第12章「線を引く者」
第12章「線を引く者」
【東堂葵視点】
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午後四時三十五分。
官邸、危機管理センター。
長いテーブルの端に座っていた。
周囲には、内閣危機管理監、防災担当大臣、国土交通省の幹部、そして官房長官。十人以上の顔が、私の報告を待っている。
空調の音が、やけに大きく聞こえた。蛍光灯の光が白すぎて、目の奥が痛い。
「東堂補佐官。状況を」
官房長官の声が、低く響いた。
手元の資料に目を落とした。
杉浦主任から送られてきたデータ。グラフ。数値。そして——七二パーセントという数字。
「本日午後三時四十分頃、地殻変動観測チームより報告がありました」
顔を上げた。
十人以上の視線が、私に突き刺さる。
「駿河トラフ周辺の海底水圧計で異常な変動が観測され、地震発生確率が七二パーセントに達しました。これは、避難指示発令の条件として定めた七〇パーセントを超過しています」
会議室から、音が消えた。
誰も、声を発しない。ペンを走らせる音すらない。
「観測チームの見解では、このペースが続けば、明日には八〇パーセントを超える可能性があるとのことです。最悪の場合——」
一度言葉を切った。
喉が、乾いていた。
「一週間以内に、マグニチュード七以上の地震が発生する可能性があります」
「一週間——」
防災担当大臣が、呻くように言った。
「それは、確定なのか」
「確定ではありません。あくまで可能性です。もっと早いかもしれないし、もっと遅いかもしれない」
「しかし——」
「ただし」
大臣の言葉を遮った。
「観測チームからは、『最悪を想定すべき』との進言を受けています。私も、同意見です」
会議室に、息の詰まるような空気が落ちた。
誰もが、決断の重さを理解している。理解しているからこそ、口を開けない。
官房長官が、私を見た。
「東堂補佐官。あなたの判断は」
「避難指示を発令すべきだと考えます」
自分でも驚くほど、声が平坦だった。
震えそうになる感情を、どこかで押し殺している。
「対象地域は、駿河湾沿岸部および伊豆半島東部。約八十万人が対象となります」
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議論は、三十分続いた。
経済的影響。社会的混乱。空振りだった場合の政治的責任。
誰もが、「発令すべきではない」とは言わなかった。
しかし、「発令する」と明言する者も、いなかった。
黙って議論を聞いていた。
——この人たちは、決断を避けている。
分かっていた。政治家とは、そういうものだ。
責任を分散させたい。失敗した時に、自分だけが責められないようにしたい。
それは、人間として当然の感情だ。
でも——今は、その余裕がない。
「官房長官」
声を上げた。
議論が、止まった。
「発令の遅れは、死者の増加に直結します」
全員の視線が、私に集まった。
胸の奥で、何かが軋む音がした。怖い。でも——退くわけにはいかない。
「空振りであれば、批判を受ければいい。私が受けます。でも、発令が遅れて死者が出たら——それは取り返しがつきません」
官房長官の目を見据えた。
手が、テーブルの下で震えていた。でも、視線だけは逸らさなかった。
「決断してください。今、ここで」
官房長官は、しばらく私を見つめていた。
その目に、何が映っていたのか分からない。諦めか、信頼か、それとも——責任を押し付けられた苛立ちか。
やがて、小さく頷いた。
「……分かった。発令する」
会議室に、奇妙な空気が流れた。
安堵なのか、覚悟なのか、誰にも分からない。私にも、分からなかった。
「東堂補佐官。手続きを進めてくれ」
「はい」
立ち上がった。
膝が、わずかに震えていた。
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午後五時十五分。
自分のオフィスに戻っていた。
机の上には、一枚の文書が置かれている。
避難指示発令の決裁文書。
私の署名欄が、空白のまま残っていた。
——これに署名すれば、八十万人が動き始める。
家を離れる人。仕事を捨てる人。思い出を置いていく人。
そして——逃げない人も、いるだろう。
神谷三佐の顔が、頭に浮かんだ。
彼には、この対象地域に大切な人がいる。杉浦主任から聞いていた。今朝「私用で外出する」と言って基地を出たこと。行き先は言わなかったが、沿岸部のどこかだと杉浦主任は推測していた。
——あの人は、どんな気持ちで戻ってくるのだろう。
分からない。
私には、分からない。
私には、守りたい人がいない。
その事実が、ふいに重く感じられた。
両親は健在だが、東京にいる。対象地域ではない。恋人もいない。友人も、多くない。
仕事に没頭してきた。それを後悔したことはなかった。でも、今——
神谷三佐には、帰りたい場所がある。守りたい人がいる。だから、あの人はあんなにも真っ直ぐに動ける。
私は、どうだろう。
——私が守りたいのは。
最小の死者で済む結果。
それだけだ。
それが、私の仕事だから。
でも、それは——人を守りたいのか、数字を守りたいのか。
自分でも、分からなくなることがある。
ペンを取った。
署名欄に、自分の名前を書く。
東堂葵。
七画ずつ、ゆっくりと。
書き終えた瞬間——手が震えていることに気づいた。
怖い。
認めたくなかったが、怖かった。
この署名一つで、八十万人の人生が変わる。逃げる人も、逃げない人も。救われる人も、救われない人も。
その線を引いたのは、私だ。
その責任から、逃げることはできない。
ペンを置いた。
震えが、止まらなかった。
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午後六時。
避難指示が、正式に発令された。
対象地域:駿河湾沿岸部および伊豆半島東部の十二市町。
対象人口:約八十万人。
避難先:県内の内陸部避難所、および隣接県の広域避難所。
避難期限:七十二時間以内。
オフィスのテレビを見ていた。
ニュース速報が、画面を流れている。
『政府は本日午後六時、駿河湾沿岸部および伊豆半島東部に避難指示を発令しました——』
アナウンサーの声が、淡々と状況を伝えている。
画面が切り替わる。対象地域の地図。赤く塗られた沿岸部。
——あの中に、何十万人もの人がいる。
今頃、テレビを見ているだろう。スマートフォンに速報が届いているだろう。
そして、選択を迫られている。
逃げるか。残るか。
その選択の重さを、私は知っている。
でも、私にできるのは——線を引くことだけだ。
ここからここまでは逃げろ、と。
その線の引き方一つで、救われる命と、救われない命が分かれる。
——神谷三佐。
携帯電話を取り出した。
彼に、直接伝えるべきだと思った。
発令されたことを。そして——
番号を呼び出す。
コール音が、二回鳴った。
『——東堂補佐官か』
神谷三佐の声が、聞こえた。
「神谷三佐。今、どちらですか」
『浜松基地だ。さっき着いた』
「そうですか」
一度息を吸った。
「避難指示が、発令されました。先ほど、午後六時に」
『……ああ。ニュースで見た』
神谷三佐の声には、感情が見えなかった。
怒りも、悲しみも。
ただ——重かった。何かを押し殺しているような、そんな重さ。
「神谷三佐」
『何だ』
「明日から、輸送任務が始まります。あなたには、現場で動いてもらうことになる」
『分かってる』
「厳しい任務になります。対象人口は八十万人。七十二時間以内に、できるだけ多くの人を——」
『東堂補佐官』
神谷三佐が、私の言葉を遮った。
「何ですか」
『あんたの仕事は、終わったのか』
一瞬だけ、言葉に詰まった。
「……いいえ。まだです」
『なら、俺に構ってる暇はないだろう』
その声には、皮肉はなかった。
ただ、事実を述べているだけだった。
『俺は俺の仕事をする。あんたはあんたの仕事をしろ』
「……はい」
『発令してくれて、ありがとう』
息を呑んだ。
ありがとう。
その言葉を、この状況で聞くとは思わなかった。
胸の奥で、何かが揺れた。安堵とも、困惑とも違う。名前のつけられない感情だった。
「……どういう意味ですか」
『空振りを恐れずに、発令した。それは——正しい判断だ』
神谷三佐の声が、わずかに柔らかくなった。
『あんたが決断しなきゃ、誰も決断しなかった。それは、分かってる』
「……」
『だから、ありがとう。俺の代わりに、嫌われ役を引き受けてくれて』
嫌われ役。
その言葉が、胸に刺さった。
私が、以前言った言葉だ。
覚えていてくれたのか。
目頭が、熱くなった。
泣くな。泣いてどうする。
「神谷三佐」
『何だ』
「……お互い、生き残りましょう」
我ながら、妙な言葉だと思った。
でも、他に何を言えばいいか分からなかった。
電話の向こうで、神谷三佐が小さく笑う気配がした。
『ああ。生き残る』
電話が、切れた。
携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
テレビからは、まだニュースが流れている。
避難指示。八十万人。七十二時間。
数字が、淡々と読み上げられていく。
でも、その数字の一つ一つに——人がいる。
窓の外を見た。
東京の夜景。無数の明かり。ビルの谷間に、車のヘッドライトが流れていく。
この街は、まだ何も知らない。
いつもと同じ夜を過ごしている。
でも、百キロ先では——今、人々が動き始めている。
荷物をまとめている人。家族に連絡を取っている人。逃げないと決めた人。
その全員に、私の署名が影響している。
椅子に深く座り直した。
仕事は、まだ終わっていない。
これからが、本当の始まりだ。
——神谷三佐。あなたの大切な人が、無事でありますように。
誰にも聞こえないように、心の中で呟いた。
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【第12章 終】




