高級酌婦《ガストアミーノ》ⅩⅩⅤ ―プリシラと不用意なコップの水―
手にしていたグラスから、りんごのシードルを飲んで喉を潤す。
しかしながら、在外商人の彼らとこの店の専属酌婦の彼女たちを和解させることには成功した。在外商人のこの人たちが思っていたよりも悪い人たちじゃないというのもはっきりとわかった。
シュウさんにもこの事を知らせて、在外商人の彼らとこの国の内地商人の彼らとの交流の糸口をつかめるように今後の対応を考えてもらう必要があるだろう。在外商人は玉石混交であり、その中の玉と呼べる人たちを選び出せるのならば、最高の商売仲間になれるはずなのだ。
それにしてもケンツ博士は一体何を考えているのだろうか?
そんな事を思った時、私は尿意をもよおした。あれだけ呑んだのだ。出るものがでないほうがおかしい。
戸惑いつつも、私は隣に座っているアーヴィンさんにそっと耳打ちした。
「あの、ちょっと〝お花摘み〟に」
お花摘みとは昔からある隠語の一つだ。古い時代の貴婦人たちが、殿方たちの手前でトイレに行きたいと言う事をそれとなく伝えるために生まれた言い回しだ。今でも上流階級の女性たちや花街の女性たちの間で使われているのだ。
だが、そこは繊細さより豪快さの方を選んだアーヴィンさんだ。細やかな配慮はまるっきり期待できないという事をすっかり忘れていた。彼はおもむろに言い放つ。
「ああ、トイレか」
ズバリ言われてしまい私は顔を少し赤くした。静かに立ち上がるとちょっとうつむき加減にしながらそそくさと出ていく。
「ちょっとアーヴィンさん」
「デリカシーなさすぎですよ?」
私の背後の方でアーヴィンさんをたしなめる声が聞こえてきたのが幸いだった。
この時私は一番の懸案だった〝在外商人〟の問題について予想以上の解決を見たことで内心ほっとしていたのは事実だった。
そうなると気持ちは緩むもので、本来ならするべき警戒を忘れてしまっていた。
それは私の一番の弱点だった。仲間内――特にダルムさんからは繰り返し注意されていたのだけど。
トイレを済ませると手を洗って給仕役の人から清潔なタオルを受け取って手を拭く。そして、そのまま店に戻ればよかったのだが、タオルと入れ替わるように差し出された小さめのグラスを無警戒に受け取ってしまった。
「どうぞ、酔い覚ましのお水です。よく冷えていますよ」
「ありがとう助かるわ」
のどが渇いていたのは事実だった事もあり、周囲に誰もいない状況で私はすっかり安心してその水を飲んでしまった。
――ゴクリ――
音を立てて飲み干し終えてコップを彼へと返す。
「それじゃ」
そう言い残して店へと戻ろうとする。廊下を歩いて少したった時だった。
――ガクンッ!――
私の両膝から突如として力が抜けた。膝だけではない全身の力が抜けていく。とっさに近くの壁に寄りかかろうとするが、四肢全体に力が入らない。まるで糸の切れた操り人形のように。
――これは毒? いや、これは〝血圧低下〟!――
自分の体に何が起きたのか冷静に把握できた。だが、急速に意識が朦朧とする中で私はその場に崩れ落ちていく。全身に力が入らない以上どうにもならない。給仕役の彼が私の体を抱き起こす。そして、肩に担ぐように抱き抱えると私をどこかへと運んでいく。
「だ――」
だめ! やめて! そう叫ぼうとしたが声が出ない。
軽い麻痺と血圧低下、体の自由がきかない状態にある。先程のグラスの水に何か仕掛けがしてあったのだ。
まずい!
やばいやばいやばい!
周囲には誰もいない。私の所に駆けつけてくれる人は誰かいないだろうか?
シュウ女史はこの場にいない。アシュレイさんも彼女と一緒に行動しているだろう。あとは誰だ? 誰か居ないか?
頭の中で色々なことがぐるぐると回る。
急速に薄れていく意識の中で私は〝絶望感〟を味わっていた。
そして私の意識は暗闇の中に落ちていったのだった。







