真空パックの男
ただ、自転車に乗って、いつもと変わらない長い直線路を進んでいただけだった。それだけだった。
はっきりと、この季節だと断言できるわけではない時期だった。暑いのか、寒いのか、よくわからない気温と天気だった。街全体が青黒に覆われていて、等間隔に置かれている街灯や正面から向かってくる車のヘッドライトが、自分の視覚を占領するほど明るく感じられた夜であった。
長い直線路の中間の手前まで来たとき、うしろから自分の聴覚域をすべて満たすほどの大きな音が吹きあげられた。一台のバイクが自分の左側を通過しようとしていた。
そのバイクが自分の隣に並んだその一瞬、バイクの男と目が合った。
その男の目は、自分を邪魔者として扱う蔑んだ目でも、意図せず目が合ってしまったときの恥と戸惑いを錯覚させるような目でもない。どこか哀愁と不思議さを孕んだ、そんな目だった。とても綺麗な目であった。
そのバイクは、もう消えていた。
その後、すぐに未来の道に目を向けたわたしは、なんともおかしな光景を見た。
似たような見た目をしたアパートや形の決められた戸建て住宅が並んでいるその奥の奥にあるビル。その大きな大きなビルが、いつもと変わって見えたのである。ビル自体の外観に変化はなかったが、そのビルを下から支える大きな三叉の鉾が誕生していたのである。
「ほぉ~、なんともおかしな建物になったなァ」
わたしは、その姿に感心してしまった。何かを媒介して得られた言葉ではない。純粋なわたしの言葉だった。
しかし、瞬きをした後、数秒前に視界に映っていた、そのなんともおかしな建物は、元の形に戻っていた。パチクリパチクリ、目を開いては閉じてを繰り返してはみたものの、結局、なんともおかしな建物に見えたのは、その一度きりだった。
注視していた間、わたしはその場で自転車を停止してしまっていた。ペダルに力を注入し直し、また前に進み出した。
だが、おかしな出来事は、一つでは終わらなかった。次は、わたしの進行方向の逆から一台のトラックが近づいていた。そのトラックは、見た目はごく普通のトラックなのだが、おかしな進み方をしていたのである。何かに追われるようにこちらに向かってくるそのトラックは、四つのタイヤをすべて地面につけていなかった。前輪のみで前かがみの姿勢になったり、歴史の教科書で見るナポレオンの絵画の馬のような態勢だったり、左のタイヤしか使わなかったり、右のタイヤしか使わなかったり。とにかく、ずっと不安定な状態で、Sを描くように走行していた。
そして、わたしは、そのSの終点付近にいたのである。
トラックと衝突してしまう!
わたしは、自転車を飛び降り、小さな公園の草むらに飛び込んだ。草むらは、想像していたよりも硬く、トゲトゲしており、わたしの皮膚を刺激した。
草むらから起き上がり、トラックを確認してみる。トラックは、Sの第二カーブくらいの地点に止まっており、わたしの自転車は無事であった。
けれど、わたしにとって、そんなことはどうでもよかった。わたしが一番にコワかったのは、トラックの運転手がわたしに飛びかかってくることだった。
なぜ、そんなことをコワがったのだろうか。ただ、停止したトラックのフロントガラス越しに見える運転席が、やけに暗く見えた。
すぐに自転車に飛び乗った。わたしを通り過ぎると思っていたトラックは、わたしを通り過ぎることなく停止したままで、トラックを通り過ぎたのはわたしの自転車の方だった。
ペダルを回して回して、やっとのことで大通りに出た。大通りはいつもと変わらない様子だった。仕事終わりに腹を満たして帰るラーメン屋も、その隣のコンビニも、まったく変わりない。
はずだと思っていた。
建物自体におかしな追加要素もなければ、目の前を横切る自動車もすべてのタイヤを地面につけている。
なのに、街の作り漏らす音と光が、やけに気持ち悪い。
「ァ」
らーめん屋の名前が少し変わっている。隣のコンビニも。さきには視界にすら入ることのなかった二階のスナックの名前まだ変わっている。名前だけじゃない、フォントも違う。建物の形や色、場所はまったく変わっていないのに。
ここは、ドコだ。
わたしの視界に子どもの影が不意に入り込んだ。わたしは、その影の主を捕まえようとした。自転車をその場に止める。
等間隔に並んだ街灯がひどく弱くなった。影はよりいっそう暗闇と一体化しようとしている。明るさをこの視覚が捉えているはずなのに、子どもの姿が明確にならない。少年なのか、少女なのか。
「急に引き留めて悪いのだが、ここはいったい……」
その場で少しかがみ、不確定なその子どもの目線と自分の目線を合わせる。
「ヒッ……」
影だった。影そのものだった。ただ黒く、立体になることのない影だった。
影の主は、存在すらしていなかった。
恐怖と孤独が完全にわたしを武装した。止めていた自転車にすがり乗り、さっきほど通って来たいつもの直線路へと引き返した。
戻ってきた直線路には、Sを描こうとしていたトラックの姿はもうなくなっていた。しかし、その無は、わたしの武装をより強固なものとした。
ダレか、ダレか。
人は、いないのか。
自転車をその場に捨て、その直線路を左右に首を振りながらただ走った。直線路の中間地点まで走ったわたしは、膝に手をつき、視界を地面いっぱいにした。額から落ちてくる汗は、瞼に到達する前にコンクリートの地面を濡らす。
顔上げ、正面をしっかりと見る。
なんと。直線路の終わりに人がいるではないか。
等間隔に並んだ街灯は、先ほどの大通りのものよりもひどく明るい。わたしは、その人を目指して走った。
その人に手が届く距離まで来たわたしは、それが影でなく、人であることを確定のものとした。少しばかり安心した。
スーツを着ていて、わたしと背丈はほとんど変わらない。首や耳、手の肌が見える。わたしの恐怖と孤独の武装は、一気にほどかれた。
しかし、急にドッと疲れが押し寄せた。全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
その人は、気配を感じたのだろうか。座り込んだわたしと同じように、その人もわたしの前に片膝を立ててその場にしゃがむ。
わたしは、疲れを押し殺しながらその人に問いかけた。
「今しがた、非常に奇妙な体験をしまして……」
その人の顔を視界に映す。
笑っていた。眉も、目も、口も、そのすべてが三日月の形をしていた。
奇妙な笑顔であった。人であることは確かなはずなのに、その笑顔だけがどうしても張り付けた仮面のようにしか見えなかった。
一度ほどかれた恐怖と孤独の武装のうち、恐怖だけがわたしを纏った。
その人は、その笑顔をまったく崩すことのないまま、胸ポケットから何かを取り出した。
長方形に折られているそれは、目の前で広げられ、正方形になった。
胸ポケットから取り出されたそれは、真空パックに入れられた人の顔であった。空気が抜かれ、シワくちゃになっているのに、その顔の皮膚は、生きたそれの新鮮さと同じだった。
その顔は、その人の笑顔だった。
真空パックに入ったその笑顔は、街全体にいくつも浮かび上がった。
わたしは、蓮池のお釈迦さまのような気分でその街を見ていた。
それは、わたしの顔であった。
わたしは、その光景に、ほんのチョットだけ美しさを感じたのであった。