ミライル、その秘密の逢瀬
馬車が走り出してから、室内と馭者席との間をつなぐ小窓が開いた。
「奥様、いつもの場所でしょうか?」
「ええ、中央繁華街の2番環道を北側へ行ってちょうだい」
「あの脇路地の店ですね?」
「ええ、あなたに何度も送っていただいたお店だわ」
「そうですね。懐かしいものです」
馭者は時を計るとある数字を口にした。
「10年ぶりでしょうか」
「もうそんなに経つのね」
「はい、それだけの時間が経ってしまったのですね」
「それにしても、なぜ10年ぶりなのかしら?」
ミライルのつぶやきに初老の馭者は少し沈黙していたが、やがて静かに言葉を吐いた。
「10年ぶりにどうしても伝えたいことがお有りなのでしょう」
「そうかもしれないわね。伝えたいことは、世話話かもしれない、恨みつらみかもしれない、何の警告しに来たのかもしれない。それともあるいは……、いいえそういうのは詮索するのはやめましょう。考えても仕方ないことだわ」
そう言いながら白い封筒の手紙を開く。
『いつもの店であなたを待つ』
中にはそう記されているだけだった。
日付も時間もない。ましてや目印となる店の名前すらない。それでもミライルにはその手紙が何を意味するのかは、十分に分かっていた。
手紙を眺めながら馬車に乗り続けていると、ある地点で脇路地へと入っていく。
表通りには高級レストランやホテル、路地に入ると小規模なお店や酒類を提供する店が集まる。そういう場所だった。
表通りからかなり入った場所、人通りも決して多くはない。そこに地上2階建ての建物があった。正面入り口とは別に片隅に地下階へと降りていく階段が覗いていた。
その店の前で馬車は停まる。ミライルは馭者の手を借りずに馬車から降り、背後を振り返らずに声を返した。
「また後で来てちょうだい」
その言葉に対する問いかけも承諾もない。馭者は無言のまま馬車を走らせて去っていった。
声を出さずに沈黙を守ったまま地下階へと降りていく。そしてそこには一枚の木製のドアがあった。それを押し開いて勝手知ったるように何も言わずに店の中へと入っていく。仄明るいランプだけが頼りの店内を歩きながら、ミライルはとある席に座った。
「店の入り口から5列目の壁際、店の入り口に背中を向けるように座る」
そう呟きながら記憶にある席に座る。ミライル以外に客はおらず、店員も声をかけては来なかった。だが彼女は慌てない。じっと何かを待つだけだ。
それから何分ほどだっただろうか? 俯いて静かにしていたミライルだったが、背中に何かの気配を感じた。
「――!」
ひどく落ち着いた整った気配。それでいて剣呑さは無く、安心するような気配があった。
ミライルは名前も尋ねずにその気配の主へと語りかけた。
「お久しぶり。あなたなのね」
彼女のその言葉に気配の主は、ミライルと背中合わせに座ったまま声を返してくる。
「久しぶりだな。10何年ぶりだろうか」
「14年ね、あの子が4歳の時にあなたと連絡を取ることをやめたから」
「そんなになるのだな」
「私の元夫の追求が厳しくなってたから。あの時は諦めるしかなかったの」
「あの時は寂しい思いをさせた。すまんな」
「いいのよ謝らないで。あの男はもういない。精神系のサナトリウムに終生幽閉、もう二度と出てくることもないでしょうね」
「おめでとうと言えばいいのかな?」
「そこは任せるわ」
二人の会話はお互いがかつては逢瀬を重ねてなことを匂わせていた。そしてそれが唐突に終わりを告げたということも。
気配の主が告げる。
「そういえばお前の娘、エライアと言ったな」
「ええ」
「素晴らしい娘に育ったな。美しいというだけでなく非常に頭が良い。何より心が強い」
愛娘のエライアへの褒め言葉にエライアは思わず微笑んだ。
「私は取り立てて何もしていないのだけどね」
「そんなことはないさ。あいつは母であるお前に心から感謝をしている。お前がいたからこそここまでやってこれたと、そう思っている」
そう言われて嬉しく思う。だが疑問もある。
「でもなぜ、あなたがエライアの事を知っているの?」
気配の主はそれに答えた。
「難しい理由じゃない。あの子は今、俺の下で指令を受けているんだ」
「えっ?」
驚くミライルに気配の主は言った。
「11月から12月にかけてずっと単独任務をさせていた。多忙な状態がずっと続いていたので十分に休ませることもできなかった。本当にすまんな」
だがそれにミライルは意外な言葉を吐く。
「多分そうだろうと思ったわ」
「気づいてたのか?」
「ええ、なんとなくね。ほら、あの子今、今までにない形の特殊部隊を率いているでしょ? 単純に正規軍の上役から命令を受ければ良いというわけではない。それなりの実力者が支援者としてつかなければ、そういう難しい立場ではやっていくことは難しいもの」
「そこまでわかっていたのか」
驚いたような口調で問われるとミライルは笑った。
「私を誰だと思ってるの? 軍閥候族の嫁よ? 正規軍の内部の事情については嫌と言うほど見聞きしているもの」
「そうか、そうだったな」
「もしかして忘れてた?」
「忘れていたんじゃない。忘れようとしていたんだ」
そして気配の主は意味深な言葉を放った。
「君のことをきっぱりと忘れるべきだと思ってたからな」
「その口調だと忘れきれなかったみたいね」
「お恥ずかしい話しさ」
自嘲気味に笑う気配の主にミライルは語りかける。
「恥ずかしくなんかないわ。思ってもらえていただけで十分に嬉しいもの」
「そうか。とにかく、お前の娘の事は後で必ず埋め合わせをする。今度大きい仕事がある。それが終わったらゆっくりと休ませてやるさ」
「お願いね。あの子まだ成人の儀式もやっていないのよ」
「忙しすぎたな。まだ18歳だというのに」
「ええ、18歳よ。普通なら今、やっと一人立ちについて考える年頃だもの」
「まったく。いい歳した大の男たちが寄ってたかって1人の娘に期待をかけすぎだ」
その言葉に対してミライルは返事を返さなかった。彼女の立場から言って正も否も簡単に口にできるものではないからだ。
気配の主が言う。
「正直言おう。あの子は、エライアは今非常に難しい立場にある。と言うよりも、今現在は正規軍の中での自らの立場を確立させる時期にある。それなりの影響力を発揮できるか、単なる使いパシリで終わるか、その分かれ道だ」
「もし失敗すれば」
「上層部の体のいいおもちゃで終わる。そうなれば何らかの理由をつけられて途中で放り出されるのは目に見えている」
そして一呼吸おいて気配の主は言った。
「絶対にそうはさせん」
「期待していいのね?」
「ああ、あの子は俺が全力で守る」
「そう言ってもらえると私も安心できるわ」
「当たり前だ。あの子は、エライアは――」
気配の主が大きく息を吸い、ある言葉を払った。
「俺とお前の大切な子だ」
ミライルは何も話さない。否定も肯定もしない。ただ静かにその言葉を噛み締めていた。
「じゃあな」
その言葉が聞こえたとき思わず背後を振り返る。だがそこには誰もいなかった。既に立ち去った後だったのだ。ミライルはその席を見つめながら言った。
「お願いね。あなたを愛したことはやっぱり間違いじゃなかったわ」
その言葉とともに笑みを浮かべる。しかしそこには再会できた嬉しさと、正面から会えぬ寂しさがあった。
ミライルは立ち上がると、そのまま無言でその場から立ち去っていった。
これは秘密の逢瀬、誰にも明かされることのない秘密の出来事。しかしそこには間違いなく〝愛〟があったのだった。