ハリアー教授、叫ぶ
ハリアー教授の必死の呼びかけが始まった。
「ケンツ博士! 考え直してください! そこで踏みとどまってください! あなたは科学の歴史に足跡を残せるほどの人物だ! あなたがこのようなことで罪に問われるのは国家的、いや世界的損失だ! 我々を信じてそこで踏みとどまってください! 博士!」
「し、しかし」
「博士! 私たちを信頼してください! まだやり直せます! 人は自分の生き方と考え方を根底から変えるのは簡単なことではないのはわかっています! しかしあなたほどの人間なら、理解し合うことができればまだやり直せるはずです! ドーンフラウがあなたを追放処分にしなかったのはなぜだと思いますか? あなたとやり直す余地を残したかったからです! お願いですそこで踏みとどまってください!」
それは渾身の叫びだった。科学者であるならば、意見の対立は日常茶飯時だ。理論を異にする異なる考えがぶつかり合うのは当然と言っていい。だからこそ語り合い見識を深めお互いの意見を合わせる努力を重ねるのだ。それが科学者というものなのだ。
「う、うう」
「博士!」
私とハリアー教授が精一杯の声で問いかけた時だった。ケンツ博士の手から鍵は滑り落ち、博士はその場で崩れ落ちたのだった。
博士は涙声でこう求めてきた。
「妻と娘を助けてください!」
ケンツ博士をそっと触れながら私は告げた。
「無論です。私たちはそのために動いているのですから」
博士が泣きながら頷いている。その顔には色濃く疲労の表情が浮かんでいる。どれだけ追い詰められたのだろうか?
「身体確保!」
「了解!」
「了解」
私が命じてプロアとドルスがケンツ博士の身柄を確保する。
床に滑り落ちた鍵を私は拾い上げた。
「これでよし」
いや、本当は全然良くないのだがとりあえずそう口にしないと踏ん切りがつかない。私はハリアー教授に視線を向けて問いかけた。
「博士の身柄は軍警察に引き渡します。当面の間は監視下に置かれることになるでしょう」
ハリアー教授は憤懣やる方ないと言った表情でこう答えてくれた。
「やむを得んな」
「恐縮です」
そして私は仲間たちに命じて共にケンツ博士の身柄をその場から連行して行く。あとに残されたのは私とハリアー教授だけだ。ハリアー教授が言葉を漏らす。
「これで、一段落ついたな」
「はい、一応は」
「一応は――か、そうなると」
そこで教授は天を仰いで大きくため息をつく。
「ここから先が大変だな」
教授が口にした言葉はとてつもなく重かった。あってはならない事件。起きてはならない過ち。そして何より、優れた叡智を持つ者が道を踏み外し闇へと落ちようとしているのだから。
私は恩師であるハリアー教授に答え返した。
「絶対大丈夫などと言う、言葉は使えないのはわかっています。おそらく半分以上の確率で極刑が言い渡されるでしょう。それほど精術技術の国家機密を暴こうとすることは許されない罪なんです。その意味でも、平和主義が通用しないこの国に足を踏み入れたことそのものが、ケンツ博士の一番の不幸だったのかもしれません」
私の言葉にハリアー教授はしばらく沈黙していたが寂しげに呟いた。
「もし〝だれが一番悪いのか?〟と言う問いかけをするのであれば、私はこう答えたい」
ほんの少しの沈黙が再び訪れる。そして震える声でハリアー教授はこう答えた。
「科学立国と言う国家方針を揺るがせているヘルンハイトの国家元首をこの手で殴ってやりたい! 科学者は祖国の平和に依存しなければ研究活動を続けることはできないのだから!」
そう叫んでハリアー教授は右手を握りしめた。そして傍らの壁を思い切り殴った。
――ダンッ!――
そしてさらに溢れ出たのは嘆きだった。
「彼がそこまで追い詰められていると言うのなら、私ももっと対応を考えるべきだった」
自らの右手で自らの顔を覆う。そこに起きてしまった過ちへの後悔の深さが滲み出ていた。
私は教授に語りかけた。
「ハリアー教授、絶望はまだしないでください。そのためにこそ私は傭兵として戦いの世界に足を踏み入れたのですから。この事件、必ず解決いたします」
そして私は教授の肩に手を触れると特別閉鎖区画から外へと出て行く。その途中、眠りこけていた常駐警備員を引きずり起こして張り倒す。よほど深く睡眠薬を飲まされているのか眠りこけたままだった。
「エルスト特級!」
「ルスト隊長!」
その時建物の外から駆けつけてきたのは大学敷地内を巡回警備している正規軍の将兵だった。おそらくはドルスやプロアに知らされたのだろう。私は彼らに告げた。
「本施設の特別閉鎖区画を当面の間、全面閉鎖してください。なお今回の一件は必ず軍警察・正規軍防諜部・正規軍本部にそれぞれ通達してください。事態が解決するまで機密保護のレベルを最上級レベルに引き上げるように」
「はっ!」
「必ず通達いたします!」
「お願い致します」
そして私は固まらのハリアー教授に告げた。
「それでは行きましょう」
「ああ、私も大学の総責任者として動かねばならんからな」
あれだけの深い嘆きを見せていたハリアー教授の顔には既にもう憂いはなかった。大組織を率いる総責任者としての誇りと威厳があるだけだ。
それに今回の事態の根本的原因は前任学長の考え方と態度に問題があったのは誰の目にも明らかだ。ケンツ博士に対する前任学長の甘やかしが大きく影響している。今回の件でハリアー教授が全ての責任を取らされるようなことはないだろう。
もっとそんなことは私が許しはしないが。
私は次を目指して再び歩き始めたのだった。







