第13章「届かない声」
※全体的に少し心理描写を増やす感じでリライトを行いました。一部キャラの口調も少し変更。
第13章「届かない声」
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翌朝〇六〇〇、浜松基地。
格納庫の前に、俺たちは整列していた。
六月の朝は、すでに蒸し暑い。防暑服の下で、汗が滲み始めている。
目の前には、三機のUH-60J。救難ヘリ。俺の相棒。
今日から七十二時間。この機体で、一人でも多くの人間を運ぶ。
「——本日より、緊急輸送任務を開始する」
隊長の声が、格納庫に響いた。
「対象地域は駿河湾沿岸部および伊豆半島東部。約八十万人の避難民を、内陸部の避難所へ輸送する。我々の担当は、沿岸部の孤立集落および高齢者施設からの優先輸送だ」
孤立集落。高齢者施設。
——つまり、自力で逃げられない人たちだ。
「各機、〇七〇〇に離陸。第一便の目的地は、西伊豆の戸田地区。質問は」
誰も、声を上げなかった。
「では、各自準備にかかれ」
整列が解かれる。
俺は、自分の機体に向かって歩き出した。
「神谷三佐」
背後から、声がかかった。
振り向くと、田村がいた。副操縦士。三年前から、俺と組んでいる。
「準備、できてます」
「ああ」
「……三佐」
田村が、一瞬だけ躊躇った。
「昨日の外出届……行き先、対象地域でしたよね。知り合いが、いるんですか」
俺は、田村を見た。
外出届。行き先は確かに、凛の町の近くと書いた。
——見ていたのか。
「……ああ」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
俺は、短く答えた。
「俺がやるべきことは、変わらない」
田村は、何か言いたそうな顔をしていた。
でも、それ以上は聞かなかった。
「了解です。行きましょう」
俺たちは、機体に乗り込んだ。
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〇七〇〇、離陸。
浜松基地を発ち、南西へ。駿河湾を横切り、伊豆半島へ向かう。
眼下に、海が広がっていた。
六月の駿河湾。青く、穏やかに見える。
——この下で、何が起きているのか。
杉浦の言葉が、頭をよぎった。
プレート境界が滑り始めている。海底で、巨大な力が蓄積されている。
この穏やかな海が、いつ牙を剥くか分からない。
「神谷三佐、戸田地区まであと十分です」
田村の声が、ヘッドセット越しに聞こえた。
「了解」
俺は、操縦桿を握り直した。
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〇七四五、戸田地区上空。
眼下に、小さな港町が見えた。
入り江に沿って、古い家々が並んでいる。漁港。防波堤。山に囲まれた、小さな集落。
——凛の町と、似ている。
そう思った瞬間、胸の奥が締め付けられた。
振り払う。今は、目の前の任務に集中しろ。
ヘリポートは、集落の外れにある小学校のグラウンドだった。
着陸態勢に入る。
グラウンドには、すでに人が集まっていた。老人が多い。車椅子の人もいる。
そして——その周囲で、消防団員や役場の職員が、誘導に当たっていた。
着陸。
ローターの回転を落とし、キャビンのドアを開ける。
熱気と、潮の匂いが流れ込んできた。
「神谷三佐、こちらは戸田地区の避難対象者です」
役場の職員が、駆け寄ってきた。三十代の男。顔に疲労が滲んでいる。
「第一便は十二名。高齢者と、自力歩行が困難な方を優先しています」
「分かった。乗せてくれ」
避難者たちが、一人ずつキャビンに乗り込んでくる。
車椅子の老婆。杖をついた老人。抱えられるようにして歩く女性。
誰もが、黙っていた。
泣いている人もいなかった。
ただ——その目には、何かが欠けていた。
諦め。あるいは、空虚。
故郷を離れる人間の目だ。
俺は、それを知っている。
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第一便を飛ばし、内陸の避難所へ。
十二名を降ろし、すぐに戸田地区へ戻る。
第二便。第三便。
同じことを、繰り返す。
乗せて、飛んで、降ろして、戻る。
単純な作業。でも、その一回一回に、人の人生がある。
昼を過ぎた頃、異変が起きた。
「神谷三佐」
田村が、声を上げた。
「グラウンドに、乗らないと言ってる人がいるみたいです」
俺は、窓の外を見た。
グラウンドの端で、消防団員と老人が、何か言い合っている。
老人は、首を横に振り続けていた。
「……着陸する」
俺は、機体を降ろした。
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グラウンドに降り立つと、すぐに状況が分かった。
老人は、七十代後半くらいだろうか。痩せた体。日に焼けた顔。漁師だったのだろう、と直感で分かった。
「おじいちゃん、お願いだから——」
消防団員が、懇願するように言っていた。
「嫌だ」
老人は、頑として動かなかった。
「わしは、ここを離れん。死んでも、ここにおる」
「でも、地震が来たら——」
「来たら来たで、そん時はそん時だ」
老人の声には、迷いがなかった。
俺は、二人の間に割って入った。
「俺が話す」
消防団員が、俺を見た。自衛隊の制服を見て、少しだけ安堵したような顔をした。
「お願いします……」
消防団員が、下がる。
俺は、老人の前に立った。
「じいさん」
「何だ」
老人は、俺を睨んだ。
「逃げろと言いに来たのか。無駄だぞ」
「なぜだ」
「なぜ?」
老人は、鼻で笑った。
「わしは、この町で生まれた。この海で育った。親父も、じいさんも、そのまたじいさんも、みんなこの海で生きて、この海で死んだ」
老人は、海の方を見た。
「わしも、そうする。それだけだ」
「……」
「お前さんには、分からんだろう。都会から来た若いもんには」
俺は、黙っていた。
分からない?
——いや、分かる。
痛いほど、分かる。
「じいさん」
「何だ」
「俺にも、故郷がある」
老人が、俺を見た。
「この近くだ。同じような港町だ。海があって、山があって、古い家が並んでる」
「……」
「俺の両親も、その町で死んだ。八年前の津波で」
老人の目が、わずかに揺れた。
「俺は、その時そこにいなかった。助けに行けなかった。母親の最後の電話にも、出られなかった」
言葉が、喉を焼いた。
こんなことを、見ず知らずの老人に話すつもりはなかった。
でも——言わなければ、この人には届かない。
「だから、分かる。あんたの気持ちは、分かる」
「……」
「でも、だからこそ言う。逃げてくれ」
俺は、老人の目を見た。
「あんたが死んだら、悲しむ人がいる。残された人間は、一生それを背負う。俺みたいに」
老人は、黙っていた。
長い沈黙が、流れた。
やがて——老人は、首を横に振った。
「……すまんな」
その声は、静かだった。
「お前さんの気持ちは、分かる。でも、わしはここを離れん」
「じいさん——」
「わしには、もう残された時間がない。どうせ長くはないんだ」
老人は、海を見た。
「なら、この海で終わりたい。それが、わしの望みだ」
俺は、拳を握りしめていた。
気づいたら、握りしめていた。
——届かない。
言葉が、届かない。
「じいさん、頼む」
俺の声が、震えた。
「死ぬな。ここで死ぬな」
「……」
「あんたが死んだら、俺は——」
言葉が、詰まった。
何を言っている。
俺は、この人を知らない。名前も、人生も、何も知らない。
でも——
「俺は、また誰かを救えなかった側になる」
老人が、俺を見た。
その目に、何かが浮かんでいた。
憐れみ。あるいは、理解。
「……お前さん、優しいな」
老人は、小さく笑った。
「でもな——お前さんも、本当は分かっとるんだろう」
俺は、息を止めた。
「自分の生まれた土地で終わりたい。そういう気持ちが、あるんだろう」
「……」
「お前さんの目を見りゃ、分かる。同じ目をしとる。わしと、同じ目だ」
言葉が、出なかった。
老人の言葉が、胸の奥に刺さった。
——同じ目。
俺は、逃げろと言っている。生きろと言っている。
でも、本当は——
本当は、俺だって。
あの港町で、両親と一緒に死ねばよかったと思ったことが、何度もあった。
逃げて、生き延びて、取り残された自分が許せなかった。
今も、時々思う。
あの町に帰って、海を見ながら終われたら——どれだけ楽か。
分かっている。分かっているから、この人を止めたい。
でも、分かっているから——止める資格がない。
矛盾だった。どうしようもない、矛盾だった。
「……」
老人は、俺に背を向けた。
「お前さんは、生きろ」
その声は、穏やかだった。
「わしの分まで、誰かを助けてやれ。それが、お前さんの仕事だろう」
老人は、ゆっくりと歩き出した。
海の方へ。
俺の足が、一歩前に出ていた。
追いかけようとした。引き止めようとした。
でも——それ以上、足が動かなかった。
何を言えばいい。何をすればいい。
分からない。分からなかった。
ただ——老人の言葉が、頭の中で響いていた。
わしの分まで、誰かを助けてやれ。
その背中が、小さくなっていく。
俺は、立ち尽くしたまま、それを見ていた。
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午後五時、任務終了。
浜松基地に戻った時、俺は疲れ切っていた。
体の疲れじゃない。心が、削られていた。
今日一日で、四十七人を運んだ。
でも、運べなかった人もいた。
あの老人のように、逃げることを拒んだ人。
戸田地区だけで、三人いた。
三人。たった三人。
でも、その三人の顔が、頭から離れなかった。
——俺に、何ができた。
格納庫で、機体の点検をしていた時だった。
ポケットの中で、携帯電話が震えた。
取り出す。
画面に、名前が表示されていた。
——凛。
心臓が、跳ねた。
電話を取る。
「……凛か」
『迅くん』
凛の声が、聞こえた。
いつもより、静かな声だった。
『私、決めたんです』
一瞬、時間が止まった気がした。
『明日、迅くんに会いたい。話があるんですっ』
俺は、答えられなかった。
凛が、何を決めたのか。
逃げるのか。残るのか。
それは——
『迅くん?』
「……ああ。分かった。明日、行く」
『うん。待ってますね』
電話が、切れた。
俺は、携帯電話を見つめたまま、しばらくそこに立っていた。
指先が、冷たくなっていた。六月の夕方だというのに。
凛が、決めた。
その言葉が、頭の中で響いていた。
——どっちだ。
逃げるのか。残るのか。
あの老人の言葉が、蘇る。
——お前さんも、本当は分かっとるんだろう。
俺は、空を見上げた。
六月の夕空。茜色に染まった雲。
明日、答えが出る。
それが、どんな答えでも——俺は、受け止めなければならない。
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【第13章 終】




