第14章「送り火」
第14章「送り火」
【海野凛視点】
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夜が、明けようとしていた。
私は、自分の部屋の窓から海を見ていた。
六月の夜明け。水平線が、少しずつ白んでいく。
昨夜、迅くんに電話をした。
『決めた』と言った。『明日会いたい』と。
でも——本当は、まだ決められていなかった。
口から出た言葉が、自分を追い込んだだけだった。
逃げたい気持ちと、逃げたくない気持ち。
どっちも本当で、どっちも嘘みたいで、胸の奥がぐちゃぐちゃだった。
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朝食の準備をしていると、おばあちゃんが起きてきた。
「凛、早いねえ」
「うん。ちょっと、眠れなくて」
おばあちゃんは、私の顔をじっと見た。
何も言わなかった。でも、分かっているような目だった。
「今日、迅ちゃんが来るんだろう」
「……うん」
「そうかい」
おばあちゃんは、食卓についた。
私は、味噌汁をよそいながら、言葉を探していた。
「おばあちゃん」
「何だい」
「……私、どうしたらいいか、分からないんです」
声が、掠れた。
おばあちゃんは、黙って私を見ていた。
「この町を離れたくない。お父さんとお母さんの思い出が、全部ここにあるから」
「……」
「でも、迅くんは逃げろって言う。地震が来るって。ここにいたら死ぬかもしれないって」
味噌汁の椀を握る手に、力が入った。
「おばあちゃんは、どうするの」
おばあちゃんは答えなかった。
窓の外を見た。朝日が差し込んで、しわだらけの顔を照らしていた。
「私は、ここに残るよ」
その声は、静かだった。
「おばあちゃん——」
「八十二年、この町で生きてきた。じいさんもここで死んだ。私も、ここで終わりたい」
おばあちゃんは、私を見た。
「でもね、凛」
「……」
「お前は、行きなさい」
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おばあちゃんの言葉が、頭から離れなかった。
——お前は、行きなさい。
どうして。
私だって、この町で生まれた。この町で育った。おばあちゃんと同じだ。
朝食の後、私は診療所に向かった。
高橋先生に、会いたかった。
先生なら、何か——答えをくれるかもしれない。
そう思った自分が、情けなかった。誰かに背中を押してもらわないと、決められない自分が。
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診療所は、いつもより静かだった。
待合室には、誰もいない。避難が始まって、患者の多くが町を離れたのだろう。
消毒液の匂いが、鼻をついた。子どもの頃、熱を出して連れてこられた時と同じ匂い。
奥の診察室から、先生の声が聞こえた。
「——凛ちゃんか。入りなさい」
私は、診察室のドアを開けた。
高橋先生は、机に向かって書類を整理していた。
白衣。白髪。穏やかな目。
八年前から、ずっと変わらない。
「先生」
「どうした。顔色が悪いな」
「……先生は、逃げないんですか」
先生の手が、止まった。
「今朝、診療所の前で消防団の人に会って……先生は避難しないって、聞きました」
「……ああ」
先生は、椅子を回して私の方を向いた。
「座りなさい」
私は、診察用の丸椅子に座った。
「凛ちゃん」
「はい」
「私は、この町に残る。患者を置いて逃げるわけにはいかないからね」
先生の声は、穏やかだった。
「まだ何人か、動けない患者がいる。寝たきりの人もいる。その人たちを置いて、私だけ逃げるわけにはいかない」
「……」
「それに——私ももう七十五だ。残りの人生を、どこで過ごすかは自分で決めたい」
先生は、窓の外を見た。
「この町で生まれて、この町で医者をやって、この町で死ぬ。それが、私の人生だ」
私は、黙っていた。
おばあちゃんと、似たことを言っている。
——ここで終わりたい。
それが、この町に残る人たちの答えなのか。
「でもね、凛ちゃん」
先生が、私を見た。
「君には、まだ時間がある」
おばあちゃんとは、違う言い方だった。
「どういう意味ですか」
「私やトメさんは、人生のほとんどを生きた。でも君は、まだ十八だ。人生は、これからなんだよ」
先生は、立ち上がった。
そして、私の前に立った。
「君のお父さんとお母さんは、私の友人だった」
「……」
「二人とも、君のことをとても愛していた。君が生まれた時、お父さんは泣いて喜んでいたよ」
胸の奥が、きゅっと締まった。
「二人が生きていたら——何と言うと思う?」
答えようとして、言葉が出なかった。
「『凛、逃げろ』と言うよ。間違いなく」
先生の目が、真っ直ぐに私を見ていた。
「君が生きていれば、二人の記憶も生き続ける。君が死んだら、二人の記憶も一緒に消える」
「……」
「この町を離れても、君の中に二人は生きている。忘れるわけがないだろう」
視界が、滲んだ。
頬を何かが伝っていくのを、止められなかった。
「先生……っ」
「泣いていいよ。泣きなさい」
先生は、私の頭をそっと撫でた。
八年前、両親の葬儀の後にも、同じようにしてくれた。
あの時も、私はこの人の前で泣いた。
今日も——同じだった。子どものように、しゃくり上げながら。
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診療所を出た時、空は青く晴れていた。
六月の陽射しが、眩しかった。
私は、海沿いの道を歩いた。
防波堤の向こうに、海が広がっている。潮の匂いが、風に乗って流れてくる。
いつもと同じ、この町の景色。
——私には、まだ時間がある。
おばあちゃんも、先生も、同じことを伝えようとしていた。
言い方は違っても、意味は同じだった。
おばあちゃんは、八十二年をこの町で生きた。先生は、七十五年をこの町で生きた。
二人には、ここで終わる覚悟がある。
でも、私は——まだ十八年しか生きていない。
人生は、これからだ。
先生の言葉が、蘇る。
——君が生きていれば、二人の記憶も生き続ける。
そうだ。
私が生きていれば、お父さんとお母さんの記憶を、誰かに伝えられる。
この町のことを、誰かに話せる。
海の匂いを、潮風を、漁港の朝を、夕焼けを——全部、覚えていられる。
でも、私が死んだら。
全部、消える。
お父さんとお母さんの記憶も。この町の記憶も。全部。
——それは、嫌だ。
私は、立ち止まった。
海を見た。
青い海。白い波。いつもと同じ。
でも、今日が——この海を見る最後の日になるかもしれない。
足元の砂利を、波の音が洗っていた。
いつもと同じ音なのに、今日は違って聞こえた。
「……行こう」
私は、呟いた。
声に出したら、胸の中で何かが固まった気がした。
迅くんと一緒に、この町を出よう。
生きよう。
お父さんとお母さんの分まで。
——でも、おばあちゃんを置いていくことになる。
その事実が、喉の奥に刺さった。
逃げたい。でも、置いていきたくない。
分かってる。分かってるけど、どうすればいい。
答えは出なかった。
出ないまま、私は家に向かって歩き出した。
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家に戻ると、おばあちゃんが縁側に座っていた。
庭の紫陽花を、眺めていた。
青と紫のグラデーション。今年も、綺麗に咲いた。
「おばあちゃん」
「おかえり」
私は、おばあちゃんの隣に座った。
「……決めたよ」
おばあちゃんが、私を見た。
「私、逃げる。迅くんと一緒に、この町を出る」
言葉にしたら、胸が痛かった。
逃げる。この言葉が、こんなに重いなんて思わなかった。
おばあちゃんは、何も言わなかった。
ただ、目に光るものが浮かんでいた。
でも——口元は、笑っていた。
「……よく決めたね」
その声は、震えていた。
「おばあちゃん——」
「私は、ここに残る。でも、お前は行きなさい」
おばあちゃんは、私の手を取った。
しわだらけの、温かい手。
「お前のお父さんとお母さんは、お前を守るために死んだんだよ」
「……え?」
心臓が、止まった気がした。
「津波が来た時、二人は魚市場にいた。逃げる時間はあったはずだ」
おばあちゃんの声が、掠れた。
「でも、二人は戻ってきた。お前を迎えに、学校に戻ろうとした」
息が、できなかった。
「途中で、津波に呑まれた。二人とも、手を繋いで——お前のところに、戻ろうとしていたんだ」
知らなかった。
八年間、知らなかった。
どうして、誰も教えてくれなかったの。
——教えられなかったんだ。私に、背負わせたくなかったんだ。
「だから、お前は生きなさい」
おばあちゃんが、私を抱きしめた。
「二人が守った命を、無駄にしちゃいけない。生きて、幸せになりなさい」
「おばあちゃん……っ」
私は、おばあちゃんにしがみついた。
声を上げた。子どもみたいに。
おばあちゃんの匂い。線香と、畳と、干した布団の匂い。この家の匂い。
全部、覚えておこう。
絶対に、忘れない。
泣きながら、そう思った。
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午後三時。
玄関の外で、車の音がした。
私は、窓から外を見た。
レンタカーが、停まっていた。
運転席から、迅くんが降りてきた。
目が合った。
その目に、何かが揺れていた。不安なのか、期待なのか、分からない。
私は、深呼吸をした。
目元を手の甲で拭って、玄関を開けた。
迅くんが、こちらを見ていた。
「迅くん」
私は、笑った。
泣いた後で、きっと顔がひどいことになってる。でも、いい。
「私、行きますね」
迅くんの目が、わずかに見開かれた。
「この町を出る。迅くんと一緒に、逃げます」
迅くんは、何も言わなかった。
ただ、黙って頷いた。
その目に、安堵のようなものが浮かんだ気がした。
肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
「……ありがとう」
迅くんの声は、かすれていた。
「ありがとう、凛」
私は、首を横に振った。
「お礼を言うのは、私の方ですよ」
迅くんが、私を見た。
「迅くんが来てくれたから、決められたんです。一人じゃ、絶対に無理でした」
泣いた後なのに、また目頭が熱くなった。
でも、今度は——悲しいからじゃなかった。
「だから——これからも、よろしくお願いしますねっ」
迅くんは、黙っていた。
でも、その目が——少しだけ、柔らかくなった。
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【第14章 終】




