第2話:Dust Protocol
ザイロスに、朝は存在しない。
時の流れは電子表示の時計が刻むだけで、空は常に薄灰色のスモッグに覆われている。
しかし、スラムロウの片隅にあるミラの隠れ家では、ノアが静かに目を覚ましていた。
「……また、夢か」
起き抜けにノアが見ていたのは、真っ白な部屋で何か託される夢。
その手には回路のような模様が浮かび、目の前には誰かがいた——が、いつもその顔は思い出せない。
「よう、起きたか鉄面皮」
ミラが安っぽいインスタントフードの匂いを漂わせながら振り返る。
「ほら、朝飯。合成タンパクとカリカリの……なんか。味は保証しないけど死にはしない」
「ありがたい」
ノアは受け取り、何も言わずに口に運ぶ。
味覚の反応はあったが、懐かしさも、美味しさも、何も感じない。味が“記憶”と結びついていないのだ。
「……どうやら、あんたはこの辺の事情をまったく知らないみたいね」
ミラは、無造作に携帯端末を取り出し、ホログラフィック投影を起動した。宙に展開された青白い光が、空中に一つの地図を映し出す。そこには、細長い島が浮かび上がった。
「飯でも食いながら、ゆっくり聞いてな。……いい? これは、かつて“日本”と呼ばれていた島国の名残。だが今じゃ、名前すら奪われてる。現在の名称は《JPセクター77》。識別コードのような、薄っぺらい管理名称だ」
ミラはスワイプ操作で領域を三分割する。赤、青、緑で色分けされたラインが島を横断した。
「JPセクター77は、三つの超大国により“分割占領”された。北部はヴォルク連邦、東部は東インド合衆連盟(EIU)、南部はアメリカ=イベリア同盟(USI)。それぞれが、この島を我が物とせんと争い続けている」
彼女の声には、冷笑が混じっていた。
「で――あたしたちがいるのは、その三国の国境線が交差する、ちょうど中心点。《ザイロス》って名の無法都市よ」
ミラは地図をさらに拡大した。黒く塗られた三角地帯に、複雑な都市構造と複数の信号波が重ねられたデータ層が重なる。
「誰がこの都市を作ったのか、なぜこんな場所に“カンパニー”が乱立したのか……その起源は今でも不明。公式記録も存在しない。都市構造そのものが、意図的に改ざんされてる形跡すらある」
ミラは、ふっと口角を上げた。
「ま、理由なんてどうでもいい。今日は少し、変わったヤマを張るわよ。面白いモノが手に入るかもしれないからね」
ミラが端末を操作し、、ザイロスのマップを拡大した。
「ここ、“ライブラ=ゼロ”
元はUSIの情報管理センターだった場所。十年前に爆破されて今は立ち入り禁止だけど……」
ミラの目が獣のように光る。
「今朝、そこに出入りした影が監視ログに引っかかった。で、そいつが残した信号を調べたら、ちょっと面白いワードが浮かび上がってきてね」
ミラはキーボードを叩き、浮かび上がったワードをノアに見せる。
【Dust Protocol:アーカイブ破壊防止対策】
「なんだこれは……?」
「Dust Protocolは、旧USIのデータサルベージ系プログラムのコードネームよ。
要は、“重要な過去データが消されないように、自己分散コピーするシステム”」
ミラは続ける。
「つまり、あの廃墟のどこかに、USIがかつて集めたとんでもない機密データの“断片”が残ってるってこと」
ノアの脳裏に、また微かに何かが引っかかった。
この都市が、情報によって築かれているという感覚。自分の存在もまた、どこかで“コード”として組まれた何かだという疑惑——
「……行くしかないな」
「うん、危険だけどね。カンパニーのどこかも狙ってるはず。あたしたちより早く手に入れられたら終わりよ」
ミラは銃と装備を抱えて立ち上がる。
ノアは彼女の背中を見ながら、自分の中にある“計算”が自動的に動き出すのを感じていた。
⸻
ライブラ=ゼロへと続く地下ルートは、地図にも記録されていない通路だった。
廃棄された列車路線を抜け、半分崩落しかけたトンネルを歩き、ノアとミラは旧USIの施設跡へと辿り着いた。
「ここが……」
目の前に現れたのは、黒く焼け焦げたようなビルの残骸。
外装の一部にはまだ「U.S.I. CENTRAL LIBRARY」の文字が残っている。
「気をつけて。何かいる」
ノアが囁いた瞬間、影が音もなく彼らに向かって飛んできた。
ガッ——!
ノアが素早く銃を抜き、反射的に放った弾が影を貫く。
黒い義肢を持つ、改造人間のような存在が転がった。
「“スクラップ・ハンターズ”だ……やっぱり他の奴らも嗅ぎつけてたか」
ミラが即座に回避行動をとり、二人は廃墟の中へと身を隠す。
銃声と爆発、電子音。スクラップ・ハンターズは情報を金に換えるなら命を賭ける連中だった。
その混乱の中、ノアは直感的に“導かれる”ように動いていた。
ビルの地下、記録保管庫——そしてあるドアの前で、立ち止まった。
「ここだ」
彼は手をかざした。
認証装置が反応し、電子ロックが解除される。
「……おい、今のどうやった!?」
ミラが驚愕したが、ノア自身もわからなかった。ただ“分かっていた”のだ。ここに入れることを。
扉の先には、真っ白な空間が広がっていた。中央には、シリンダー状の端末。
ノアが近づくと、自動的にホログラムが点灯した。
起動コード:Z-E-T-A-Y-G-D
「……ゼータ……ユグド……?」
その名が口をついて出た瞬間、映像が展開される。
それは、膨大な未来予測データ。人類の衰退、戦争、ザイロスの崩壊、そして——“終焉”。
「……これが、“未来の記録”?」
ミラが息を呑む。
ノアは頭を抱える。
この情報は、明らかに自分の中にある何かとリンクしていた。これは他人のデータではない。
「俺は……この未来を知っている。いや……俺の中に、“記録”されてる……!」
その瞬間、施設全体に警報が鳴り響いた。
侵入検知。自己破壊プロトコル作動
「やばい!急いで脱出するわよ!」
ミラがノアの腕を引き、二人は廃墟を駆け出す。
背後で爆風が起き、瓦礫が落下する。
逃げる最中、ノアは叫んだ。
「この情報は……まだ全部じゃない。もっとある。もっと深い場所に——俺の“起源”が……!」
⸻
二人が命からがらスラムに戻った頃、夜のザイロスには冷たい電子の雨が降っていた。
ミラは黙って、ノアに温かい毛布を渡す。
「……記憶、戻り始めてるんだろ?」
「断片的に……でも、はっきりしたことがある」
ノアはミラを見た。
「俺は、“この世界の終わり”を知っている。
そして、その記録を……誰かに託されてる」
「でも、あんたは──その託された“記録”、思いっていうのかな? それを、どうしたいの?」
ミラがそっと問いかけてきた。
その瞳には、いつもの鋭さではなく、どこか澄んだものが宿っていた。
「……伝えなければならない。
変えなければならない、未来を。たとえ滅びゆく運命が決まっていたとしても、そこに意味がなかったとしても……!」
ノアは、一瞬だけ言葉に詰まりながらも、続けた。
「ザイロス──いや、ミラと俺の想いを、届けなきゃならないんだ」
その言葉を聞いた瞬間、ミラの表情がふわりと和らいだ。
「なら……私、ノアのこと、信じてみてもいいよね!」
いつもの“強がり”ではない、心の底からの笑顔。
その声色も、どこか柔らかく変わっていた。
──口調が変わった? 雰囲気も……?
いや、これが“本当のミラ”なのだろう。
ザイロスのような劣悪な場所で、気を張り続けなければ生きられなかった彼女が、今ようやく本来の自分に戻れたのかもしれない。
ノアは静かに、だが確かに返事をした。
「ああ──」