第1話: Blackout Genesis
暗闇から始まった。
それは静寂というにはあまりにも息苦しく、夜というには色がなかった。
肌を刺す冷気、鼻を突く鉄と血の混ざった匂い。何かが壊れ、何かが失われた痕跡が、あたりに漂っていた。
彼は、目を覚ました。
視界が霞み、天井のようなものはない。ただねじれた鉄骨と焦げ跡の残る壁が、崩れかけた建物の断片として、空間を歪めていた。
「……ここは……どこだ?」
声を出した瞬間、喉に刺すような痛みが走った。
それと同時に、頭の奥がじんじんと痛み始める。脳の奥に火花が散るような不快感——記憶が、空白のままだ。
名前も、過去も、自分が何者なのかすらもわからなかった。
だが、それでも彼は反射的に動いた。破損したパイプの下をくぐり、鋭利な金属片を踏まぬように注意しながら、身を隠す場所を探す。
直感が告げていた。
——ここは、安全ではない。
その瞬間、耳に飛び込んできたのは機械音混じりの声。
「ターゲット、生体反応確認。スラム下層区域にて発見。即時捕捉コード23、実行を許可する」
電子的な雑音とともに、足音が近づいてくる。
軍用ブーツの重い踏み込み、金属製の義肢が地面を打つ音、乾いた笑い声。
追手がいる。自分を“ターゲット”と呼ぶ者たちが——。
咄嗟に身を伏せ、壊れたダクトに飛び込む。
身体は自然と反応していた。息を殺し、反射的にルートを計算していた。
(……なぜ、俺はこんなに動ける……?)
思考が追いつかない。
誰かに追われている。理由も、原因も不明のまま。だがそれよりも今は、生き延びることが先だ。
遠くで、無人ドローンが赤いスキャン光を放ちながら通過する。
追手の一人が声をあげる。
「やれやれ、また“欠片持ち”かよ。いったい何人目だ。こんなクズみたいな連中ばっかりザイロスに捨てられやがって」
「黙れ。命令は“回収”だ。……消される前にな」
彼らの会話は、耳に届いたが、意味はわからなかった。
だがひとつだけ確かだった。——見つかれば、終わる。
彼は廃墟の天井を駆け上がり、瓦礫の上を飛び越え、破れたフェンスを越えた。
ドローンの光が背後をなぞったその瞬間、煙の中へと転げ込むように逃げた。
──そして、そのときだった。
「……おい!」
金属を蹴る音とともに、路地裏に落ちた彼の前に、誰かの足が止まった。
上を見上げると、そこにいたのは少女だった。
短く切った黒髪、古びたミリタリージャケット、片方の目には傷が走っている。
だが、その目はしっかりと彼を捉えていた。まるで、彼をずっと前から知っていたかのように。
「……あんた、名前は?」
しばらく黙ったあと、彼は答えた。
「……知らない。思い出せない」
少女は少し眉をひそめ、肩をすくめる。
「ザイロスじゃ珍しくない話ね。じゃあ、適当に名乗りな。名前がないと、すぐに潰される街だよ」
彼は少しだけ考えて、口を開いた。
「……ノア。……そう呼ばれていたような気がする」
少女は少し驚いた顔をした後、にやりと笑った。
「ノア、ね。悪くない名前じゃん。
……私はミラ。あんた、運がいいわね。今日の私、ちょっとだけヒマだから」
彼女はノアの腕を掴み、裏通りの暗がりへと引きずるように歩き始めた。
「ザイロスは“そういう街”よ。名もなき奴が、名もなきまま死んでく。
でもね、たまに名を持った奴が、名を残すこともある。あんたは、どっちになるのか……見せてよ」
ノアはその背中を見つめた。
自分が何者なのかもわからないのに、ただ一つ確かなことがあった。
——この少女は、自分を見てくれている。
それが、なぜか嬉しかった。
ノアとミラは、薄暗い裏路地を抜けていった。
そこは建物というより「瓦礫が積み上がった空洞」だった。傾いたコンテナを改造した住居、壁に投影される広告ホログラム、下水道の上に吊るされたハンモック。すべてが即興で、そして絶望的だった。
「ここが“スラムロウ”ってエリア。ザイロスの下層中の下層。
ドローン監視も少ないけど、そのぶん人間が一番危ない場所」
ミラは慣れた足取りで歩いていた。
ノアは彼女の後ろをついて行きながら、自分の中の違和感を感じていた。目に映るものすべてに、既視感と計算が走る。
——この街の構造を、どこかで“知っている”。
「お前は……なぜ助けた?」
ふと、ノアが尋ねた。
ミラは立ち止まらず、ただ言った。
「なんとなく。……それに、あんたちょっとだけ面白そうだったから」
そのとき、彼らの頭上を、無人偵察ドローンが通過した。
だがミラはすぐさま路地の影にノアを引き込み、息を潜める。
「……今の、ハードギア社のやつ。カンパニーのひとつよ。軍需企業で、あたしの友達も何人か“部品”にされちまった」
「部品……?」
「ああ、ドローンや戦闘義体のパーツにね。生きたままね」
ミラは平然とした声だったが、その目は暗かった。
ノアは目の前の現実に、言葉を失った。
それがこの世界、この都市ザイロスの“日常”なのだと、突きつけられた。
「カンパニーはこの街に百以上ある。どれも利益しか見てない。
倫理?法律?そんなのザイロスには存在しない。
だから、せめて“自分の名前”くらい持ってないと、この街じゃ死ぬのよ」
そのとき、銃声が響いた。
遠くない——わずか数ブロック先だ。
ミラは一瞬、顔をしかめたが、慣れた様子で動かずにいた。
「またどっかの抗争ね。今日は“ヴェルド・コープ”と“ネクサス貨物”かしら。
ま、どうでもいい。巻き込まれなきゃいいのよ。……ほら、ついてきな」
彼女はさらに奥へと進んだ。
ノアもそれに従う。歩くたびに、自分の中の“能力”が目を覚ましていくようだった。通気孔の気流、地盤の傾斜、隣の建物との距離——すべてがノイズのように脳に入ってきて、構造図として組み立てられていく。
(……これは、なんだ?俺は一体……)
やがて、ミラは一軒のシャッターの前で止まった。
雑居ビルの地下。無数のコードと配線が絡まり、シャッターにはカンパニーのロゴがかすれて残っていた。
「ここは元・データサルベージ屋だった場所。今はもう潰れてるけど、中は使える。あたしの隠れ家ってわけ」
シャッターをこじ開け、二人は中に入った。
内部は廃墟と電子機器の残骸。だが、隅には簡易ベッドと調理器、古いモニターが並んでいた。
「好きに座って。水くらいなら出るわよ」
ノアは黙って腰を下ろした。
ミラは椅子に足を乗せながら、彼の顔をじっと見つめた。
「で?思い出したこと、何かある?」
ノアは首を横に振った。
「……だが、身体が……勝手に動く。地形の構造、逃げ道、追跡ルート、全部が見えるんだ。
俺は……普通じゃないと思う」
「ふぅん」
ミラは頷いたあと、真顔で言った。
「ねえ、ノア。あたし、ちょっとだけ面倒なことに巻き込まれててさ。
もしあんた、本当に何か特別な存在なら——手を貸してほしいんだけど」
ノアは彼女を見た。
その瞳の奥に、何かを求める強い炎が灯っていた。
「何を探してるんだ?」
「“世界を壊す何か”よ」
その言葉は、静かに、しかし確かに響いた。
それは希望か、恐怖か、あるいは——運命そのものか。
ノアは静かに答えた。
「……俺でよければ、手を貸す」
ミラは小さく、でも本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあ、契約成立。ようこそノア、“ザイロス”の戦場へ」
—
こうして、何者かもわからぬ男と、名もなき少女の物語は始まった。