第10章「言えなかった言葉」
第10章 言えなかった言葉
【神谷迅視点】
翌朝、俺は浜松基地を発った。
私用外出の届けを出し、レンタカーを借りた。東名高速を西へ。目的地は、あの港町。
——話がある。
昨夜、凛に送ったメッセージ。返信はなかった。
ハンドルを握る手に、力が入る。
六月の陽射しが、フロントガラスを照らしていた。空は青く、雲一つない。嫌になるほど、穏やかな朝だった。
退避計画が動き始めている。
昨日の会議で、駿河湾沿岸部と伊豆半島東部が対象地域に指定された。約八十万人。自主避難の呼びかけは、今日から始まる。
凛の町も、その中に入っている。
——俺が言わなければ、誰が言う。
電話では、言えなかった。声を聞いた瞬間、言葉が喉に詰まった。
だから、直接行く。顔を見て、伝える。
それが、俺にできる最低限のことだった。
自分のためには、こんなに必死になれない。でも、あいつのためなら——体が勝手に動いていた。その矛盾に、気づいていないふりをした。
◆
港町に着いたのは、午前十一時過ぎだった。
海沿いの道を走ると、見覚えのある景色が広がる。漁港。防波堤。古い家々が並ぶ通り。
八年前と、何も変わっていない。
いや——変わったのは、俺の方だ。
凛の家の前で車を停めた。
エンジンを切る。しばらく、動けなかった。
何を言えばいい。どう切り出せばいい。
『逃げろ』と言えばいいのか。『この町は危険だ』と。
そんな言葉で、あいつが動くはずがない。
——この町を絶対離れない。
あの夜、凛はそう言った。笑いながら。でも、目は笑っていなかった。
車を降りた。
玄関の引き戸に手をかける。
「——迅くん」
声がした。
振り向くと、凛が立っていた。
買い物袋を両手に抱えている。白いワンピース。髪を一つに結んでいる。
——また、少し大人びた。
そんなことを、場違いに思った。
「来てくれたんですね」
凛の声は、いつもより静かだった。
あの明るさが、ない。
「……ああ」
「上がってくださいっ。おばあちゃん、いますから」
凛は俺の横を通り過ぎ、玄関を開けた。
その背中を見ながら、俺は唇を引き結んだ。
——覚悟を、決めろ。
◆
居間に通された。
トメさんが、座布団を出してくれた。
「迅ちゃん、久しぶりだねえ」
「ご無沙汰してます」
「お茶、淹れるから待っててね」
トメさんが台所に消えていく。
凛は、俺の向かいに座った。
テーブルを挟んで、二人きり。
窓の外から、波の音が聞こえる。カモメの鳴き声。いつもと同じ、この町の音。
「話って、何ですか」
凛が、先に口を開いた。
逸らさない目。こちらを射抜くような。
「……凛」
俺は、奥歯を噛みしめてから言葉を絞り出した。
「この町から、離れてくれ」
沈黙が、落ちた。
凛の表情が、一瞬だけ固まった。
「……どういう、ことですか」
「政府が、退避計画を発表する。今日か明日には、ニュースで流れる」
俺は、できるだけ淡々と話した。感情を交えないように。
「駿河湾沿岸部と伊豆半島東部が対象だ。この町も入っている。自主避難の呼びかけが、今日から始まる」
「自主避難……」
「大きな地震が来る可能性がある。確率は六〇パーセント以上。一ヶ月以内に」
凛は、黙っていた。
その目が、俺を見ている。何かを探るように。
「……迅くん」
「何だ」
「それ、一昨日の電話で言おうとしたことですか?」
俺は、答えられなかった。
凛は、小さく笑った。寂しそうな、諦めたような笑み。
「やっぱり。迅くん、嘘下手ですもんね」
「……」
「声、低くなってましたよ。何かあるって、すぐ分かりました」
凛の笑顔が、消えた。
「でも、答えは変わらないです」
その声は、静かだった。
「私、この町から離れません」
◆
分かっていた。
こう言われることは、分かっていた。
それでも——
「凛」
「はい」
「お前の気持ちは分かる。でも、これは——」
「分からないですよ」
凛の声が、硬くなった。いつもの柔らかさが、剥がれ落ちていた。
「迅くんには、分からないです」
その言葉が、胸に刺さった。
「お父さんとお母さんが死んだ時、迅くんはここにいなかった」
「……」
「私は見たんです。津波が来た後の、この町を。何もかも流されて、瓦礫だらけで——」
凛の声が、震えた。
「遺体安置所で、お父さんとお母さんを見ました。二人とも、手を繋いでて。最後まで、一緒にいたんだって」
俺は、何も言えなかった。
八年前。俺は航空学生として、別の場所にいた。訓練中で、すぐには戻れなかった。
両親の葬儀には間に合った。でも、凛の両親の葬儀には——
「お前の両親の葬儀、行けなくてすまなかった」
「そんなこと、言ってないです」
凛が、首を横に振った。
「私が言いたいのは——この町が、私の全部だってこと」
凛の目に、涙が滲んでいた。でも、流れてはいなかった。こらえている。必死に。泣いたら負けだと言わんばかりに。
「お父さんとお母さんの思い出も、おばあちゃんとの暮らしも、全部ここにあるんです。ここを離れたら、私は——」
言葉が、途切れた。
凛は、窓の外を見た。
青い海。白い波。この町の、いつもの景色。
「ここにいないと、お父さんとお母さんを忘れちゃう気がするんです」
その声は、小さかった。消えてしまいそうだった。
俺は、膝の上で拳を握りしめた。
——何を言えばいい。
凛の気持ちは、分かる。分かるからこそ、言葉が出ない。
俺だって、同じだ。
八年前、母の電話に出られなかった。最後の声を、聞けなかった。
その後悔は、今も消えていない。胸の奥で、ずっと燻っている。
でも——
「凛」
「はい」
「お前の両親は、お前に生きてほしいと思ってる」
凛が、俺を見た。
「この町と一緒に死ぬことを、望んでない」
「……」
「俺には分からないかもしれない。でも、それだけは分かる」
俺は、凛の目を真っ直ぐに見た。
逃げるな。目を逸らすな。
言わなければならない。たとえ、傷つけることになっても。
「だから、逃げてくれ。生きてくれ」
◆
沈黙が、長く続いた。
凛は、何も言わなかった。ただ、俯いていた。
その肩が、小さく震えていた。
泣いているのか。怒っているのか。分からなかった。どちらでもあるような、どちらでもないような——名前をつけられない震え方だった。
「……ずるいです」
やがて、凛が呟いた。
「そんなこと言われたら、何も言い返せないじゃないですか」
「凛——」
「でも、まだ決められないです」
凛が、顔を上げた。
涙の跡が、頬に残っていた。でも、目は乾いていた。泣ききった後の、透明な目。
「すぐには、無理です。おばあちゃんのこともありますし、高橋先生のこともありますし——」
「分かってる」
俺は、頷いた。
「すぐに決めろとは言わない。でも、考えてくれ。本当に地震が来たら、ここは——」
「分かってますっ」
凛が、俺の言葉を遮った。
いつもの語尾が、戻っていた。少しだけ。
「分かってますよ。迅くんが、私のために来てくれたことも」
凛は、立ち上がった。
「お茶、持ってきますね。おばあちゃん、遅いですから」
そう言って、台所へ向かう。
その背中を見送りながら、俺は思った。
——まだ、足りない。
凛の心は、動いていない。
でも、今日はここまでだ。これ以上押しても、逆効果になる。
俺にできるのは、待つことだけだ。
凛が、自分で決めるまで。
◆
昼食を、トメさんが用意してくれた。
焼き魚と味噌汁。漬物。素朴な、この家の味。
「迅ちゃん、ちゃんと食べてる?」
「ええ、まあ」
「痩せたんじゃないかい。もっと食べなさい」
トメさんは、俺の茶碗にご飯を山盛りにした。
凛は、黙々と箸を動かしていた。さっきの会話のことは、トメさんには聞こえていなかったようだ。
「迅ちゃん」
「はい」
「この子のこと、よろしくね」
トメさんが、静かに言った。
その目には、揺るぎない光があった。穏やかだけど、強い。
「私はもう長くない。この子を、一人にはできないから」
「おばあちゃん——」
凛が、箸を止めた。
「何言ってるんですかっ。まだまだ元気じゃないですかっ」
「元気だよ。でも、いつまでもってわけにはいかない」
トメさんは、笑った。
「だから、迅ちゃん。この子を、頼んだよ」
俺は、トメさんの目を見た。
この人は、分かっている。
自分がこの町を離れないこと。凛を送り出さなければならないこと。
全部、分かった上で——俺に、託そうとしている。
その覚悟の重さが、胸に落ちてきた。この人は、自分の命より孫娘の未来を選んでいる。逃げないことを選んだ上で、逃げろと言っている。
「……分かりました」
俺は、頭を下げた。
「必ず、凛を守ります」
凛が、何か言おうとした。
でも、言葉にはならなかった。
ただ、俺とトメさんを交互に見ていた。
その目には、戸惑いと、怒りと、悲しみと——それでも、どこかで安堵しているような、複雑な色があった。
◆
午後三時、俺は凛の家を出た。
玄関先まで、凛が見送りに来た。
「迅くん」
「何だ」
「……ありがとうございます。来てくれて」
凛の声は、かすれていた。
「礼を言うのは早い。お前がまだ、答えを出してないからな」
「……うん」
俺は、車のドアに手をかけた。
「凛」
「はい」
「前に俺が言ったこと、覚えてるか」
凛の目が、わずかに揺れた。
「前に、言ったこと……?」
「お前は生きろ、って。俺が言った」
八年前の、葬儀の後。凛が泣いていた時、俺は確かにそう言った。あの時は、何の力にもなれなかった。ただ、そう言うことしかできなかった。
凛は、黙っていた。
「俺は今でも、同じことを言う。お前は生きろ。俺も、生きる」
それだけ言って、俺は車に乗り込んだ。
エンジンをかける。バックミラーに、凛の姿が映っていた。
白いワンピース。風に揺れる髪。
俺に向かって、小さく手を振っていた。その顔が、泣いているのか笑っているのか、距離があって分からなかった。
——頼む。
生きてくれ。
この町がどうなっても、お前だけは。
俺はアクセルを踏み、港町を後にした。
【第10章 終】




