第11章「七〇パーセント」
第11章 七〇パーセント
【杉浦沙耶視点】
午後二時十五分。
内閣府・地殻変動観測チーム本部。
私は、モニターの前に座っていた。
画面には、駿河トラフ周辺のリアルタイムデータが流れている。地震計の波形。GPS観測点の変位。海底水圧計の数値。
どれも、見慣れた画面だ。
でも、今日は——違う。
エアコンの低い唸りが、やけに耳につく。空調は効いているはずなのに、首筋に汗が滲んでいた。
「杉浦主任」
山崎が、私の隣に立った。
その声が、緊張で硬くなっているのが分かった。
「新しいシミュレーション結果、出ました」
「見せて」
山崎が、キーボードを叩く。
画面が切り替わった。
グラフ。数値。色分けされた地図。
その中央に、一つの数字が表示されていた。
——六八パーセント。
「……昨日から、八ポイント上昇」
山崎が、呟いた。
「このペースだと——」
「分かってる」
私は、画面を見つめたまま答えた。
六八パーセント。
あと二ポイントで、七〇パーセントに達する。
七〇パーセント。それが、避難指示発令のトリガーだった。
昨日の会議で、東堂補佐官が言った言葉を思い出す。
——地震発生確率が七〇パーセントを超えた段階、または、顕著な前兆現象が観測された段階で、避難指示を発令します。
あと二ポイント。
早ければ、今日中にも——
◆
午後三時四十分。
私は、コーヒーを淹れに席を立った。
本部の隅にある小さな給湯室。自動販売機と、古びたコーヒーメーカー。
カップにコーヒーを注ぎながら、窓の外を見た。
六月の午後。東京の空は曇っていた。
高層ビルの谷間から覗く雲が、鉛色に沈んでいる。
——神谷三佐、今頃どうしてるだろう。
ふと、そんなことを考えている自分に気づいた。
今朝、メッセージが来ていた。
『私用で外出する。夕方には基地に戻る』
私用。それが何か、聞かなかった。聞く立場でもないと思った。
でも、何となく分かっていた。
あの人には、守りたい人がいる。この国が沈むかもしれないと知っても、まずそこへ行く人だ。
——私には、そういう人がいない。
ふと、そう思った。
思ってから、自分でも意外だった。科学者として冷静を保っていたつもりなのに、こんな感傷的なことを考えている。
両親は健在だが、遠くに住んでいる。恋人もいない。友人は多くない。
私が守りたいのは、何だろう。
データ。予報。科学的な正確さ。
それが誰かの命を救うことに繋がるなら——それが、私の答えだった。
……本当に、それだけ?
自問が、胸の奥で反響した。
答えなんて出ない。出ないまま、コーヒーを一口飲んだ。苦い。砂糖を入れ忘れていた。
給湯室を出ようとした時、廊下の向こうから山崎が走ってきた。
「杉浦主任!」
息を切らしている。顔が、青ざめていた。
「どうしたの」
「数値が——数値が、急に——」
私は、コーヒーカップをカウンターに置いた。
走った。
◆
モニターの前に戻った時、本部には既に数人の職員が集まっていた。
みんな、画面を見つめている。誰も、声を発していない。
静まり返った部屋に、機器のファンの音だけが回っていた。
私は、中央のモニターを見た。
グラフが、急激に跳ね上がっていた。
海底水圧計の数値。駿河トラフ沿いの観測点で、異常な変動が検出されている。
「これは——」
「三十分前から、急に変わり始めました」
山崎が、掠れた声で言った。
「海底の圧力が、不規則に変動しています。プレート境界で、何かが——」
「シミュレーション、回して」
「もう回してます。結果は——」
山崎が、キーボードを叩いた。
画面が、切り替わった。
新しい数字が、そこにあった。
——七二パーセント。
指先が、冷たくなった。
心臓が、一瞬止まったような気がした。そして、次の瞬間——激しく打ち始めた。
七二パーセント。
一時間で、四ポイント上昇。
七〇パーセントを、超えた。
怖い。
科学者として、何度も数字を見てきた。確率を計算してきた。でも、この数字を見た瞬間——理屈じゃなく、体が震えた。
「山崎くん」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
震えそうになる声を、無理やり抑え込んでいた。
「東堂補佐官に連絡して。今すぐ」
「は、はい」
山崎が、電話に飛びついた。
私は、モニターを見つめていた。
七二パーセント。
もう、止められない。
避難指示が、発令される。
八十万人が、動き始める。
——間に合うのか。
その問いに、私は答えを持っていなかった。
持っていないことが、怖かった。科学者なのに、答えがない。予測はできても、確信はない。
いつもなら、それでいいと思っていた。科学とはそういうものだ。不確実性を受け入れて、それでも最善の判断を下す。
でも今は——その不確実性の向こうに、八十万人の命がある。
◆
午後四時二十分。
東堂補佐官から、折り返しの電話が入った。
私は、受話器を取った。
「杉浦です」
『東堂です。報告を』
東堂の声は、いつも通り冷静だった。
「確率が七二パーセントに達しました。海底水圧計で異常な変動が観測されています」
『七〇パーセント超過、ということですね』
「はい。避難指示発令の条件を満たしています」
電話の向こうで、一瞬だけ沈黙があった。
『……了解しました。官邸に報告します。発令の手続きを進めます』
「お願いします」
『杉浦主任』
「はい」
『今後の予測は』
私は、モニターに目を戻した。
数値は、まだ上昇を続けていた。
「……正直に言います。分かりません。ただ、上昇のペースが加速しています。このままいけば、明日には八〇パーセントを超える可能性があります」
『八〇パーセント』
東堂の声が、わずかに硬くなった。
「最悪の場合、一週間以内にM7以上の地震が発生する可能性があります」
『一週間——』
「あくまで可能性です。もっと早いかもしれないし、もっと遅いかもしれない。でも——」
私は、言葉を切った。
言うべきか、迷った。
でも、言わなければならない。科学者として、曖昧にしていいことではない。
「東堂補佐官。今回ばかりは、最悪を想定した方がいいと思います」
電話の向こうで、東堂が息を吐く音が聞こえた。
『……承知しました。最悪を想定します』
「お願いします」
『神谷三佐に連絡は』
「これから入れます」
『お願いします。彼には、現場で動いてもらうことになる』
電話が、切れた。
私は、受話器を置いた。
そして、携帯電話を取り出した。
神谷三佐の番号を呼び出す。
コール音が、三回鳴った。
『——杉浦か』
神谷三佐の声が、聞こえた。
低い声。少しだけ、疲れているような——いや、違う。何かを抱えているような声。
「神谷三佐。今、どちらですか」
『浜松に向かってる。あと三十分くらいで着く』
浜松。基地に戻る途中。ということは——あの人のところに、行っていたのだろう。
「着いたら、すぐに本部に来てください」
『何かあったのか』
私は、一瞬だけ躊躇った。
電話で言うべきか。直接会って言うべきか。
でも、この人には——隠さない方がいい。
「確率が、七〇パーセントを超えました」
電話の向こうで、沈黙が落ちた。
「避難指示が、発令されます」
『……そうか』
神谷三佐の声は、静かだった。
動揺しているのか、覚悟していたのか。電話越しでは、分からなかった。
「神谷三佐」
『何だ』
「……っ」
言葉が、喉の奥でつかえた。
大丈夫ですか、と聞こうとした。
でも、それは——馬鹿な質問だ。大丈夫なわけがない。この人の大切な人がいる町にも、避難指示が出る。
なのに、聞きたかった。聞かずにいられなかった。
自分でも、どうしてそんなことを聞きたくなるのか分からない。いや——分かっているのに、認めたくないだけだ。
「……何でもないです」
結局、そう言った。
『杉浦』
「はい」
『俺は、大丈夫だ』
神谷三佐が、先に言った。
私の聞けなかった問いに、答えるように。
『俺がやるべきことは、変わらない』
その声には、何か——覚悟のようなものがあった。
重くて、静かで、でもどこか——痛々しい響き。
「……了解しました。お待ちしています」
『ああ』
電話が、切れた。
私は、携帯電話を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
——やるべきことは、変わらない。
その言葉が、頭の中で響いていた。
あの人は、いつもそうだ。
自分のことは後回しにして、やるべきことをやる。誰かを守るために動く。それが当然だというように。
羨ましい、と思った。
守りたい人がいるということが。そのために動けるということが。
同時に、歯がゆかった。
あの人が守りたいのは、私じゃない。当たり前だ。分かっている。分かっているのに——
「……馬鹿みたい」
小さく、呟いた。
こんな時に、何を考えているんだ。八十万人の命がかかっている時に。
私は、モニターに向き直った。
七二パーセント。
まだ上がる。おそらく、もっと上がる。
私にできるのは、その数字を追い続けること。
一秒でも早く、変化を捉えること。
それが、誰かの命を救うことに繋がるなら——
私は、キーボードに手を置いた。
指先が、まだ少し冷たかった。
作業を、再開した。
【第11章 終】




