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Remnant:ザイロス  作者: ミラ=ユノ
第2章: ミラ
20/26

第19話:Rain

それは、誰かの話し声から始まった。


「そろそろ目が覚める頃だな」


意識が薄く浮上し、まぶたの裏に微かな光が差し込んだ。ゆっくりと目を開けると、そこには白衣を着た二人の男が立っていた。


「……はは、ついに動いたよ。はじめまして。君の名前はリア=チェンバース。なかなかの完成度だ。いや、これはもう芸術だな。作った人間の趣味が全開すぎるが」


「問題ない。彼女は“親善大使”としての設計に基づき最適化されている。あの微笑みと整った容姿こそ、対話の武器だ。美貌は国家戦略の一部と理解すべきだろう」


その会話を聞いた時、自分が“作られた”存在であることをリアは理解した。だが、そこに悲しみも、怒りも湧かなかった。不思議と納得していた。


──感じないように設計されている。おそらく、それだけの話なのだろう。



彼女は重厚な装飾が施されたホールに案内された。天井にはシャンデリアが煌めき、壁際には旗とホログラム彫像が並ぶ。ここはレグノポリス──EIUの統治中枢である。


それを誰かに教わったわけではない。だが、なぜか知っている。語彙、所作、地理、基本的な常識──日常生活に必要な情報は、すでに彼女の思考の中に埋め込まれていた。


「初めまして。君がリア=チェンバースか。ようこそ、我々の世界へ」


声の主は、一人の壮年の男だった。銀の縁取りの制服に身を包み、威厳と静かな圧を湛えていた。


「私の名前はカシウス=グリーヴ。現・EIU統治連盟の行政総代表だ」


彼は右手を差し出し、リアも自然にその手を取った。


「君がなぜ“生まれた”のか、その理由はおそらく君自身にも既に認識されているだろう。我々EIUと、和平交渉中の相手国《USI》──両国の橋渡しとして、君には“親善大使”としての任務を担ってもらう」


リアは黙って頷いた。その仕草には、感情の揺らぎはなかった。表情すらも、美しく整えられた機械仕掛けのようだった。


リアは次から次へとEIUの高官たちと握手を交わしていった。誰もが仮面のような笑みを貼り付け、丁寧すぎる言葉で彼女を称賛した。


——数日後。


USI中央議事棟の特別応接室。その場に現れたのは、漆黒の軍装を纏った壮年の男だった。米欧の威厳を帯びた佇まいで、周囲の空気が自然と引き締まる。


「私は、USI連邦執政総統──ウィリアム=クロフォードだ。ようこそ、リア=チェンバース」


男は丁寧に一礼した。だがそのすぐ背後から、まるで陰から光が溢れるように、明るい声が響く。


「やあ、やあ!初めましてだね!」


ひょこりと現れたのは、顔立ちの整った青年だった。濃いめの茶髪に青い瞳。陽光のような笑顔を浮かべ、彼はUSI側で設計された親善大使──対となる存在だった。


「僕の名前は、イーサン=ヴァレンティ!リアって本当に綺麗だね〜。いや、びっくりした。なんかさ、好きな食べ物とかある?甘いもの?辛いの?それとも宇宙食とか?あ、映画ってよく見る?2001年宇宙の旅、見た?あれ最高なんだよね。HALがまた……」


畳みかけるような会話に、リアは一瞬だけ困惑したような表情を見せた。だが、すぐに微笑みを浮かべた。目の前の青年は、無邪気すぎるほど無邪気だった。


──人間らしい。もしかすると、今まで出会った誰よりも。


「こんな堅苦しい場所は放っとこうよ、リア。僕たち、親善大使だろ?まずは仲良くなるところからさ!」


そう言うなり、イーサンはリアの手を取って引っ張った。


「え……」


不意を突かれたリアは抵抗する間もなく歩き出す。だが、誰一人として止めようとする者はいなかった。EIUの官僚たちも、USIの代表たちも──ただ穏やかな笑みを浮かべたまま、その様子を見守っていた。



USIの首都──名を《ヴァーシル・モノリス》。


都市全体が幾何学的な美しさに包まれていた。広場には艶のある白磁の床が広がり、空中にはガラスの歩道橋と緑に彩られた庭園が浮かんでいる。天井には巨大な人工太陽が吊るされ、空を舞うのは、ホログラムで作られた鳥たち。まるで未来の楽園のような光景だった。


「すごい……これが、人間の作った街……?」


リアは目を輝かせ、足を止めて見上げた。

すべてが初めての光景だった。整いすぎた世界。光と音の調和。人々の穏やかな笑い声。


歩いていると、ある店先に目を奪われる。


風を感知して音色を変える、人工植物を使ったオルゴール。ひとつひとつがまるで生きているかのように、風に合わせて微かに旋律を奏でていた。


「わあ……きれい……」


リアの声が自然と漏れる。


「それ、気に入った?」


イーサンが優しく微笑むと、リアは少し恥ずかしそうにうなずいた。


「じゃあ……プレゼント。初めての街での、記念にね」


軽やかにクレジットタグをかざし、店主と一言二言交わす。リアが何か言おうとする前に、もう手元に包みが届いていた。


「……ありがとう、イーサン」


ほんのりと頬を染めるリアに、イーサンはどこか嬉しそうに肩をすくめた。


その後も、2人はまるで子どものようにはしゃいだ。


ゲームセンターでは空を舞う仮想レースに興じ、リアは何度もコースアウトしては笑い転げ、イーサンも負けじと真剣な表情で操作に挑んだ。


「ふふっ、今の私の勝ちだよね?」


「いやいや、あれは判定が怪しかった。AI側が贔屓してるんじゃないかな?」


ときには言い合い、ときには笑い合いながら、何度も再戦を繰り返した。


午後には、鮮やかな果実ゼリーの屋台でひと休み。紫色のゼリーを一口食べたリアが、目を丸くして言った。


「これ……星の味がする……!」


イーサンは吹き出してしまう。


「星を食べたことあるの?」


「ないけど……でも、そんな感じがするの」


イーサンはリアの横顔を見つめた。

その眼差しには、世界を純粋に信じようとする者だけが持つ“無垢”が宿っていた。


だが──。


その静けさは、唐突に破られた。


広場の隅、白い柱の陰。


叫び声。


ふたりが振り返ると、そこには若い男が、別の青年を押し倒して殴っている姿があった。

地面には血。周囲の人々はスマートレンズ越しに見ているだけで、誰一人近づこうとしなかった。


「……止めなきゃ」


リアが言うより早く、イーサンはすでに歩き出していた。


無言で暴力の中心へ踏み込み、加害者の腕を取り、ねじるでもなく、振りほどくでもなく、ただ“そこに立つ”。


「やめよう。これ以上、誰も傷つける必要はない」


その言葉に、男は一瞬だけ目を見開いた。


「なんだお前……」


だが、イーサンの瞳を見た途端、何かに圧されたように言葉を失う。


怒りでも憎しみでもない。

ただ、**深い“静けさ”**がそこにあった。


男は手を離し、逃げるようにその場を去った。


リアが駆け寄ってきた。


「……怖くなかったの?」


「怖かったよ。人間って、たまに予想もつかないことするから。でも……それでも、放っておけなかった」


イーサンは拳を握りしめ、空を見上げた。


「美しい世界の裏側には、いつだって誰かの叫びがある。……それが現実なんだ」


リアは黙ってその背を見つめていた。


そのあとも、街は続いていた。


違法武装ドローンが暴走し、制御不能に陥ったところをイーサンが端末越しにハッキングして無力化。

「善意と暴力は、紙一重」──彼はそう呟いた。


リアはその言葉の意味を理解しようと、何度も空を見上げていた。


やがて夕方、ホログラムの空がやさしい茜色に染まっていく。


2人は高層ビルの展望階にあるカフェに腰を下ろし、グラス越しに街を見下ろしていた。


下には、まだ人々が行き交い、光と影が溶け合いながら都市の輪郭を形づくっている。

リアは静かに、そのすべてを見つめていた。


「人間って……すごいね。こんなに綺麗なものを作れるんだ」


「うん。だから、好きなんだよ。人間って、時に愚かで、暴力的で、でも……本当に優しくて、面白い」


リアは小さく笑った。


「……少し、わかってきたかも。あなたがこの世界を好きだっていう理由」


その言葉に、イーサンの目が細められる。


──誰かを好きになることは、世界の複雑さを受け入れることなのかもしれない。


そんな予感を、リアは確かに覚えていた。


眼下には、光と闇が入り混じる都市の輪郭が、ホログラムの夜空に滲むように広がっていた。

ネオンが踊り、無数のドローンが天を往来し、そこに確かに“人の営み”があった。


リアは、その景色を黙って見つめていた。


そのときだった。


「……リア」


イーサンが、ぽつりと呼びかけた。


「もし、よかったら……僕と一緒に暮らしてみない?」


リアは、視線を横に向ける。

イーサンは珍しく、目をそらさず、真っ直ぐに彼女を見ていた。


「難しいことは言わない。ただ、同じ場所で朝を迎えて、一緒に食事して、何でもないことで笑って……そんな日々を、君と過ごせたらいいなって。

……それだけ」


彼の声には、軽さの中に確かな“願い”が滲んでいた。

その響きは、どこか頼りなくて、でも温かかった。


「……ねえ、イーサン」


リアはそっと口を開いた。


「今日、いろんなものを見たよ。人が怒って、人が叫んで、人が誰かを守って……人間って、どうしてこんなに面倒で、ぐちゃぐちゃで、不完全なんだろうって思った」


イーサンは黙って耳を傾けていた。


「でも、その全部を見て、少しだけ……人間が好きになった気がするの」


リアの指が、カップのふちをそっとなぞる。


「私、自分が何者なのか、まだよく分からない。でも……君が、私を“人間のように”扱ってくれたこと。それが、今の私を少し救ってくれてる」


それは、今まで誰にも言えなかったことだった。


イーサンの目が、やわらかく細められる。


「……ありがとう、リア。君がそう言ってくれるだけで、僕は……」


言葉の続きは、風に溶けて消えた。


リアは、空を見上げる。

そこには、ホログラムの星がきらめいていた。けれど今夜は、なぜだかそれが、とても本物に見えた。


「一緒に暮らすって……どんな感じなの?」


「たぶん……最初は戸惑って、すぐに些細なことで喧嘩して、それでもまた笑って……そうやって、少しずつ居場所になっていくんじゃないかな」


「ふふ、なんだか面倒そう」


「うん。すごく、面倒だよ」


ふたりは微笑み合う。


リアの笑顔は、これまでのどれよりも自然で、少しだけ“人間らしかった”。


そして、リアはゆっくりと頷いた。


「……いいよ。私も、ちょっとだけ面倒を見てみたいかも」


展望窓の外。夜空にゆるやかな風が吹き、街の光がさざ波のように揺れていた。


リアは、手の中のオルゴールをそっと撫でた。


風が吹き、音が鳴る。


その音は、今日見たすべてを包むように、柔らかく、そして少しだけ切なかった。


その中で、ひとつの小さな“関係”が、確かに芽吹いていた。



USI首都の、静かな住宅ブロック。


イーサンとリアは、そこにある小さな一軒家を借りて暮らすことにした。


朝、リアが目を覚ますと、隣にいたはずのイーサンの姿がなかった。


「イーサン……?」


まだ眠気の残る目を擦りながら、階段を降りると、下の階からふんわりと甘い香りが漂ってきた。


「おはよう、リア。朝ごはんできたよ。一緒に食べよ」


イーサンの声が台所から聞こえる。


テーブルには、丸くてこんもりとしたストロベリーパイが置かれていた。


「……え? ストロベリーパイ? 朝ごはんって、普通……おやつじゃないの?」


リアは戸惑った表情を見せる。


だがイーサンはにっこりと微笑んで、軽やかに答えた。


「うん、そうだよ。でも、美味しいものはいつ食べても美味しいでしょ?」


その笑顔に、リアは小さく吹き出してしまった。


リアは一切れのパイを手に取り、かじる。


甘さと酸味が口の中に広がる。それはどこかやさしい味だった。


隣でイーサンもパイを食べる。


「美味しい」


2人は、同時にそう呟いた。


気まずそうにそっぽを向くイーサン。顔を赤らめたリアも、手で頬を隠す。


「……本当に美味しい。今まで、官僚との会食では食事なんてただの儀礼に思えてた。でも、こうして“大切な人”と一緒に食べると、全然違うんだね」


言葉にしてしまった瞬間、自分でも気づいて慌てる。


「ちょっ……ちょっと今の、なしなし!」


リアは顔を隠すように手を振るが、イーサンは何も言わず、ただ少しだけ微笑んだ。


しばらく沈黙が流れたあと──


「……ありがと」


その一言は、ほんの小さな声だった。



昼になると、2人はそれぞれの仕事のために家を離れることになった。


出かける前、イーサンは言った。


「あと2ヶ月で”マリア協定会談”が行われる。僕たちも、それに向けて準備しなきゃね」


リアは静かに頷いた。


それからの日々、2人はUSIとEIUの親善大使として、それぞれの任務をこなしていった。


リアはどんなに遠くにいても、たとえ疲れていても、必ずこの家に戻るようにしていた。


“この場所に帰りたい”と、心が自然にそう思うようになっていた。


その理由が何か……言葉にはできなかった。

ただ、イーサンが“そこにいる”というだけで、安心できる自分がいた。


そして、家に戻ると──


イーサンはいつも、キッチンで料理をしていたり、リビングで本を読んでいたり、時にはうたた寝をしていた。


そんな彼の姿を見るたび、リアの心の奥で、ふと何かがやわらかく揺れるのだった。


小さな食卓、静かな夜、ささやかな会話。


それらが、いつの間にかリアの中で、“ただの日常”以上の意味を持ち始めていた。そうして時間はどんどんと過ぎていった。



そんなある日──。


EIUの中枢都市、統治評議府レグノポリス

リアはいつものように外交会議を終え、廊下を歩いていた。


すれ違った若い官僚の顔色が、異様に悪かった。


「……大丈夫?」


思わず声をかけると、官僚は一瞬、ひどく怯えたような目をした。しかしすぐに平静を装い、小さく微笑んだ。


「ええ、大丈夫です。お気遣い感謝します」


その目は、どこか死んでいた。



夜。リアはいつもの自宅に戻った。


扉を開けたその瞬間、胸がざわめいた。

いつもなら真っ先に「おかえり!」と笑って迎えてくれるイーサンが、今日はキッチンの椅子に一人座り、じっと黙っていた。


「イーサン……? 何かあったの?」


彼は顔を上げたが、その目はどこか遠くを見ていた。


「……いや、大丈夫」


それでもリアは彼の隣に腰を下ろし、そっと手を握った。


「話したくないこと、無理に言わなくてもいい。でも、苦しいなら……少しだけ、私にも分けてくれない?」


しばらく沈黙が流れた。


やがてイーサンは、ぽつりと語り始めた。


「……人類は、もう、JPセクター77の外にはいないんだ」


リアは一瞬、言葉の意味を理解できずにいた。


「え……?」


「本国との通信が何十日も途絶えてて。今日、ようやく調査ドローンを送ったんだ。でも、そこで見つかったのは──廃墟と、錆びた機械だけだった」


イーサンの目は、揺れていた。


「誰も、いなかった。

USIも、EIUも、ヴォルク連邦も、もしかしたら……もう“国”なんて存在してないのかもしれない」


リアは息を呑んだ。

それでも、彼の手を離さなかった。


「それに……あと二日でマリア協定会談が始まるっていうのに、ヴォルク連邦からは何の連絡もない。ずっと沈黙を貫いてるんだ」


その声は、深い喪失に沈んでいた。


「僕は……信じたかった。まだ、人類は残ってるって。未来を諦めてないって。でも……どうして、こんなにも何も応えてくれないんだろう」


リアは、彼の頭にそっと手を添えた。

その手は、どこまでも優しかった。


「イーサン……私たちは、まだ信じてる。だから、相手に信じてもらえる可能性だって、きっとある。たとえ今は見えなくても」


イーサンの表情が、少しだけ緩む。

だが、次の瞬間、彼はふと何かに気づいたように目を伏せた。


「リア。僕たちはさ……」


彼は苦笑しながら、ぽつりと呟いた。


「人間じゃないんだよね。本当は。

作られた存在で、“人間の真似事”をしてるだけ。

愛とか、希望とか、正義とか……全部、プログラムされた感情なんじゃないかって、ふと、思ってしまうんだ」


リアは言葉を失った。


「僕たちは……人間のふりをして、何かを埋めようとしてる。でも、それって結局、道具に過ぎないっていう現実から目を逸らしてるだけなんじゃないかって……」


沈黙が降りる。


リアはしばらく何も言わなかった。

ただ、彼の言葉を全て受け止めていた。


自分たちは作られた存在。道具として生まれた自分たち。

それでも、それでも……誰かと笑った日々が、偽りとは思えなかった。


そしてその夜、2人はそっと寄り添い、声を出さずに時を過ごした。


本当の“人間らしさ”とは何なのか。

それを知るには、まだ時間が必要だった。



次の日の夜──。


リアは、いつものようにあの家へと帰ってきた。

けれど、昨日と比べて、イーサンの様子がどこか不自然なほど明るかった。


「おっかえりっ!リア!」


扉を開けた瞬間、イーサンは満面の笑顔で迎えてくれた。あまりにも屈託のない、まるで少年のような笑顔。


「……ただいま、イーサン」


リアはほっとしながらも、その笑顔にほんの少しだけ違和感を覚えた。けれど、すぐにその胸騒ぎを押し込めて、彼のもとへ歩み寄る。


——部屋は薄明かりに照らされていた。月光がカーテン越しに揺れ、静かにベッドの上を照らしていた。


2人はゆっくりと体を重ねた。

吐息が交差し、温もりが混ざり合う。


窓辺には、イーサンがリアにプレゼントしてくれたオルゴールが置かれていた。ふたが開き、優しい旋律が夜の静けさに溶けていく。


──ぎい、ぎい、と規則的な巻き音。

それが、まるで世界の鼓動のように感じられた。


2人はベッドの上で寄り添いながら、睦言を交わす。


「リア。明日は、ついに……マリア協定会談だね」


その言葉に、リアは小さく息を呑む。少しだけ表情が固くなったのを、イーサンは見逃さなかった。


「よかった……」


「え?」


「昨日はあんなに落ち込んでたのに、イーサンが元気になってくれて。ほんとによかった」


リアは、ふっと笑った。

それはいつものようにプログラムされた笑顔ではなく、心の底からのものだった。


イーサンはそれに応えるように、柔らかく目を細める。


「当たり前さ。明日のことを考えたら、昨日の悩みなんて小さなものに見える。僕たちには未来がある──道具としてじゃなく、“自分”として生きる未来が、リア……君と共に歩める未来が」


その無邪気な笑顔は、まるで初めて出会った日の彼そのものだった。


その瞬間だった。


リアの胸に溢れていた想いが、とうとう言葉になってこぼれ落ちた。


「……好き」


その声は、震えていた。

けれど、それは確かな意思を持っていた。


「大好き。……あなたが、私を私でいさせてくれた。あなたがいたから、私は“ただの造られた存在”じゃなくなった。……だから、お願い。マリア協定が終わっても、世界がどうなっても……あなたと、生きていたい。ずっと、一緒にいたいの」


吐き出された言葉は、長く押し込めていた感情の堰を切った。


月明かりが、リアの頬を淡く照らしている。

その瞳は潤み、頬はほんのりと赤く染まりながら、じっと彼を見つめていた。


だが。


イーサンは、しばらく何も言わなかった。


やがて、ほんのわずかに体の向きを変え……リアに、背を向けた。


「……イーサン?」


呼びかける声は、震えていた。

胸が、じくじくと痛んだ。

何も言わずに背を向ける彼の姿が、なぜかとても遠く感じられた。


沈黙が、長く続く。

その間、ただオルゴールの音だけが、空気のように部屋を満たしていた。


──そして。


「……うん」


イーサンの低く、かすれた声がその沈黙を破った。


「……ありがと」


それだけだった。


たった、それだけだった。


リアの胸の奥で、何かが静かに沈んだ。

あんなにも想いを込めた言葉に、返ってきたのは“共鳴”ではなく、“感謝”だった。


「……そっか」


ぽつりと、そう呟いた自分の声が、妙に他人事のように聞こえた。


それでもリアは、ゆっくりと手を伸ばし、イーサンの指先に自分の指をそっと絡めた。

答えが返ってこなくても。

気持ちが届かなかったとしても。


この夜、自分が“誰かを心から愛した”という事実だけは、永遠に胸に残ると信じた。


──そして、2人の部屋には、再びオルゴールの旋律だけが、静かに、静かに響き続けていた。


夜はますます深くなる。

リアの胸には、ほんの少しのぬくもりと、たしかな痛みが、静かに残っていた。



次の日の朝。


リアとイーサンは、ほんの少しの不安と高揚を胸に、小さな家を後にした。

今日──すべてが変わるかもしれない日。

それでも、2人は手を取り合って歩き出す。


会談の舞台は、旧マリア聖堂跡地に新設された《和平記念ホール》。

十字架の代わりに和平のシンボルが掲げられたその場所には、USIとEIU、両陣営の代表者たちが姿を揃えていた。


会談は、屋外に設置された大理石の壇上で行われる。

人工太陽のもと、透明な防護ドームに包まれた壇上の様子は、全世界へと中継されていた。

観覧スペースには市民代表やジャーナリスト、各国の要人たちが詰めかけ、誰もが息を飲みながらその瞬間を待っていた。


銃を携えた者たちもいた。

不安定な情勢ゆえ、誰もが「最悪の事態」への備えをしていた。

だが、不思議とその場に漂う空気は静かで、穏やかだった。

それは、**「誰もが本気で平和を願っていた」**からに他ならない。


そして、会談は進み、ついに——


リア=チェンバースとイーサン=ヴァレンティンが、壇上の中央で握手を交わす。

2人は、過去と未来をつなぐ架け橋として、その手を確かに結びつけた。


会場がどよめく。

その光景はまさに、歴史の転換点だった。


そして、最後の儀式へ。

USI総統ウィリアムと、EIU行政総代表カシウスが、それぞれの側からゆっくりと歩み寄る。

2人が手を伸ばせば、すべてが終わり、すべてが始まる。

観客席ではカメラのフラッシュが弾け、報道ドローンが空を舞う。


リアは隣に立つイーサンの手を見つめながら、

「世界って、こんなにも美しかったんだね」

と、微笑んだ。


その瞬間──


パンッ。


乾いた銃声が、空気を切り裂いた。


時間が、止まった。


──ウィリアムが、その場に崩れ落ちる。

胸元から、真っ赤な血が噴き出していた。

彼の顔は驚きに染まり、やがてその目から光が消える。


場内に悲鳴が響く。


発砲したのは、EIU側に控えていた官僚の1人。

彼は、まるで狂気に取り憑かれたように、銃口をUSI側へと向け続けた。


パンッ! パンッ! パンッ! パンッ! パンッ! パンッ!


次々と火を噴く銃口。

銃弾は無差別にUSI陣営へと向かい、男女問わず、次々に倒れていく。

会場は阿鼻叫喚の地獄と化した。


その銃弾の一つが、イーサンの胸へと向かう。


「──ッ!」


リアは、反射的に彼を庇った。


銃声、そして肉が裂ける音。


リアの身体に、三発の弾丸が撃ち込まれた。

頬、腿、そして胸。

彼女の身体は揺れ、イーサンの腕の中に崩れ落ちる。


「リアッ!!」


イーサンは絶叫し、血まみれの彼女を抱えながらその場を去ろうとする。

だが、もはや会場は完全な戦場と化していた。


USI側は即座に応戦。

用意していた武装部隊が姿を現し、EIU側へと一斉に銃火を浴びせる。


──和平記念ホールは、ほんの数分のうちに血の海となった。


壇上も観客席も関係なかった。

人間、ドローン、代表者、市民。

叫び、泣き、逃げ惑い、撃たれ、燃え、倒れていく。


イーサンは血に濡れながら、倒れたリアを必死に抱えてホールの外周へと走る。

その表情は、もはや「平和を築こうとした者」のものではなかった。


彼の目に宿っていたのは──


絶望、怒り、そして、決断。


──マリア協定は、こうして血によって終わった。


外に待っていたのは──EIUの増援部隊だった。

おそらく、会談の混乱に呼応して出動してきたのだろう。

だがその兵士たちの瞳は、まるで人間のものではなかった。

虚ろで、生気がなく、命令だけに従う機械のようだった。


イーサンは血に濡れたリアを抱え、叫ぶ。


「お願いだ……! 彼女だけは……リアだけは助けてくれ!」


しかし──その叫びは、誰の心にも届かなかった。


兵士たちは無言のまま、機械のようにライフルを構えた。


バララララ……ッ!


無数の銃声が響く。

閃光が爆ぜ、弾丸が雨のように降り注ぐ。


リアの視界が、ゆっくりと霞んでいく。

倒れこむイーサンの顔が、最後に見た景色だった。


──それは、彼女にとって唯一の「光」だった。


 



 


意識が戻った時、リアは冷たい鉄のベッドに横たわっていた。

辺りは薄暗く、重苦しい湿気と鉄の匂いが漂っている。

そこは──収容所だった。


傷はすでに塞がれていた。だが、

現実感は希薄で、すべてが夢の続きのようだった。


その時、外から聞こえてきた男たちの声が、残酷な現実を突きつける。


「どうする? あの“親善人形”。もう使い道もねぇだろ」


「処分だよ。イーサンの方はもう放り捨てた。運が良けりゃUSIが拾ってるかもな。まぁ、どっちにしろクズの山だ」


リアの心が、音もなく崩れていく。

イーサンも、捨てられたのか。

──彼だけは違うと信じたのに。


涙が、静かに頬を伝った。

それは、痛みよりもずっと深い、絶望の涙だった。


食料も水も与えられず、光のない時間だけが過ぎていく。

リアは、感情すら失いかけていた。


その時だった。


「開けろ。処分指令が下りた」


金属の扉が軋みを上げ、数人の男たちが無言で中に入ってくる。

その中の1人が近づき、リアを乱暴に立たせた。


「……終わりだ。行くぞ」


リアは抵抗しなかった。

もう、すべてを終わらせたいという気持ちが、心を蝕んでいた。


だが──


その瞬間。


彼女の胸ポケットに触れた“何か”が、かすかな音を立てて震えた。


──カチ……


それは、イーサンがくれたオルゴールだった。


指先に、あの優しい旋律が微かに響く。

夜空の下で聞いた、あのメロディ。

頬を染めた朝の食卓、ストロベリーパイの甘さ。

そして、笑ってくれたイーサンの横顔。


リアの胸の奥で、何かが爆ぜた。


「……イーサン……」


涙があふれた。だが、それはもう絶望の涙ではなかった。


「──私は、生きる。あなたに、もう一度……会うために!」


次の瞬間、リアは全身の力を振り絞って男の手を振りほどいた。


「止めろ!逃がすなッ!」


銃声が響く。

弾丸が彼女を狙って飛んでくる。

だが──リアは走る。ただひたすらに、走る。


細い通路を、死角を縫って、跳ねるように駆け抜ける。

鉄骨の影、柱の裏、足場の隙間。

一発、また一発。彼女の思考は、まるで未来を予測しているかのように冴えていた。


その胸には、確かな想いが灯っていた。


──あの家へ、帰るんだ。


外へ出た瞬間、毒の雨が降り注いでいた。

焼けるような刺激が肌を打ち、視界が霞む。


だが、それでもリアは止まらない。


衣服は裂け、足元は血まみれになっていた。

それでも、何度転んでも、彼女は立ち上がる。


泣きながら、叫びながら、走り続ける。


──彼がいた、あの場所へ。

──心をくれた、あの人のもとへ。


「……まだ、終わってなんかいない……!」


リアは、血と泥にまみれた手で、胸元のオルゴールを握りしめた。


そしてその時、空が一瞬だけ、雲の切れ間から月のような光を照らした。


それは、まるで再び始まる物語を照らす、舞台のスポットライトのようだった。


リアは、その光の下を、ただ一心に走り続けた──。



ようやく辿り着いた。

USI首都、ヴァーシルの閑静な住宅ブロックにぽつんと佇む、小さな一軒家。

かつて、イーサンと2人で暮らした──“あの場所”。


リアは息を切らし、震える手で扉に触れる。

見慣れたドアノブ。だが、それはなぜか今までで一番、重く感じられた。


「……ただいま」


ギイッ……と軋む音を立てて、リアはゆっくりと中へ入る。

埃の匂い、沈黙の空気。

返事はない。人の気配もない。まるで、時が止まっているようだった。


リアは、ぽつりと呟く。


「……そんなわけ、ないよね。いるわけ、ないよね……」


震えた声が、静かな空間に吸い込まれていく。

自分の期待が、いかに愚かだったかを自嘲するように、リアはそっと笑った。


そっと踵を返し、扉へと向かう──


 


「……おかえり」


 


その声は、確かに聞こえた。

夢でも、幻聴でもない。

誰よりも優しく、温かな声。リアが一番、聞きたかったその声。


 


「イーサン……?」


リアは瞳を大きく見開き、振り返る。

そこには、椅子に座り、虚ろに俯いたままのイーサンがいた。


その姿を見た瞬間、リアの全身から力が抜け、膝が床についた。

堰を切ったように涙があふれ出し、彼の名を何度も何度も呼んだ。


「……よかった、よかった……本当に、生きてて……会いたかった……!」


だがイーサンは、しばらく何も言わなかった。

その顔に浮かぶのは、再会の歓喜よりも、遥かに深い沈黙だった。


やがて、ぽつりとつぶやいた。


「……そうか。……そうか……」


言葉が、どこか遠くに感じられた。

その瞳は、何かを失ったように深く濁っていた。


けれど──ゆっくりと、イーサンはリアの方を見上げた。

その目に、微かに光が戻っていた。


「……僕も、会いたかったよ」


その言葉に、リアは泣き笑いのような顔で微笑んだ。


「おいで……今、とても寒いんだ。温もりが……君の温もりが、ほしい」


イーサンが差し出した両腕に、リアは静かに飛び込んだ。

互いに、言葉を交わすことはなかった。

ただ、確かめるように──互いの鼓動を感じ合い、抱き合った。


その時間は、永遠のように感じられた。

戦争も、崩壊も、過去も未来も存在しない、たった一つの“今”。


……だが、その奇跡の時間は──あまりにも脆く、儚かった。


 


ドンッ!!


重く硬質な音が家中に響く。

扉が、外から激しく蹴破られた。


「ッ!」


イーサンが即座に反応し、リアを背に庇うように立ち上がる。


現れたのは、全身を重装備で固めた兵士たち。

USIかも、EIUかもわからない。

だが、一つだけ確かなことがあった。


──彼らは、“処分”しに来た。


イーサンは低く呟いた。


「リア、逃げるぞ」


リアは頷き、涙を拭った。


「うん……!」


2人は窓から身を投げるようにして、外へと飛び出す。

夜の街を走り出すその足取りには、傷だらけでも、希望の火が宿っていた。





やがてマリア協定会談が行われた地を中心に一つの都市が生まれた。名前はザイロス。

そこは、かつて平和を願った者たちの血で染まり、その上に築かれた矛盾の街。


イーサンとリアは、何日ものあいだ、この都市の底を彷徨っていた。

安住の地などない。誰も信じられない。

2人はただ逃げるしかなかった。


不死身の身体は飢えを知らないが、心は次第に擦り減っていった。

あの頃のように笑うことも、抱きしめ合うこともなく、ただ時間だけが過ぎていった。


その日、空は濁った灰色で覆われていた。

冷たい雨が、世界のすべてを洗い流すように、激しく降り続けていた。


2人はザイロス南端のスラム通りに立っていた。

廃ビルの隙間、錆びた屋根の下、濡れたアスファルトを踏みしめながら、無言で歩き続けていた。


そのときだった。イーサンの足がふと止まった。


「……イーサン?」


リアは不安そうに声をかける。

だが彼は、振り返らなかった。


「……ここで別れよう」


まるで、雨音のように静かで、無慈悲な声だった。


「……え?」


理解が追いつかない。

心が、ついていけなかった。


「な……なんで……そんな……」


リアの声が震える。だが、イーサンは淡々と告げた。


「すまない……僕は、どうしても人間を──この世界を、簡単には許せない。

あの日、すべてが終わった。

平和も、善意も、希望も。

だから僕は……この腐った世界を、終わらせるために生きる」


その言葉は、まるで闇そのものだった。

リアが知っていた、あの優しく笑うイーサンではなかった。


「だったら……私も……あなたと一緒に……!」


リアが手を伸ばしかけた瞬間──

イーサンは、彼女の言葉を遮るように突き放す。


「来るな。君は、もう僕の足枷でしかない」


──それは、言葉の刃だった。

リアの胸を、深くえぐる刃だった。


「……っ……どうして……どうしてそんなこと言うの……!」


大粒の涙が、頬を伝い、雨に溶けていく。

世界も、心も、すべてが音を立てて崩れていくようだった。


リアは、震える手で胸ポケットに手を伸ばす。

そこには、イーサンにもらったオルゴールがあった。

壊れてしまったそれを、彼女はそっと取り出した。


「……私は、まだ……あなたとの思い出を、捨てきれないのに……」


リアの声はかすれ、途切れながらも、最後の望みに縋るように絞り出した。


「……イーサン。お願い……最後に、私に──“好き”って……言って……」


イーサンは、何も答えなかった。

雨が、静かに世界を飲み込んでいく。


やがて、彼はゆっくりと背を向け、無言のまま歩き出した。


リアは、その背中を見つめていた。

追いかけることもできず、ただ、その場に立ち尽くしていた。


そして、彼の姿が、降りしきる大雨の向こうへ、

灰色に沈んだ世界の奥底へと──静かに、溶けるように消えていった。


リアは崩れるように膝をつき、壊れたオルゴールを抱きしめた。


もう、音は鳴らなかった。

あの優しい旋律は、永遠に戻ってはこない。


雨音が、ただ響いていた。

世界で唯一、彼女の嗚咽を隠すかのように──冷たく、容赦なく。


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