浜 3
「ケイ先生!」
のろのろとスマートフォンを下ろした刹那、反対側の手を掴まれた。
「行きましょう! 今日は俺、車で来てますから!」
「あ、はい!」
そうだ、呆けてなんていられない。我に返ったケイトは、穿いているデニムパンツの尻ポケットにスマートフォンをつっこんだ。あとはサイドボードから財布と、あの松竹石のキーホルダーが付いた鍵だけを引っ掴んで、古峰に引っ張られるようにして部屋を出る。マンションの向かいにある専用駐車場に着くまで、彼はずっと手を握っていてくれた。
「飛ばせば五分もかかりませんよね」
「イエス! お願いします!」
いつだったか、野明が乗って走り去ったあのセダンの助手席に、ケイトも素早く乗り込んだ。 さすがは刑事、古峰の運転技術はたしかで、素早く駐車場を出た車は、佐ヶ浜のある山石海岸までの一本道もスムーズに進んでゆく。
「竹宮町長は少年時代、高田谷たちのいじめを無理矢理手伝わされていたんですね」
外はもうかなり暗くなっていた。ヘッドライトが照らす前方を見つめたまま、古峰が厳しい口調で確認してくる。
「はい。脅されて仕方なく葉村先生を呼び出したり、彼の持ち物を盗むような役をやっていたみたいです」
「そういう関係だったうえに、暇を持て余しているチンピラだから、わざわざ町議会にまで出向いたんでしょう。隙あらば町長に直接声をかけて、強請ってやろうという考えもあったのかもしれない。ケイ先生が仰っていた、あらためていじめようとしてた、っていうのもビンゴだったんだ」
「ですね」
許せない、と口を引き結ぶケイトだけでなく、古峰もまた、彼にしてはめずらしく露骨に舌打ちなどしている。
「最低だな……。ああ、もちろん高田谷たちのことです」
佐ヶ浜に続く坂を下りながら、苦々しい声が続く。
「刑事としてこんなことを言っちゃおしまいですけど、一人の人間として、何よりケイ先生と仲良くさせてもらっている人間としては、僕も被害者の四人は殺されて当然だとも思います。逆に言えば町長は、お父さんは、そこまでされなくてもいい」
「サンクス」
言葉通り、刑事としてではなく彼が一個人として憤り、同時に父をかばってくれるのがケイトは嬉しかった。なんの確証もないけれど、まだ間に合うんじゃないか、なんとかなるんじゃないかという希望が胸に湧いてくる。
「きっと大丈夫です。お父さんも葉村先生も、そしてテン君も、必ず助けましょう」
「はい!」
捕まえるとか確保するではなく、「助ける」とはっきり言い切ってくれたのが、ますます心強い。
両手をぎゅっと握りしめて、ケイトもまたフロントガラスの先に強い視線を向けた。
山石海岸に面した細い道路に車を停め、二人は駆け足で砂浜へと下りていった。陽はますます陰り、周囲はもうかなり暗くなっている。
「お父さん!」
たまらずケイトが呼びかけると、古峰もすぐに「竹宮町長!」と続いてくれた。しかし返事はない。視線のずっと先、海岸の突き当たりにある岩場の手前には、資料にも記した弁天島の影が黒々とそびえている。しかし、そちらからも沈黙が返ってくるばかりだ。
「あのあたりが、佐ヶ浜ってことですよね」
スマートフォンのライトを点けた古峰が、弁天島に面した一帯に光を向ける。
「ええ。そうみたいです」
ケイトも同じように、スマートフォンの懐中電灯アプリを起ち上げた。だが、やはり人影は見えない。
歩を進めながら、古峰が真剣な口調で意見を述べる。
「今回だけは、葉村先生がみずから手を下すか、少なくとも実行役を手助けするつもりかもしれません。過去四つの事件と比べて時間が早いのも、そのためじゃないでしょうか」
「え?」
一瞬だけぽかんとしてしまったケイトだが、すぐに自分も意味を理解した。
「!! 今回はテン君だから……」
「はい。いかに町長が覚悟を決めているとはいえ、小学生の彼がそうそう簡単に、大人の男性をどうにかできるとは思えません。ましてやテン君は不登校気味で、周囲から大事にされてるんですよね。そんな子どもが夜、一人で家を抜け出して、佐ヶ浜に来ることは難しいはずです」
「なるほど」
頷くとともに、ケイトはきゅっと唇を噛んだ。テンは一体、どういう風に葉村に洗脳されているのだろう。たとえ刑事責任を問われないにしても、あの子にまで殺人を犯して欲しくない。もうこれ以上、教え子たちの手が血で汚れて欲しくない。
「テン君……」
名前をつぶやくと同時に、小柄な姿が脳裏に浮かび上がる。口数こそ少ないものの、きちんとこちらに向けてくれるはにかんだ笑顔。シーやセイと手を繋いで、琴浜の海岸を軽やかに歩く背中。そういえばあの子は海の生き物が好きなようで、蟹や魚を見つけるのも得意だった。
「……あっ!」
刹那、ケイトは駆け出していた。「ケイ先生!?」という古峰の声に、振り返って叫ぶ。
「岩場です! 蟹とか魚がいそうな!」
海岸の形に添って緩やかなカーブを回り込む。弁天島の向こう側に見える岩場。その一部は坂になっていて、小高い崖状の部分もある。
ライトが作る小さな輪のなかに、二人ぶんの人影が浮かび上がった。
呼びかけるよりも先に、竹宮とテンはこちらに視線を向けていた。話し声と明かりでわかったのだろう。
「ケイ」
何かを悟ったような声で、逆に竹宮が自分を呼ぶ。崖の先端で、小さな石に腰かけた格好をしている。
そして。
「テン君! 駄目!」
どうしてケイ先生がここに? とばかりに小首を傾げる上半身だけが、彼の肩越しに見える。 座った竹宮の背後に、テンが立っていた。両手に細いものを持って。竹宮の首に何重にも巻かれた、縄の両端を握って。
「私と同じように、全部気付いたみたいだね。『まつり』に繋がる場所とこの子たちが鍵だったってことに。ただ、最後はテン君だからさ。いきなりガツンだと難しいだろうから、私から提案したんだ。せっかくだからこれも名前にちなんで、纏ってからこの岩でとどめを刺せばいいんじゃないかって。先に意識だけでも失えば、私も痛くないし。ははは」
「何を言ってるの……」
笑顔すら見せながら語る父に、ケイトは呆然と返すしかない。本当に何を言っているのだ。死ぬ必要なんかないのに。無垢な少年の手を、汚させる必要なんかないのに。
「違うんだよ、ケイ」
心のなかを読み取ったみたいに、竹宮がそっと語りかけてくる。直後に視線だけをずらして、彼は古峰を牽制した。
「ああ、古峰刑事も動かないでください。飛びかかろうとしたら、テン君は自分ごと海に落ちるつもりみたいですから。この下も岩場なので、頭でも打ったら彼だって、ただでは済まなくなってしまう」
「竹宮さん……」
まさに一歩踏み出そうとしたのだろう、古峰の足下から砂と岩がこすれる小さな音が聞こえた。これでは、ケイトともども身動きが取れない。
「違うんだ」
もう一度繰り返してから、竹宮は伝えてきた。
「私は裁かれなきゃならない。復讐を受けなきゃならない。だって犯罪者なんだから。名簿を持ち出したことじゃないよ。葉村さんに対する罪だ。暴行や恐喝、窃盗に器物損壊を幇助した、卑劣な犯罪者としてだ。子どもの頃だとか、何十年も前だとか、そんなものは関係ない。やられた方は一生忘れない」
「ですが竹宮さん。民法上、いじめは三年、二〇二〇年以降に発生したものでも五年で時効を迎えます。あなたはもう許されているじゃないですか。少なくともその間は、ご自身も苦しんだんじゃないですか」
「そこもまた、いろいろと違うんですよ。古峰さん、あなただってわかってるはずだ」
「違う、とは?」
「まず第一に、『いじめ』なんていう名の罪は本当は存在しない。今言った通り、正確には暴行や恐喝、名誉毀損、窃盗に器物損壊といった、まごうかたなき刑法上の犯罪行為です。平仮名三つで簡単に語っていいものじゃない」
「それは、そうですが……」
言葉に詰まる古峰を静かに見据えたまま、諭すかのごとく竹宮は語り続ける。場違いながら、そこには普段見せない、首長としての威厳や説得力が漂っているようにすらケイトは感じた。だからだろうか、彼の背後に立つテンも、まるでマネキンのように微動だにしない。
「もう一つ。世間一般で言ういじめは、たしかに最長でも五年で時効扱いとなります。ですが、これこそが大きな間違いに他ならない」
言い切った竹宮の目が鋭く光る。強い意志が瞳にこもっているのが、薄闇のなかでもはっきりとわかった。
「誰かの心や身体を理不尽に傷付けて、たった五年で無罪放免? そんなふざけた話がありますか。犯人が最低でも同じだけの目に遭わなければ、被害者は決して納得しないでしょう。ましてや、いじめられた記憶がトラウマになって何年も、何十年も苦しめられているのなら、それに比例して罪の重さはどんどん増していると言っていい。繰り返し繰り返し、癒やされる暇もないほどに、ずっと心が傷付けられるわけですから」
「……だから、死んで償えと?」
古峰の問いに対する答えは、「はい」でも「いいえ」でもなかった。
「三十四年です」
「え?」
「葉村さんも今年で五十二歳です。大学進学を機にこの町を出て、奴らと顔を合わせる機会がなくなっても、以後三十年以上もの長きに渡ってトラウマを抱えさせられていたんです。心から血を流し続けていたんです。意味もなく威張っている奴らから、なんの落ち度もないのに、『挨拶がない』だの『ちょっと勉強ができるからって調子に乗っている』だの言いがかりをつけられて、殴る蹴るの暴行を受ける恐怖。そんなクズどもに屈してしまった自分への嫌悪感。きっと思い出すだけで、胸をかきむしりたくなったでしょう。どうにかして高田谷を、金分を、佐田を、柳井を、殺したくて仕方なかったでしょう」
淡々と、目の前の事実を語るようにして竹宮は言葉を重ねていく。
「それほどの罪が、卑劣な行為が、子どもの頃の話だからとか、五年経ったからとかで許されると思いますか。事情はどうあれ、手伝ってしまった私だって同罪です。実際にいじめられていた期間も含めれば、四十年近くも刻み続けられた傷に対して、償わなければならない。むしろこの命一つじゃ足りないくらいだ」
「そんな……」
どう反論していいのか、ケイトにはわからなかった。法律のうえでは竹宮も、殺された四人も、もう葉村に対するいじめの罪は問われないらしい。けれどもそれ以上に、父の言い分がわかる。わかってしまう。
アメリカに戻ってすぐの少女時代、ここまでひどくないにしても、自分も同級生にいじめられかけた記憶があるからだ。
アジアの血が混じっていることから、心ない同級生が目を左右に引っ張るようなジェスチャーをしてきたり、覚え立てのスラングの練習台だったのか、「ニーハオ、ジャップ」などと男の子がからかってきたり。ただ幸いなことに、どちらも友人がその場で抗議し、しかも先生に伝えて逆に大問題にしてくれた。即座にクラスミーティングが開かれ、人種差別は絶対にしてはいけないことだと、からかってきた生徒たちは厳しく叱られ、保護者まで現われてケイトに謝ってくれた。
今でもたまに思い返す。あれを愛想笑いで流してしまったり、友人や先生が助けてくれなかったら、自分だって醜悪ないじめの被害者になっていたかもしれないと。だからこそアメリカでも日本でも、クラスでそうした言動がないか常に目を配っているつもりだし、未来を担う子どもたちには正しい価値観を育んで欲しいと願っている。そしてそういった想いこそ、じつは教師の道を志した動機の一つでもある。
だが葉村は不幸にも、周囲からの助けを得られなかった。失礼な言い方を許されるならば、民度の低い閉鎖的な田舎町で、まともな価値観や倫理観すら持たない「DQN」のターゲットにされてしまった。
相手を殺したくなっても当然だ。彼や父と同じように思う自分の心を、ケイトだって自覚してしまう。ごまかせない。嘘はつけない。
「あ……」
だからなのか、と合わせて理解する。理不尽な法律が復讐を許さないなら、何はなくともルールに従えと言うのなら。いいでしょう。従いましょう。そういうことなのかと。
十四歳未満なら、刑事責任は問われないんでしょう? と。
再び娘の心を読み取ったようなタイミングで、頷いた竹宮が言う。
「呼び出しの電話を受けて、いろいろ話をさせてもらいました。五年前、幸浜小に異動してきたタイミングで葉村さんは知ったそうです。かつて自分をいじめた主要メンバーが皆、この町に帰ってきていたり、残っていたりすることを。もちろん私も含めて」
「そのときから復讐を計画して、ずっとテン君たちを洗脳していた? 五年間も?」
信じられない、とでもいう様子の古峰に、だが竹宮はあっさりと「だと言っていました」と重ねて頷く。
「三十四年に比べれば短いものだ、とも。たまたまだけど、賢くて行動力があって、自分を慕ってくれる子どもたちに出逢えた。刑事責任を問われない優秀な代行者が、五人も集まった。だからこの子たちに対して、事あるごとに伝えてきたそうです。いじめは絶対に許しちゃいけない。暴力や恐喝という名の立派な刑事犯罪であって、心や身体を傷付けるだけでなく、死亡にまで追い込まれる人だって出ている。逆に言えば、いじめをするような人間は消されて当然なんだ。むしろ被害者を守り、正義を守るためにも消さなければならないんだ、と」
ああ、とケイトは心臓のあたりに手を当てた。やっぱり否定しきれない。完全に反対できない。そういう結論になっても仕方ない、法には触れてしまうけど理解できる、という感情が自分のなかから消せない。DQNなんて、誰かを理不尽に傷付ける存在なんて消えていい、死んでいいと思ってしまう。
「僕だって気持ちは理解できます。一個人としては殺された高田谷たちに対して、これっぽっちの同情も持っていません」
ぐっと踏ん張るようにして、それでも古峰が反論する。
「けど、日本は法治国家です。どんな人間もルールのなかで裁き、裁かれなければならない。我々警察はその法を守る者です。何より、子どもたちに歪んだ正義感を刷り込んで、ヒットマンに育て上げるなんて、逆に許されない」
「普通はそう考えますよね。しかし葉村さんは違った。あなたもケイもご存知の通り、彼は分別があって多くの人から慕われてもいる、むしろ人格者といっていい人だ。それほどの人物が三十四年間も殺意を抱き続け、無関係な少年少女を巻き込んでまで遂行している復讐なんですよ。抱えた恨みのほどは、もはや彼にしかわからない」
なので、と息を吐いてから竹宮は繰り返した。
「私もまた、殺されなければならない。葉村さんをそこまでにしてしまった元凶の一人ですから。ついでに言えば、現時点でも犯罪者ですし」
笑えない冗談に、ケイトと古峰は沈黙するしかない。
「せっかく町長にしてもらえたんだから、もうちょっといろんな施策をやってから、罪を償いたかったんだけどなあ。まあ仕方ない。自業自得ってやつだ」
娘に目を合わせた竹宮が、部屋で電話を受けたときと同じような台詞を続けたとき。
「安心するといい、町長。一連の処理で、この町も少しは変わるはずだ」
いつの間に近付いていたのだろう。しかし、なんとなく予感もあったことだった。
ケイトの左手、車を停めた道路から続くキャンプスペースのあたりから、葉村が現われた。薄手のジャンパーにジーンズという、ちょっと散歩に来ました、とでもいうような格好で。
「葉村先生!」
ケイトと古峰の声が重なる。それでも反射的に「先生」と呼んでしまうのは、やはり二人とも、心のどこかで彼に共感しているからかもしれない。
「ケイ先生も古峰さんも、すみません。せっかくここまで、ご足労くださったのに」
竹宮とテン、自分と古峰。そのちょうど中間に双方を見られる角度で立った葉村が、小さく会釈してくる。口調も仕草も、いつもと本当に変わらない穏やかなものだった。
「葉村先生、どうしてこんな……」
ライトを向けてなんとか呼びかけるケイトだったが、葉村は微笑すらたたえて、ゆっくりと首を振るだけだった。
「すべて町長が言った通りです。この人たちは処分しなければなりません。彼らが犯した罪は、五年で消えるようなものじゃないし、もちろん私個人としても許せませんから」
「だからって、なぜ子どもたちを巻き込むんですか!」
「それもわかっているでしょう。あなたたちが盲目的に守っているおかしなルールに、こちらも則ってあげたまでです。子どもたちだって理解していますよ」
テンを手で示しつつ、古峰の問いにも落ち着いて答える葉村。「処理」だの「処分」だのと怖ろしい言葉を使いながらも、堂々と立つ姿は本当に、どこまでも「先生」だった。そしてテンもまた、行儀の良い彼らしく素朴に、真っ直ぐに立ち続けている。ただ一点、両手に縄の両端を握るという異常な行動をしながら。
「でも父は、町長は、脅されてやっていただけです! 今だって反省してるし、だからこそ町を良くしようと町長になったんです! それでも許せないんですか!?」
必死で訴えるケイトだったが、もう一度視線を向けてきた葉村は、「残念ながら」と首を振るだけだった。
「これまでの四人と比べて、多少は同情の余地がある気もしますが、結局は同じです。少なくともこの三十四年、私は彼から正式な謝罪を受けたことなど一度もありません。本気で反省して、後悔もしているなら、それぐらいはできるはずでしょう。やられた方は忘れないけど、やった方はそれがどれだけひどい行いでもコロッと忘れる。よく言われる通りじゃないですか」
「そんな……」
だが何十年も昔のことを逆に蒸し返して、「いじめの片棒を担いでごめんなさい」などと、突然謝るのも難しい話ではないだろうか。世のなかにはきっと、似たような関係の人は沢山いるはずだ。
「何年も経ってからいきなり、昔いじめてごめんなさい、なんて頭を下げるのは変だと思いますか? でも、今言ったばかりですよ。やられた方は決して忘れない。いきなり物陰やトイレに連れ込まれて、殴られ、蹴られ、お金を強請られる。鞄の中身をぶちまけられる。しかも複数人で。記憶から消えるわけがないでしょう。あなたの父親はそんな最悪の犯罪行為に対して、見て見ぬふりをするばかりか逆に手伝っていた。芝居がかった言い方をするなら、それだけでも万死に値します」
わずかも揺らがない教師の口調で、噛んで含めるようにケイトは諭されてしまった。こんな状況なのに、頭の片隅では説明の上手さに感心してしまうほどだった。
「ちなみに、ケイ先生が町長の娘さんだというのは、私も存じ上げていました。計画を実行するに当たって、処分対象のことは興信所に頼んであらためて調べてもらいましたから」
「えっ!」
「ああ、でも安心してください。あなたを通じて町長の動向を把握しようとか、計画を実行するときに利用させてもらおうとかは、最初から考えていませんでしたよ。ずっと離れて暮らしていたこともわかりましたし、そもそもケイ先生にはなんの罪もない。処分しなければならないのはあくまでも、卑劣で汚い犯罪者どもだけです」
「葉村先生……」
この人は、と今さらながらにケイトは痛感させられた。
彼は、葉村は心の底から、魂の根っこからそれが当然だと思っているのだ。ゴミを捨てるように。害虫を駆除するように。暴行や恐喝を行いながらも罰を受けていない人間を、世のなかから消さなければと。消すべきなのだと。しかもその部分以外は、どこも狂っていない。善良で優秀な小学校教師のまま、ただ一点だけを独自の倫理観にスイッチしてしまっている。だからこそ、もはやどうしようもない。
説得は不可能だと、古峰も実感したのだろう。隣から悔しげな吐息が聞こえる。それに答えるように、葉村が「すみませんね」と再び謝った。
「まあそんなわけで、邪魔立てはしないでください」
「待ってください!」
竹宮とテンの方へ歩み寄ろうとする葉村に、それでもケイトはすがりつくように呼びかけた。
「葉村先生は、このあとどうするつもりなんですか。テン君と一緒に父を殺して、かつて自分をいじめた人たち全員への復讐を成し遂げたら」
問いかけながらもわかっていた。先ほど、その父が教えてくれたのだ。今いるところの下は岩場で、頭でも打てばただでは済まないと。
「私はもう、いいんですよ。五十を超えるまで、それだけを願って生きてきたような身ですから。子どもたちに手伝ってもらったのだって、一人で五件も処理し続けていたら、絶対に途中でバレてしまうと思ったからです。古峰さんがいらっしゃるから持ち上げるわけじゃありませんが、日本の警察は本当に優秀ですし」
具体的にどうするかは言わない。だがじゅうぶん答えになっている。ケイトが予想した通りの答えに。きっと葉村は、テンを手伝ってこの場で竹宮を「処分」した後、背後の崖下に頭から身を投げるつもりだ。そして、もし自分たちが飛びかかってでも止めようとしたら、竹宮もろとも同じ行動を取るだろう。場合によっては、テンまで巻き込まれてしまうかもしれない。
「ああ、発砲もなしですよ、古峰さん。ピストルを出した瞬間、あなたたちが心配されている通りの行動を取らせてもらいます」
くるりと身体を捻った葉村が、余裕の表情で右手を差し出す。図星を突かれて固まったのは、ジャケットの内側に手を入れかけていた古峰だ。
もはや完全に、この場の主導権は彼に握られていた。
「ごめんね、テン君。ずいぶんと待たせてしまって」
引き続きケイトたちを目で牽制しつつ、葉村が斜め歩きでさらに進んでゆく。
「でもケイ先生と古峰さんには、きちんと説明したかったから」
竹宮の脇を通り抜け、背後に回る。
「君も二人のことは好きでしょう?」
テンの右肩にそっと手をかける。
「さあ、教えた通りにできるね」
無言のまま、テンがちらりとこちらを見る。暗がりのなかでも、あのつぶらな瞳と真っ直ぐに目が合ったのが、ケイトにはわかった。
「テン君! 駄目!」「テン君!」
古峰と同時に、これまでで一番大きく叫んだ刹那。
「テン!」
自分たちよりもさらに響く声が四つ、重なって届いた。砂を踏みしめる、いくつもの足音とともに。
「お前はいいんだ、テン!」
「こんなことまで真似しちゃ駄目!」
「あとは私たちにまかせて」
「テン、その人だけはいいの」
ケイトを見つめていたテンの視線が、丸い瞳が、大きく揺れる。口がぽかんと開かれる。
どうして? とばかりに。
「お兄ちゃんと、お姉ちゃんたち……」
振り返ったケイトも両手で口を覆い、声にならない声を漏らす。
息を切らせてみんなが辿り着く。サイが、シーが、ホウが、セイが。テンのお兄ちゃんとお姉ちゃんたちが。
大切な教え子たちが。




