ルスト、その〝心の準備〟 ―そうあれかしとご命じください―
「さて、エライア君、いや〝エルスト・ターナー特級〟君に意思確認したいことがある」
私はその言葉に居住まいを正して真剣な面持ちで拝聴した。
「何でしょうか?」
「君の仲間を率いて、現状のヘルンハイトに赴く意思はあるかね?」
私は即断の返事はしなかった。少しばかり沈黙する。
「現在のヘルンハイトからは、正常な情報は全く入ってこない。あの国が現在どのような状況になっているのか皆目検討がつかない状態だ。無論これは放置されて良い状態ではない」
ワイゼム中将も私見を述べた。
「通常の軍任務から考えても、危険度は極めて高い。一体誰が味方で、誰が敵なのかまったく判断がつかないからだ。だがそれでも〝誰かが行かねばならん〟」
そして最後にユーダイムお爺様が言った。そこで初めて軍人としてではなく、私の祖父としての顔を覗かせてくれた。
「エライア、私をお前に〝行け〟と命じることはできない。どう考えても非常事態という枠を超えているからだ。もし迂闊に命を落とすことがあれば、亡骸すらも戻ってこないこともあり得るだろう。正直言おう。前任の元帥のもたらした組織腐敗がここまで酷いとは思わなかった。痛恨の極みだ!」
深く息を吐いてお爺様は言った。
「エライア、断ってもいいのだぞ?」
次の任務はそれほどまでに危険なものなのだ。
でも――
「お爺様、元帥閣下、中将殿、私のもとにこの話をお持ち下さるまでに何度も議論を重ねてくださったと思います。何度もお悩みになられたでしょう」
私は彼らの顔を1人1人見つめながら答えた。
「私は既に別件で防諜部のとある人物からヘルンハイト公国の状況を聞かされています。そして自分自身でも今現在の世界情勢と軍事バランスがいかに危機的状況に置かれているか調べてあげております」
今この場において私自身が逃げるわけにはいかない。誰かが赴いて、ヘルンハイトに巣食う問題を解決しないわけにはいかないのだ。
私は体の目を見つめながらこう答えた。
「そうあれかしとご命じ下さい、すでに〝心の準備〟は整っております」
この答えに対する3人の反応はそれぞれだった。
ワイゼム中将は冷静に私の顔を見つめ返したままであり、ソルシオン元帥閣下は満足気に頷いてくれた。
ユーダイムお爺様は大きくため息をついていた。
「エライア、やはりお前はモーデンハイムの人間だ。どんな困難な任務があっても、逃げずに立ち向かう。それが国のため、市民のためになるのであればなおさらだ」
そして、お爺様は私に歩み寄ると両腕でその肩を抱きしめてくれながらこうもらしたのだ。
「本当にすまない。そして、ありがとう」
私に話を持ってくるまでユーダイムお爺様は相当にお悩みになられたはずだ。何度も何度も考えて、これしか選択肢がないと思い至ったに違いないのだ。
だが私は言った。
「ご心配なくお爺様、西方辺境のワルアイユ領にて孤立無援の状況に陥った時の状況を考えればいささかも恐ろしくはありません」
私は立ち上がり彼らに告げる。
「エルスト・ターナー特級傭兵、ヘルンハイト公国への内定調査任務を極秘内諾いたしました。正式な発令をお待ち申しております」
そして、3人は立ち上がり1人1人私に右手を差し出してきた。
「よろしく頼む」
「いずれ改めて正式発令させていただきます」
「はい、よろしくお願いいたします」
彼らとの対話は終わった。
ソルシオン元帥閣下も、ワイゼム中将も、誰にも挨拶する事なく邸宅の裏側からこっそりと帰っていくそうだ。彼らの訪問はお母様もご存知ないのだという。
彼らを見送ろうとしたが、丁重にお断りされた。
表向きは2人はこの館へと、今夜は来なかったのだから。
私はお爺様に告げる。
「お爺様、それで私はこれで」
「ああ、おやすみ」
私は自らの寝室へと帰った。
寝室に帰り着くと同時にノックも無しに現れた人物がいる。
「お嬢様」
私の専属侍女のメイラだ。
「メイラ」
「お話終わりましたか?」
「気付いてたの?」
「ええ、なんとなく。でもご安心ください、他の誰にも明かしてませんから」
「お願いね、先ほどの対話は無かったことになっているから」
「ええ、承知しております」
そして彼女は一呼吸おくとこう語りかけてきた。
「それでやはり次の任務は〝北〟なのですか?」
彼女もやはりそれを案じていた。これははっきりと言うしかないだろう。
「ええ、ヘルンハイトよ。正式に調査任務として発令されることになるわ」
「大変危険な任務ですね」
「ええ、1年前のワルアイユ以上にね」
不安げな顔をしていたメイラだったが、笑顔を浮かべてこう言った。
「ご武運をお祈りしております」
「ありがとう」
彼女は行くなとは言わなかった。自分の主人が自分の意思で戦地に赴くというのであればそれを見送るのが使用人の役目であるからだ。
私は彼女が自分の使用人で良かったと心から思えたのだった。
それからメイラにお願いして入浴をする。汗を流すという意味もあるが、気持ちを落ち着けたかったのだ。
そのあと、シルクのネグリジェに着替えてベッドにて眠りにつく。
翌朝、早くに目が覚める。
朝日が昇り始めたばかりだった。
ネグリジェの上に厚手のガウンを着て部屋から出て行く。そして、邸宅の中庭にある花壇へと足を運んだ。
ひんやりとする空気の中、空を仰ぐ。
お爺様の前では気丈に振舞っていたが、心のどこかでは不安が全くないと言えば嘘になる。でも誰かが行かねばならないのだ。
「エライア?」
「お母様?」
かけられた声に驚いて背後を振り向けばそこに佇んでいたのは私と同じようにネグリジェにガウン姿のお母様だった。
「どうしたの? 不安げな顔をして」
そう言いながら私の傍に立つ。答えにくそうにしている私にお母様は言う。
「次の任務が決まったのね」
私が驚いて言葉を探しているとお母様は静かに微笑んだ。
「ふふ、どうしてわかったのか? って顔ね。何年この館で暮らしていると思っているの? 軍閥候族に嫁いで20年以上、この館の中で色々なことが起きたわ。軍に携わっているのであれば何が起きてもおかしくない。それくらいわかっているわ」
お母様は私の肩をそっと触れる。
「エライア」
「はい」
「あなたなら大丈夫よ。きっと生きて帰ってくるわ。モーデンハイムの女はしぶといのよ? 逆境は望むところよ」
「お母様」
「うふふ、胸を張って自信を持って行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」
そう答えて私はお母様の胸にすがりついた。そんな私を幼子のように優しく抱いてくれる。それだけで全ての不安はどこかへと消え去ってくれるような気がするのだ。
私はお母様にある約束をすることにした。
「そういえば、まだ、私の成人の儀式が終わってませんでしたね」
「えぇ、そうね、3年前にあなたがこの館を出奔してから、なかなかまとまった時間が取れなかったものね」
私はお母様の瞳を見つめながら言った。
「今回の任務を終えたら長期間の休暇をいただこうと思います。そして、3年間、果たされていなかった成人の儀式を祝っていただこうと思うのです」
その言葉にお母様は優しく微笑んでくれた。
「それ、良いわね。約束よ、エライア。必ず果たしに返ってくるよの」
「はい、必ず!」
それは大切な約束、必ず果たさねばならないのだから。
「お母様、それでは行って参ります」
「気をつけてね」
「はい」
この人はいつもそうだ。
全てを見透かした上で余計なことは何も言わないのだ。それでいて我が子を思いやる気持ちは誰にも負けない。
自らが母になるとしたらこんな母親になりたいと心から思うのだ。