいからじゃなかった。


「だから——これからも、よろしくお願いしますねっ」


迅くんは、黙っていた。

でも、その目が——少しだけ、柔らかくなった。


────────────────────────────────


【第14章 終】


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ