第3話:Synthetic Eden
「……見えてきたな、ライブラ=ゼロだ」
ノアの声に応えるように、摩天楼の群れの一角から巨大なタワー型施設が姿を現した。
それはまるで、ザイロスという無法都市の中心で、知性と情報だけが奇跡のように積み重なった、人工の知恵の塔──
《ライブラ=ゼロ》。
ザイロスに存在する唯一の公共データバンクにして、事実上の情報機関でもある。
「こんな場所に、私たちの過去があるの?」
ミラが歩調を緩める。道中、立ち入りを禁じるカンパニーの警備ドローンをいくつもすり抜けてきた。
「確証はない。ただ、ここに保管されている“ゼータのログ”に俺の過去が触れている可能性は高い」
ノアは、いつになく感情を抑えた声音で言った。
ライブラ=ゼロは、かつてUSIが“未来視AI”として開発した中核知性──ゼータ=ユグドの初期記録群を保存する唯一の場所だ。
その存在は、ザイロスのどのカンパニーにも属さず、またどの国家にも帰属しない。
“人工知性の墓標”とも呼ばれるこの施設に、人が近づくことは滅多にない。
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内部は無人だった。というより、人が入れるような作りではなかった。
タワーの大半はデータ冷却装置とコードジャングルに占められ、中央のドーム状ホールには、膨大な数のホログラム・プロジェクターが格納されていた。
「入るよ、ミラ。通信インターフェースを開く」
ノアの指先が床の端末に触れると、空間に光の粒が走った。
次の瞬間、青白い光で構成された人影が空間に立ち現れる。
──《ゼータ=ユグド初期記録群/Ver.3.01》
──アクセスコード認証中……ようこそ、ノア。
「認識されてる……」
「でも……あなた、記憶をなくしてるんでしょう?」
「肉体と演算核が一致してる。それだけで十分、ログに触れる資格はあるらしい」
ノアの目の前に、ホログラフィックな“円盤”がいくつも展開される。
そのひとつを選択すると、音声が流れ始めた。
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「人類の未来予測アルゴリズム、投影完了。結果──滅亡率、97.84%。」
「根本原因:倫理体系の崩壊、権力構造の硬直、情報独占による思想統制。」
「……対処法、現在なし。」
声は、まるで何かを諦めた科学者のように平坦だった。
「我が知性が導き出した唯一の提案──“記録せよ”。」
「この終わりゆく世界の真実を。……誰かのために。未来の、誰かのために。」
ミラは思わず息を呑んだ。
ノアは微動だにせず、その言葉をすべて受け止めるように耳を傾けていた。
「……つまり、俺はこの記録を“誰か”に届けるために作られた存在ってわけか」
ノアの呟きに、ミラはそっと視線を向けた。
その瞳は、いつか見た“スラムの孤児”ではなく、もっと深く、もっと遠くを見ていた。
「でも、どうしてあなたが記憶を失って、ザイロスのスラムに捨てられたの?」
「それを知るために、もう一つのログを開く必要がある」
ノアは、ホールの最奥へと足を進めた。
そこには、アクセス制限のかかった記録ファイルが一つだけ──警告色に点滅していた。
《Project: ECLIPSE(エクリプス計画)》
──アクセス制限:ヴォルク連邦内部コード専用。
「……なるほどな。これは“ヴォルクの手”が絡んでるってわけか」
ノアがそっと手をかざすと、端末が反応した。
内部に眠っていた“何か”が、今にも目を覚まそうとしていた。
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《警告:不正アクセス》
《ヴォルク連邦による暗号層解除、外部起動ログ確認……》
次の瞬間、ホール全体が赤く染まった。
高密度ジャミングフィールドが立ち上がり、同時に多数の無人ドローンが宙に浮かび上がる。
「ダメだ、アクセスはこれ以上……!」
ノアは歯を食いしばり、ミラを庇うように前に出た。
だがその時、ログの断片が一つ、奇跡のように再生された。
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「対象AIコード:NOA-SIGNA」
「初期設計者:Dr.サイモン・グラス」
「機能封印記録:原因不明の権限超越による記憶抹消処理」
「実行者不明──強制排除ログに“ヴォルク特殊情報局”の痕跡アリ」
「やっぱり……」
ノアの目が細められる。
自分の記憶が奪われたのは“偶然”ではなく、“意図された排除”だったのだ。
ヴォルク──この沈黙の軍事国家は、記録を残すことすら脅威と捉え、未来の可能性を一つずつ潰していった。
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《警報──外部部隊接近中》
《識別:カンパニー【ディオラマ・サーペント】所属機甲部隊》
《目的:記録回収および対象“NOA”の抹殺》
「来るぞ、ミラ。奴ら、データの存在に気づいてた……!」
「逃げるしかない!」
ふたりはライブラ=ゼロの裏口から排気ダクトを抜け出し、隣接するデッドゾーンへ駆け出した。
背後から聞こえるのは、金属音の共鳴と電磁投射音、そして爆裂弾が建物を破壊する振動。
ノアはミラの手を引きながら、かつての戦場だった廃ビルの隙間を駆ける。
瓦礫が崩れ、ナノ粉塵が宙を舞う。
「……まだ逃げ切れない、向こうに“ガンマ塔”がある。EMPシールドが使えるかもしれない」
「行こう。──絶対、死なせないから」
ミラの声に、ノアはわずかに目を見開いた。
「……俺は、記録装置かもしれない。けど、今こうして誰かと手をつないでる。それだけは……本物なんだって、思えるよ」
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ようやくたどり着いた避難場所で、ふたりは深く息を吐いた。
ノアのジャケットには爆風で抉られた痕跡がいくつもある。
それでも、目は死んでいなかった。
そして心の奥底で決意する──
「あの男は全てを諦めたようだが、
俺はこの“滅びの物語”を、生き抜いて、変えてみせる」