寺 4
《役場よりお知らせします。本年の御林祭りは、諸般の事情により中止となりました。町民の皆様におかれましても、ご理解の程、よろしくお願い致します。繰り返します。本年の御林祭りは――》
町中のスピーカーからアナウンスが流れたのは、ケイトが五人組と古峰を引き合わせた三日後、七月一日の昼休みのことだった。
これまた田舎町ならではだが、町内で火事や災害が起きたときの連絡、そして毎日午後五時にかかるドヴォルザークの『家路』と、この町内放送は昭和の時代から、ずっと現役で活躍している。メールやスマートフォンアプリでの情報把握が苦手な、高齢者が多いという実状もあるようだが。
じつはアナウンスが流れるよりも前、朝の時点で、小中学校の教員たちは職員会議でそれを知らされていた。子どもたちにも各学級担任が、同じく朝のホームルームで早々に伝達済みのため、放送を聞いても校内がざわつくことはなかった。
この日、ケイトは中学での授業日だった。午後のクラスに備えて教材を準備していると、聞き慣れた元気な声で呼びかけられる。
「失礼します! ケイ先生!」
ぴょこんと頭を下げてから職員室に入ってくるのは、シーである。
「英会話の授業、先に準備しとくものとかありますか?」
幸浜中ではクラスで教科ごとの係が決まっており、こうして休み時間のうちに授業の事前準備がないか、確認しにきてくれるのだ。サイ、シー、ホウ、セイが揃って所属する二年一組の英語係は、誰あろうシーなのだった。
「特にないかな。あ、マグネットとチョークだけ、いつものように確認しておいてくれると嬉しいかも」
「オッケーです!」
おどけて敬礼のポーズを取るシーを見ていたケイは、ふと思い出した。
「そうだ、シーちゃん」
「はい?」
「ホーノーエンブ、残念だったね」
「え? ああ、お祭りのですか。しょうがないです。ていうか、こうなるのは予想できてたし、他のイベントで踊らせてもらうこともありますから」
「そっか。もしまたお祭り以外で踊る機会があったら、ぜひ教えてね。私もシーちゃんの晴れ舞台、観にいきたいから」
にっこり伝えると、逆にシーの方が大きく笑っている。しかもなぜかおかしそうだ。
「ありがとうございます。ていうかケイ先生、マジで日本語上手すぎ」
「え? そう?」
「晴れ舞台、なんて普通、外国の人は知らないでしょう」
ついには小さく肩を揺らす姿に、話が聞こえていたのだろう、周囲にいる他の教員たちからも「ケイ先生、本当はなかに日本人が入ってるんじゃないですか」「たまに私たちより、難しい日本語知ってたりしますもんね」などと明るい声が上がる。
「あはは。ちょっとだけ日本にいたこともあるので」
自分も思わず笑ってしまいながら、ケイトはファイルやバインダーを手にして立ち上がった。少し早いけど、まあいいだろう。
「じゃあシーちゃん、私も準備OKだから、一緒に行きましょうか」
「はい!」
そのままチャーミングな笑顔と連れ立って、二階の職員室を出る。二年生の教室は最上階の三階にあるので、縦に並んで階段を上っていると、見慣れた三つの顔が踊り場に現れた。
「お、シー、ちゃんと働いてるみたいだな」
先を歩くシーに、からかうような台詞をかけるのはサイである。
「失礼な。私だって係の仕事くらい、できますよーだ」
桜色の唇を尖らせるシーを見て、サイを挟むように立つホウとセイが笑みを深くする。自然といつものメンバーが揃う形になった。
「どうしたの、みんな?」
ケイトが尋ねると、「待ち伏せしてたわけじゃないですよ。……いや、ある意味待ち伏せかな」と意味不明な返答をするセイに代わって、ホウが教えてくれる。
「すみません、ケイ先生。でもケイ先生の授業、たまに模造紙の資料とかぬいぐるみとか、大きな教材を使うことがあるじゃないですか。だから、シーと二人で運ぶのが大変そうだったら手伝おうかって、サイと話して一応様子を見にきたんです」
「そうしたら、フラフラしてたセイも付いてきたってわけでして」
「だから、フラフラしてるとか言うな!」
今度はセイをからかうサイの補足はともかくとして、つまりはそういうわけだったらしい。いつもながら仲が良くて、しかも気が利く皆の姿がケイトの目にまぶしく映る。自分が同じ年の頃、こんなにキラキラして優しい子どもだったろうか。
「三人ともありがとう。今日は特に大きなものは使わないから、大丈夫よ」
笑顔を返しつつ、ちょっぴりいたずら心が湧いた。リーダーのサイがめずらしくおどけているし、そんな彼をたまにはいじってみようと思ったのだ。
「でもサイ君は、相変わらずだね」
「え?」
「今もホウちゃんとセイちゃんを、両脇にハベらせて」
「はい?」
ハベらせる、で合ってたわよねと日本語を脳内で確認しながら、ケイはますます軽やかな口調で、人気者のイケメン中学生をからかった。
「しかもシーちゃんとも、メオトマンザイみたいなトークして」
「け、ケイ先生?」
「こういうの、あれでしょう。日本語だと『ハーレム状態』って言うのよね。この前読んだ漫画に書いてあったわよ」
「変な日本語は覚えないでください! ていうか、ここ階段です! 他の人に僕が誤解されるじゃないですか!」
目論見通り、サイは彼らしからぬ慌てた反応を見せてくれる。なんだかんだ言っても中学生の男の子だ。失礼ながら、こういう姿はとても可愛らしい。
「うーん。顔がいいのは認めるけど、中身は残念だからなあ。すぐお説教してくるし」
「しかも私のこと、フラフラしてる女扱いだもん」
「ハーレムってことはつまり、一夫多妻主義ってことですよね。私はそういう男性、パスかな」
かたや女性陣は、もはやなんとも思っていないのか、容赦ない感想を浴びせまくっている。どの子ともお似合いなんだけどな、と内心で苦笑して、ケイトはアメリカ人ならではの器用なウインクをしてみせた。
「残念。美女三人に振られちゃったね、サイ君」
「勘弁してくださいよ。ひょっとしてあれですか、シーたちが古峰さんとのことをからかうからって、俺を生け贄にして仕返しですか」
「ふふ、そういうことにしておいて。ヤオモテに立ってもらって申し訳ないけど」
「うわ、また難しい日本語使いこなしてる」
すかさずシーがつっこみ、他のみんなが一斉に笑う。
いつものように明るい空気をまとったまま、ケイトは四人の教え子たちと教室へ向かった。
たまたまだろうが数時間後、五人組の残る一人、テンにもケイトは遭遇することとなった。
放課後。中学を出たケイトは自宅マンションに真っ直ぐ向かわず、直前の曲がり角を折れて長い坂を下っていった。二、三分歩き続けると、右手に小さなオープンデッキが見えてくる。デッキの向こう側にはガラスの引き戸と、手書きの素朴な看板。この町にただ一つの書店『ハマユウ書店』だ。
昨年オープンしたばかりというハマユウ書店もまた、ピザ屋のキャシーなどと同じく、移住者の夫婦が開いた店である。移住直後は車に本を積んでの移動販売だったが、「町に本屋さんがないのは、やっぱり寂しい」と一念発起、クラウドファンディングでの支援も募り、セレクトショップ型の小さなブックカフェを構えたのだとか。
そして嬉しいことに、ハマユウ書店では外国の書籍も置いてくれている。奥さんが海外ボランティアの経験があるとかで、ケイトをはじめ幸浜在住の外国人のために、英語やフランス語でかかれた小説、雑誌なども取り扱っているのだ。その他の書籍も、国内外問わず注文すれば取り寄せてくれるので、町民からの評判は上々らしい。
今日は英語研究部の活動がなく、時間もまだ夕方前なので、立ち寄って冷たいものでも飲んでいこうとケイトは思い立ったのだった。
「こんにちは」
引き戸を開けると、セルフサービスのカフェカウンターを拭いていた男性が、「いらっしゃいませ」と即座に振り向いた。彼――店主の草柳春夫と妻の美智絵はともにまだ三十代で、年の近いキャシーの甲斐夫妻とは特に仲が良いとも聞く。二人とも移住する前は都内で働いていたそうだが、春夫の方はなんとJリーグ事務局で働き、実際に試合運営などにも携わっていたらしい。
「あ、ケイ先生! こんにちは」
「こんにちは。ご無沙汰しちゃってごめんなさい」
「とんでもない。幸浜に来られて間もないのに、すっかり常連さんになってくださって、むしろ感謝しかありませんよ」
現在もサッカー観戦が趣味という春夫だが、「自分ではまったくプレイしませんから」と笑うように、小太りで顔も丸い、いかにも人の良さそうなルックスをしている。
「美智絵さんは?」
「娘と図書室にいますよ。呼びましょうか?」
「いえ、大丈夫です」
ケイトは素早く首を振ってみせた。春夫の言う「図書室」とは店舗エリアの奥、カフェスペースの脇に位置する、ちょっとした広間のことである。テーブルと椅子、そして壁際には絵本や図鑑、児童書の並ぶ棚が置いてあるそこは、『子ども図書室』として小学生以下の児童のために開放されている。自分たちも小さな一人娘がいる草柳夫妻ならではだし、両親が共働きの「鍵っ子」たちにとっても、ありがたい居場所になっているようだ。
「あら、ケイ先生。いらっしゃいませ」
こちらの声が逆に聞こえたのか、小上がりになっている子ども図書室の扉が開き、夫人の美智絵がひょいと顔を覗かせてくれた。幼稚園児の一人娘、結奈もその真下で同じポーズを取っているのが可愛らしい。
「こんにちは。ハロー、結奈ちゃん」
ケイトも笑顔で手を振ったタイミングで、さらに二つ、見知った顔が現われた。
「ああ、やっぱりケイ先生だったんですね」
「こんにちは」
美智絵の背後から、自分と同じように手を振ってくるのは葉村とテンだった。
「私も学校帰りに寄ったら、ちょうどテン君がいたんですよ。今日は学校で会えなかったから安心しました。今は二人で、のんびり読書してたところです」
自分の授業がない日だから、というのは自惚れだろうけれど、今日のテンは小学校を休んだらしい。日中、サイたちからテンの話題が出ることはなかったから、彼らも知らなかったのかもしれない。とはいえ、変わらず元気に過ごしているようで何よりだとケイトは思った。
「ちょうどみんなでお茶にしようかって話してたんですけど、ケイ先生もご一緒にいかがですか。冷たいものくらい、ご馳走させてください」
「いいんですか? ありがとうございます! じゃあ、お言葉に甘えて」
元気な様子のテンに会えて嬉しいのは、ケイトも同じだ。葉村に小さく頭を下げてから、「すみません、先にちょっとイップクさせてください」と春夫に笑顔で伝え、慣れた足取りでカフェスペースへと進んでいった。
他には誰も客がいなかったので、三つあるテーブルの二つを美智絵が繋げてくれた。葉村とテン、美智絵と結奈の二組がテーブルを挟んで向かい合う形、そしてケイトが「お誕生日席」(これも最近覚えた日本語だ)に座らせてもらう。しかも本来はセルフサービスのところを、
「じつは暇だったんですよ」
と笑う春夫が、それぞれのドリンクを素早く運び、さらには新メニューの試食をして欲しいと言って、抹茶風味のクッキーまでサービスしてくれた。至れり尽くせりである。
「いただきます、葉村先生」
自分どころか全員分のドリンク代を気前よく出してくれた葉村に礼を述べて、ケイトはアイスカフェオレのストローを口に運んだ。美智絵はもちろん、テン、そして結奈も、たどたどしい言葉遣いながら、「いただきます!」と一所懸命に伝えている様が微笑ましい。
「この時間に来られたっていうことは、今日は部活がない日ですか」
こちらは冷たいほうじ茶のグラスを持ちながら、葉村が訊いてくる。
「はい。日報とかも問題なく書き終わったので、時間通りに帰らせてもらいました。他の先生方は、まだお仕事されてましたけど」
少しだけ後ろめたさを感じながら答えると、葉村はそれを感じ取ったのか、「ケイ先生こそが正しいんですから、気にする必要はまったくないですよ」と笑顔で返してくれた。
話の流れを汲み取った美智絵も、加わってくる。
「こう言ったら失礼ですけど、先生方のブラック労働っぷりがよくニュースになってますよね」
「仰る通りです。私は小学校だからまだましかもしれませんけど、それでも夜まで残業することがたまにありますから。中学や高校で運動部の顧問なんてやった日には、朝練のために朝七時から学校に来て、帰るのは夜の同じ時間なんてざらみたいです。しかも休日は試合の引率で、これまた一日潰れてしまう方が普通だそうで」
「教員の絶対数だって、足りなくなっているんでしょう」
「ええ。そこも含めてまずは現状の労働環境を改善しなきゃいけないのに、政府が発表したのは、教員免許を持ってない人間でも一芸に秀でていれば教壇に立てる、みたいなトンチンカンな施策です。正直、現場は呆れ返ってます。……ああ、ごめんね、テン君、結奈ちゃん。要するに、僕ら先生は働き過ぎで大変だってこと。ははは」
厳しい顔で美智絵に答えていた葉村だが、すぐに気付いて、きょとんとしている二人に笑ってみせる。言葉通り大変な仕事なのに、常に目を配って子どもたちを第一に考える葉村のこういうところを、ケイトは心から尊敬している。
「だからケイ先生も、本当に気にしなくいいんですよ。特に幸浜みたいな田舎は、滅私奉公が当たり前っていう感覚が根付いちゃってますから」
「メッシボーコー?」
ケイトが訊き返すと、意外にもテンがぼそりと教えてくれた。
「自分を殺して、オオヤケに尽くすこと」
「ああ、セルフ・サクリファイス。うん、たしかにそういう行いも、やり過ぎはよくないものね。ありがとう、テン君」
理解したケイトが笑みを向けると、テンは恥ずかしそうにうつむいて小さな声で続けた。
「さっき、葉村先生に教わったばっかりだから」
子ども図書室で、ちょうど葉村から同じ言葉を教わったらしい。それを隠さず正直に告げるところが健気で、なんというか非常にテンらしい。
「慣習とか風習なんて関係ないんです。正しいことは正しい、間違ってることは間違ってるって、我々教育者こそが示していかないとね」
いつも通りの穏やかな表情だが、言葉に少しだけ熱を込めて葉村が重ねる。「はい」とケイトも頷いて、こういう先生に指導してもらえるテンたち幸浜の子は幸せだな、とお世辞抜きに思った。
と、同じくうんうんと頷いてくれていた美智絵が、ぽんと手を叩いて急に立ち上がった。
「そうだ、ケイ先生」
いそいそとレジカウンターの方へ行った彼女が、何かを手にしてすぐ戻ってくる。
その手には、将棋の駒くらいの小さな石が付いたキーホルダーがぶら下がっていた。
「これ、あげる」
「え?」
「前に来てくれたとき、松竹石の話をさせてもらったでしょう」
「ああ、はい」
言われてケイトも思い出した。幸浜でしか取れない松竹石の採石事業が、かつては町の主要な産業だったという話は、そういえば草柳夫妻から教わったのだった。
「たまたまだけど、この間、知り合いの石屋さんからいただいたの。余った石で手慰みに作ったものだけど、誰か欲しい人がいたら使ってもらって、って」
美智絵が掲げるキーホルダーの石は、綺麗な灰色に輝いている。受け取ったケイトは目を丸くした。
「えっ? じゃあ、この石って……」
「うん。小っちゃいけど本物の松竹石よ。せっかく幸浜に来てくれたんだし、良かったら使って」
「ワオ! いいんですか!?」
思わぬプレゼントに、ケイトは手を叩いて喜んだ。松竹石の実物は、町役場にある石碑くらいしか見たことがない。しかもあれはかなり古いものだったので、残念ながら何がどう凄いのか、さっぱりわからなかった。
けれども、このキーホルダーは違う。
「ソー・ビューティフル! ダイヤモンドみたい!」
「あはは、それは言い過ぎだってば」
自分の席に戻った美智絵は笑っているが、手のなかの松竹石は本当に美しかった。覗き込んだ自分の顔が映るほどに表面は磨き込まれているし、もとの形をあえて残したのであろう、左右非対称な凹凸の具合も、逆に芸術品のような趣がある。
「ありがとうございます! 大切に使わせてもらいますね!」
その場でさっそく、自宅のキーに付けている古い革製のキーホルダーと交換してみる。まだ新しい銀色の鍵とぴかぴかの松竹石は、最初からセットのように良く合っていた。
「キーホルダーがボロボロになってきちゃったな、ってちょうど思ってたんです。美智絵さん、超能力者みたいですね。作ってくださった石屋さんにも、よろしくお伝えください」
「うん。ケイ先生が喜んで使ってくれてるって、言っとくね。ていうか――」
言葉を切った美智絵は、おかしそうに肩を震わせた。
「ほんと、日本語ペラペラよね。敬語も完璧だし」
「サンクス。でもたまに間違えて、子どもたちにも使っちゃうんです」
はにかむケイトを見て、テンが再び自分から会話に参加してきた。
「ケイ先生、この前も授業で『プリントを出していただけますか』って言ってた」
「あ、そうかも。失礼しました、露木様」
おどけて返すと、テン本人の顔はもちろん、テーブル全体に笑い声が広がった。葉村も美智絵も、そして会話の意味がまだよくわからないはずの結奈すらも、皆が顔をほころばせている。
ハマユウ書店に寄ってやっぱり正解だったと、ケイトはますます嬉しくなった。