銀河くじら
その時、僕は七歳で、小学校一年生だった。
「銀河くじらって知ってる?」
僕は前の席に座っていたシオンに話しかけた。彼女は長い髪をなびかせながらこちらを向き、微笑んだ。
「銀河くじら?なにそれ?」
僕はおもむろに、ランドセルから一冊の絵本を取り出した。その絵本には銀河くじらのの物語についてかかれていた。
「銀河くじらっていうのはね、こんなに大きくて、キラキラしてて、星と星の間を飛んでまわるんだよ。」
僕は彼女に、絵本の絵を指差して、身振り手振りを交えながら、銀河くじらのなんたるかを説明した。彼女は微笑んだまま、小さな相槌を打ち丁寧に聞いてくれた。昔から彼女は大人で、僕は子供だった。その時僕は本当に銀河くじらの存在を信じて疑わなかったし、おそらく彼女はそんな僕を気遣って何も言わないでくれたのだ。
「そんなもんいねぇやい。」
突然横から声が割り込んだきた。よくいるクラスのガキ大将、アキラだった。
「俺の父ちゃんが言ってんだ。宇宙に生き物はいないって。だいいち銀河くじらがいたとして、何を食べて生きてるんだい?」
アキラは不敵な笑みを浮かべ、絵本を覗き込んできた。確かアキラのお父さんは、宇宙についての研究者だとかいう噂だった。絵本には、銀河くじらが何を食べているのかについての言及はなく、確かにアキラの言う通りだった。
「えっと……」
僕が答えに窮していると、アキラは勝ち誇ったように鼻をならし、今度はシオンに噛みついてきた。
「お前はどう思うんだ?」
「えっと……私は……」
シオンは困った表情を隠そうと、作り笑いを顔に張り付けていた。アキラはいつものテストで満点を取っていて、スポーツもできた。そのクラスでアキラに逆らえるものはいなかったし、みんなから尊敬を集めてもいた。そんなアキラに言われると、なるほど確かに銀河くじらはいないような気がした。そう思うと、なんだか悔しくて、目に涙が浮かんできた。アキラはその様子を見ると、ふんと言って教室から出て行ってしまった。シオンは心配そうに僕を見つめている。
アキラはいつも僕に突っかかってきた。今になって分かったが、きっと僕とシオンが話をしているのが気に入らなかったんだろう。僕の遠き日の、ぼやけて溶けかかった記憶だ。
「なぁシーラン、銀河くじらって知ってるか?」
隣の席に座る金髪の男に話しかける。
「銀河くじら?なんだそれ。」
シーランは周辺の機械をいじりながら、キョトンとした表情をした。
あれから二十年、僕は木星往還船の機長になっていた。コックピットの窓を覗くと、眼下には青い地球が横たわっている。船は現在宇宙港に停泊しており、乗客をのせているところだった。
「すごいでっかくて、キラキラしてて、星の間を飛び回るくじらさ。」
「なんだそれ、お前アルコールチェックちゃんとやってんのか?」
シーランは訝しげにこちらを見つめる。そんなことお構いなしに、僕は管制室との交信を開始する。
「こちら、JA100MJ。乗客の搭乗が完了しました。分離許可を申請します。」
「了解。分離を許可します。8番航路から、ドライブ航法に移行してください。」
ひととおり交信を終え、コックピットから宇宙港のほうを覗くと、宇宙港は一部がガラス張りになっていて、中の様子を見ることができる。そこには一人の女性と、小さな男の子が手を繋いでこちらを見ていた。
「お母さん、お父さんが手を振ってる。」
隣にいる息子のカンタが、宇宙船に向かって手を振り、それにつられてシオンも小さく手を振る。カンタが手を振っている反対側の手には、あの本が握られている。あの人が小さい頃に見せてくれた、あの絵本。
突然、ガコンと大きな音が鳴った。目の前の宇宙船はゆっくりと動きだし、私たちから離れていく。
「お母さん、銀河くじらみたい。」
カンタは目の前の宇宙船を指差して言った。煌々と光輝くエンジンは、まるで光の粒子を纏う銀河くじらのようだった。
そう、銀河くじらはきっといる。私たち家族の心の中に。彼が今、そのパイロットだ。