第1章 海の底から
第1章 海の底から
【神谷迅視点】
六月の駿河湾は、嘘みたいに凪いでいた。
UH-60Jのローターが海面を叩き、円形の波紋が広がっていく。高度十五メートル。風速三ノット。視界良好。救助には理想的なコンディションだ。
コックピットに籠もる機械油と潮の匂いが、今日も変わらず鼻腔を満たしている。
「神谷三佐、要救助者を視認。二時方向、約五十メートル」
機上救助員の田村の声がヘッドセット越しに届く。ノイズ混じりの無線音。俺はサイクリックを微調整しながら、指示された方向へ機首を向けた。
転覆した漁船の船体に、オレンジ色の救命胴衣がしがみついている。二名。どちらも意識はあるようだ。腕を振っている。
「降下準備。田村、行けるか」
「了解。いつでも」
ホイストが金属的な唸りを上げ、田村の身体がキャビンから滑り出していく。ワイヤーが巻き出される振動が、操縦桿を握る手のひらに伝わってきた。俺はホバリングを維持しながら、計器と海面を交互に確認した。
航空自衛隊、航空救難団。
災害や海難事故の現場に真っ先に飛び、人を拾い上げて帰ってくる。それが俺たちの仕事だ。派手さはない。ニュースになることも少ない。ただ、呼ばれれば行く。行ける場所には、必ず。
「一名確保。引き上げます」
ホイストのワイヤーが巻き上げられ、田村と要救助者の影が機体に近づいてくる。六十代くらいの男性。顔色は悪いが、意識ははっきりしている。低体温の兆候はなさそうだ。
「もう一名、行きます」
二人目は若い男だった。船長の息子だろうか。田村に抱えられながら、何度も頭を下げている。
全員収容。所要時間、七分二十三秒。
悪くない数字だ。
だが、俺の胸には何の感慨も湧かなかった。
嬉しいとか、安堵とか、達成感とか——そういうものが、いつからか分からなくなっている。ただ、「終わった」という事実だけが、乾いた砂のように意識に落ちていく。
壊れている。たぶん、俺は。
「RTB。浜松へ帰投する」
機首を北に向け、高度を上げる。眼下に駿河湾が広がった。穏やかな海。初夏の陽光を受けて、水面が白く輝いている。
——Loss of Life, Zero.
今日も誰も死ななかった。それでいい。それだけでいい。
なのに。
ふと、視界の端に何かが引っかかった。
海の色だ。
駿河湾の深い青の中に、不自然な濁りが走っている。茶色がかった筋が、沖に向かって何本も伸びていた。まるで、海底から何かが噴き出しているような——
「三佐、どうかしましたか」
副操縦士の声で我に返る。
「……いや。何でもない」
気のせいだろう。そう思うことにした。
ただ、喉の奥に小さな棘が刺さったような違和感だけが、浜松基地に着陸するまで消えなかった。
◆
格納庫の前で機体を降り、整備班に引き継ぎを済ませる。
田村が救助した漁師親子に付き添って医務室へ向かうのを見送りながら、俺は飛行服のジッパーを下ろした。六月とはいえ、コックピットの中は蒸し暑い。
「神谷三佐」
声をかけられて振り向くと、隊舎の方から見慣れない女が歩いてきた。
黒髪のポニーテール。白衣の下にカーキ色のカーゴパンツ。目の下にうっすらとクマが浮いている。年齢は二十代後半といったところか。研究者か技術者か、いずれにせよ現場の人間ではない雰囲気だった。
「……誰だ?」
「杉浦沙耶。内閣府の地殻変動観測チームから来ました」
名刺を差し出される。受け取ると、確かに「内閣府 地殻変動観測チーム 主任研究員」と印刷されていた。
「地震の研究者が、なんで航空救難団に?」
「明日から、御前崎沖の海底観測に同行させてもらうことになっています。その事前挨拶です」
ああ、そういえば。
昨日のブリーフィングで、何か言っていた気がする。政府の研究チームを乗せて、駿河湾の海底観測ポイントを巡回する任務。通常の救難待機と並行して行う、いわゆる「お付き合い」の仕事だ。
「聞いてる。明日〇八〇〇に格納庫前集合だ」
「はい。それで、今日の飛行で何か気づいたことはありませんでしたか」
唐突な質問だった。俺は眉をひそめた。
「気づいたこと?」
「海の様子とか。異常な波とか。何でも構いません」
——海の色。
あの不自然な濁りが、一瞬だけ脳裏をよぎった。
だが、俺は首を横に振った。
「特に何も」
「……そうですか」
杉浦という女は、肩を落としたように見えた。隠そうともしない落胆。研究者というのは、こういう態度が許される世界なのだろうか。
「何かあるのか。言いたいことがあるなら聞く」
「いえ、まだ確定したデータじゃないので。明日、現地を見てから説明します」
そう言って、彼女は踵を返した。去り際に、少し間を置いてから付け加える。
「神谷三佐。明日の飛行、よろしくお願いします」
そこで一度言葉を切り、俺の目を真っ直ぐに見た。
「——笑わないで聞いてほしいんですけど、たぶん、大事な一日になると思うので」
笑わないで。
その一言が、妙に引っかかった。この研究者は、これまで何度も笑われてきたのだろうか。データを見せても、仮説を説明しても、真剣に取り合ってもらえなかった経験があるのかもしれない。
だが、俺は何も言わなかった。彼女の背中が隊舎に消えていくのを、ただ見送った。
◆
夜。
隊舎の自室で、俺は窓の外を眺めていた。
浜松基地の滑走路の向こうに、遠く駿河湾が見える。月明かりに照らされた海は、昼間の穏やかさとは違う、どこか底知れない顔を見せていた。
——八年前も、こんな夜だった。
東北の海。あの日も、月が出ていた。
テレビの画面に映し出された、黒い波。家々を、車を、人を飲み込んでいく映像。そして、俺の携帯電話に残った、たった一件の着信履歴。
母からの、最後の電話。
俺は出なかった。
訓練中だった。規則だった。仕方なかった。——そう自分に言い聞かせ続けて、もう八年が経つ。
仕方なかった。
本当に?
気づけば、拳を握りしめていた。爪が掌に食い込んでいる。痛みで、ようやく我に返った。
あの時、規則を破ってでも電話に出ていたら。母の声を聞いていたら。たった一言でも「大丈夫だ」と伝えていたら——何かが変わっていただろうか。
変わらない。分かっている。津波が止まるわけでも、家族が助かるわけでもない。
それでも。
喉の奥から、何かが込み上げてくる。怒りなのか、悲しみなのか、後悔なのか。名前をつけられない。ぐちゃぐちゃに混ざって、区別がつかない。
あの電話に出なかった自分を、八年間ずっと許せないでいる。
最後の瞬間、母は何を言おうとしていたのか。永遠に分からないまま生きていく。その事実が、毎晩のように胸を抉る。
そして——それでも俺は生きている。息をして、飯を食って、人を救っている。家族を失った日から、ずっと。
それが正しいことなのか、贖罪なのか、逃避なのか。自分でも分からない。分からないまま、飛び続けている。
父と母と、まだ中学生だった妹。三人とも、あの波に攫われた。
俺だけが、生き残った。
何百人救っても、あの三人は戻ってこない。何千時間飛んでも、あの日に戻ることはできない。
それでも俺は飛び続けている。止まったら終わりだという感覚だけが、俺をコックピットに縛り付けている。それが救いなのか呪いなのか、もう区別がつかない。
携帯電話が震えた。
画面を見ると、見慣れない番号からのメッセージだった。
『杉浦です。明日の資料を送ります。目を通しておいてください』
添付されたPDFを開く。
駿河トラフ周辺の地殻変動データ。過去三ヶ月分のグラフが並んでいる。
俺は地震学の専門家じゃない。だが、素人目にも分かることがあった。
グラフの線が、右肩上がりに跳ね上がっている。
特にこの二週間。数値の変動が、明らかに異常だった。
メッセージの続きが届く。
『駿河トラフの歪みが、想定を超えて蓄積されています。いつ何が起きてもおかしくない状態です』
そして、最後の一文。
『明日、私が何を見に行くのか。それを知った上で、飛んでほしいんです』
俺は窓の外に目を向けた。
月明かりの下、駿河湾は静かに横たわっている。
だが、昼間から胸の底に沈んでいた不穏な予感が、じわりと輪郭を増していた。
あの濁り。あのグラフ。そして、杉浦の言った「大事な一日」。
——何かが、近づいている。
根拠のない確信が、胸の底で鳴っていた。
【第1章 終】




