闇組織の首魁、夜に目覚める
その男は暗がりの部屋の中に居た。
東方風のズボン履きに上半身は裸、細身のシルエットだが体の筋肉は恐ろしいほどに引き締まっている。体のあちこちに無数の傷痕が残っており、彼の人生の過酷さがひしひしと伝わってきている。
その野性実が極まる肉体には、背中から左肩、左肩から左胸にかけてのたうつ龍が入墨で彫り込まれている。髪の毛は両サイドはカミソリで丁寧に剃り上げているが、額から後頭部にかけての髪は極めて長く、後頭部で結い上げられて後ろに流してある。髪は黒いながら青い輝きがある。
目には銀縁のメガネ、横方向に細長いカニ目と呼ばれる作りの物だ。ただレンズは褐色の色ガラスであり視力矯正用というよりは、自分の目線の動きを他人に悟らせないためのものだろう。
視線を悟らせない、それは彼が誰も信用していないからだ。自分以外の誰も、信じていないのだ。
彼がその身を横たえていたのは薄暗がりの中の寝台の上だった。
その部屋の空間の中に天井から降ろされた灯りは無い。
だだっ広い部屋の真ん中に厚手の絨毯で作られた通路があり、その両サイドに連なるように床置き式のオイルランプが並べられている。
当然ながら部屋全体は薄暗く、人の姿はおぼろげにしか捉えることができない。その薄暗がりの空間の中、床の上には色とりどりの寝具が敷かれ、その上には数多くの半裸の女性たちがその身を横たえている。赤い紅の引かれた唇に長い煙管で阿片の紫煙をくゆらせながらに。
その分厚い絨毯の通路を一番奥に、そこに東国風の飾りのついた天蓋付きの寝台が据えられている。
赤く塗られ、金羅紗の半透明の天幕がその四方に降ろされている。その天蓋付き寝台の中は明かりが照っており、四隅の柱に灯りが取り付けられて寝台に横たわる主を照らしている。
寝台の上には1人の男と2人の女が寝そべっている。
女は裸でシースルーのシルク製のガウンをその体に纏っている。その顔には不健康そうなやつれが浮かんでいる。常日頃から常習的に口にしている阿片の入った煙管煙草のせいだった。
ここは悪名名高い阿片窟だ。
その阿片窟の最奥部で物憂げに身を横たえていたのは1人の男だ。
長身痩躯のその男の限界まで鍛え上げられた体が、薄暗がりのランプの明かりを受けて淫猥な雰囲気を嫌が応にも放っている。そしてその体にすがりついてるのが2人の女だった。
黄色い肌の東方人に、もう1人は褐色の肌の南方系で、その男がその阿片窟の怠惰の寝台の上にてくつろいでいるときは何時でも共にいる事を特別に許された身の上だった。
彼女たちの役目はその男を癒すこと。そのためだけにその身を捧げていたのだ。
ただその部屋にいても男がその女たちに対して絶対にやらない行動があった。それは髪を撫でること。頬に触れることはあってもその髪に触れることは絶対になかった。
しかしその日はいつもと違っていた。
男の手が片腹の褐色の肌の女の黒い髪に触れた。とてつもなく優しくそれでいて髪の毛をいたわるかのように。いつもとは違うその仕草に女たちは疑問の声を漏らす。
「古大人?」
問いかけの声に男は優しく問い返した。
「なぁ、ビアンカ」
「はい」
「お前俺のところに来て何年になる?」
「そうですね、古大人に拾われてからですからもう5年になります」
「そんなになるか」
「はい、もう女としては30を過ぎました。後はこのまましわがれて老いていくだけです」
ビアンカという女の謙遜の言葉を古は優しく否定する。
「そんなことねえよ、年月を経たものの方が魅力があることだってあるんだぜ?」
「あら、嬉しいこと言ってくださるんですね。ここに来て初めてです古大人にお褒めいただいたのは」
「そうか?」
「はい」
そして男はもう片方の女にも声をかける。
「なぁ、美玉」
「はい、古大人」
東方風の女は落ち着いた声で答える。
「里に帰りたいと思ったことあるか?」
ずっと前のその問いかけに美玉は一瞬沈黙する。
「帰りたくないと言えば嘘になります。時々、故郷の景色を夢にみます」
「そうか」
「ええ、でも帰りたいとは思いません」
「なぜだ?」
「私はあなたに自らの全てを買っていただきました。私のつま先から髪の毛の一本に至るまで全てあなた様のものです。あなたが死ぬとおっしゃれば、喜んで死を受け入れましょう」
そう答えながら美玉は古の胸にすがりついた。それはビアンカも同じだった。
「私もです。あなたが私の胸にそのナイフを刺すのであれば喜んで受け入れます」
「そうか」
2人のその言葉に古はどことなく安堵した表情を浮かべていた。そして彼は冷静な面持ちで2人に告げた。
「2人とも俺のために死んでくれ」
2人とも言葉では答えない。ただ古の胸に縋り続ける。
古は言葉の理由を口にした。
「祭りにはいつか終わりが来る。この街で俺がずっと続けてきたこの馬鹿げた騒ぎにもいつか必ず終わりが来る。勝てば生き残るし、負ければ野垂れ死ぬ。阿片漬けの体のお前たちじゃ、俺のもとを離れたら生きちゃ行けないだろう」
そう言いながら古は2人の髪を撫でた。
「いつかこの祭りに終わりが来たら。俺がお前たちを終わらせる。2人とも親に金で売り飛ばされたんだったな」
「はい。あぶく銭で売り飛ばされました」
「そして、淫売窟でひたすら体を酷使する毎日」
「いつかは知らない男の子供を孕んで捨てられる運命」
「そんな地獄の毎日から救ってくださったのはあなた様です」
そして2人は笑みを浮かべた。
ビアンカが言う。
「最後の時が来たならば、首を絞めていただきたい」
美玉が言う。
「私はやはりナイフが良い。一気にひと突きにしてくださいまし」
それは最後の願い。どこにも行けないすり切れた体になってしまった2人の一番最後の願いだった。
男が信じたのはただ一つ、力のみ。自分の持った力のみだった。だが今は違う。
「覚えておこう。お前たちとの約束だ」
「はい」
「謝謝」
男は身を起こすと寝台から離れていく。立ち上がると同時に2人が古の裸の上半身に派手な花がら模様のボタンシャツを肩に羽織るように着せる。そして、古が愛用している一本のナイフをズボンの腰脇についている小さな輪に通してやる。
準備ができた古に2人は告げた。
「お気をつけて」
「いってらっしゃい」
2人の言葉を背に受けて男は歩いて行った。狂乱の祭りの最後を繰り広げるために。
男の名は古 小隆――
イベルタルの夜の街で猛威を振るう闇組織【黒鎖】の頭を務める男である。







