閑話:ルスト、祖国の地図に何を思う ―250年の戦争と地政学―
その日の夜と翌日は身体と神経を休めることに努めた。休息も体の調子を整えるという意味ではとても重要な仕事だからだ。
メイラと会話を楽しみながらゆっくりとくつろぐ。だがそれも休息二日目の夜ともなれば、気持ちが切り替わってくる。
バスルームで湯浴みをし、モスリンのネグリジェに着替え、ナイトキャップをかぶり、ベットに横になりながらあるものを眺めて思いを巡らせながら眠りにつく。
私の寝室の壁には私たちの祖国とその周辺カ国を含む〝世界地図〟が貼ってある。それを見るたびに私の意識は研ぎ澄まされて集中していく。
私たちの国、フェンデリオル
その歴史は戦乱の歴史そのものだ。
本来の建国は3000年以上前に遡る〝らしい〟
らしいと言ったのは、とある事情で過去の歴史資料が散逸して失われているためわからないからだ。
敵対する異民族に350年間も支配を受けるということはそう言うことなのだ。
そもそも――
学問の中に『地政学』と言うのがある。
地形的・地理的条件と、政治力学的なかかわり合いとの因果関係を考察する学問だ。
戦争も政治も理由なく発生はしない。むしろ地理的な条件や制約により、戦争が絶えず発生することもあるのだ。
私たちの祖国フェンデリオルはそう言う運命にある。
まず、
私たちが住むのは『オーソグラッド大陸東部領域』と言う。
まず中央に巨大なチェルコ盆地があり、
その南部に比較的中高度のバルベート山地がそびえる。
さらにその北部に険峻なシュバルミ山脈が立ちはだかる。
祖国フェンデリオル国は、このバルベート山地とシュバルミ山脈に挟まれた巨大な谷間のような状態にある。
平和な時は交易路として、穀倉地帯として、
有事の時は進軍ルートとして、戦地として、
極めて活発に人と物が往来をすることになる。
コレがまず1つ、
そしてもっと面倒なのは、国の西側に砂漠の大帝国トルネデアスがあり、国の東側には草原の覇者の騎馬国家フィッサール連邦が存在するということだ。
私たちのフェンデリオルは、一神教の軍政国家と、草原地帯を制覇した騎馬軍隊国家とに挟まれているのだ。
この状態が1000年以上前からずっと続いている。
はっきり言おう。
平和な時なんて有りっこない。
だから戦う。だから戦闘力を養う。そして起源はわからないが1000年以上より、はるか前から我が国に存在するのが『精術』と言う精霊科学大系だ。
つまりは俗に言う魔法のたぐいと同じと思ってもらっていい。
なぜそんな物が存在するのか?
それがそもそもわからない。大国に支配されていた350年の間に、徹底した弾圧と民族史跡文化の抹消が行われたためだ。それでも考古学関係の学者さんたちは熱心に残された僅かな痕跡を発掘しようとしているのだけど。
ともあれ、私たちの祖国は他国にはない絶対的威力を持って、西と東双方の大国と戦ってきた。
だが、今から600年前にそれは唐突についえた。
精術の行使に必須な『ミスリル鉱石』が採掘可能な領域から枯渇したのだと言われている。
力の源がなければその力は使えない。
力が使えなければ戦えない。
戦局が悪化し、東西双方に潰されて、我が祖国は600年前に滅びた。
そして、それから350年にわたり過酷極まりない被支配時代が続き、250年前に苦難を乗り越えて再独立を果たした。
1000年以上前の出来事が詳細には分からない事の理由がここにある。
再独立が成功した理由は色々とあるが、地政学的な理由を言えば、東からやって来ていたフィッサールが軍政中心から重商主義に変節した影響が大きい。つまり、フェンデリオルが存在していた場所で西のトルネデアスと直接睨み合うよりは、フェンデリオルの独立を支援して強くなってもらい、トルネデアスに対する『地理的な盾』になってもらおうと言う魂胆だ。
フィッサール連邦自体が、多彩な民族との混交により、文化傾向が変質したという理由もあるようだが。
はっきり言って小狡いように思える。だが彼らが私たちの抵抗運動を支援してくれたのは事実であり、彼らの助けがあったからこそ私たちは再独立を果たせた。
そして、彼らとの友好関係は今なお続いている。
それから現在――
巨大なチェルコ盆地を中心にフェンデリオルは国土を確保した。
北のシュバルミ山脈と、南のバルベート山地に挟まれたその状況は、いわば『巨大な谷間』だ。
西のトルネデアス帝国が進軍する場合、そのチェルコ盆地を通らねばならない。
フェンデリオルが再独立するさいに、私たちフェンデリオル人はトルネデアスから土地を奪った。
私達からすれば、トルネデアスが進駐してくる可能性を少しでも減らすために、戦略上有利な土地を確保しただけなのだが。
だってそうしないとまた侵略される。
トルネデアスって土地への執着がすごいんだよ。
そう言う事情も絡んで、トルネデアスと私たちが終戦条約を結ぶ事は絶望的な状態にある。
そして――
我が国フェンデリオルの東側の背後には――
北方の軍事海洋国家ジジスティカン、
草原の騎馬国家から商業国家に変換を果たしたフィッサール連邦、
さらに南側では海洋貿易国家パルフィアが肩を並べている。
これらの国は常に私達の背後にあるため、フェンデリオルが潰れると非常に困ったことになる。
私たちがいなくなれば、彼らは自らの手で巨大国家トルネデアスと直接戦わねばならなくなるのだ。
パルフィアもトルネデアスとは国境を接しているのだが、やはり私たちがトルネデアスをひきつけている状況があるため、海上での軍事的対立さえ対処していれば独立を維持できるという事情がある。パルフィアもフェンデリオルとは同盟国だ。
地政学的に見ても、我が国フェンデリオルは、同盟諸国の『巨大な盾』とならざるをえない位置に存在している。
そのため利害の一致もあり私たちは強固な和平同盟を結び、巨大な商業貿易圏を作り上げて繁栄を享受しているのだ。
大学の講義で、国際政治学と歴史に詳しいある教授が言った。
『国際平和というのは持ちつ持たれつの利害関係が円滑に回っている時にのみ生まれるものだ』
利害の一致しない平和はありえない。
自分が戦場に立っているからこそ、本当にそうだと思う。
あ――
もう一つあった。
フェンデリオルと北で山脈を挟んで隣り合う『ヘルンハイト公国』と言うのがある。
我が国と並んで世界最高峰の科学大国と称された国だ。
地形的な問題からトルネデアスにもフィッサールにも侵略されずに平和を維持してきた国だ。
350年続いた被支配時代、フェンデリオルの民族文化はヘルンハイトに逃れて維持されてきた。
そして、再独立の際に精術を蘇らせてくれたのもヘルンハイトだ。
そのため、ヘルンハイトはフェンデリオルの兄弟国とも言われている。
学生たちの間ではヘルンハイトへの留学は極めて高いステータスでもある。
その蜜月関係は揺るぎないものと誰もが思っている。
だが果たして本当にそうだろうか?
歴史はいつだって大きく変わる。
地政学的条件だって永久不変じゃない。
今もどこかで、見えないところから〝一本の針〟が忍び寄っているかもしれないのだから。
私は、世界地図を眺めるたびにそう思わずにはいられないのだった。