剥き刃のナイフの王、機嫌を損ねる
上階から足音がする。細い階段を駆け下りるかのように降りてくる。
阿片窟の奥の間に通じる三つの扉を次々に開けて、漢服の一種である、庶民向けの簡素なつくりの服装の〝褲褶服〟姿の一人の男が姿を現した。丈の短い前合わせの上衣に、ズボン風の作りの下衣だが、履いているのはこの地では手に入りやすいフェンデリオル風のズボンだ。足に履くのはヨレヨレの革靴だった。
その男は抜き身のナイフを持つ彼の側近部下の一人である。
――ガッ!――
木製の両開きの扉が勢いよく開けられる。
生暖かかった部屋の中に、外の冷たい空気が流れ込んでくる。その冷たさに、阿片窟の中の女たちの不愉快そうな視線が向けられる。
侵入者は部屋の主に告げた。
「頭! 大変です! とんでもない奴が現れました!」
急報を告げに来た部下だったが、それに対して返された言葉はぞんざいな物だった。
「王八蛋! 頭と言うなと何度言ったら分かる!」
「も、申し訳ありません! 〝古大人!〟」
男は叱責を受けて通路の絨毯の上で額を床に擦り付けて土下座していた。その姿に女たちがクスクスと嘲笑の笑いを投げかけている。男の無様な姿に溜飲が下がったのだろう、抜き身のナイフの男は怒りを消して冷静な声で問いかけた。
「それで何があった?」
「は、はい、古大人! とんでもないやつがイベルタルに現れました!」
「誰だそいつは?」
抜き身のナイフの男は〝古大人〟と呼ばれた。大人とは東方人の社会の中で、身分が上の人間に対する尊称の一つだ。
古は、左手のナイフを気怠そうにブラブラと揺らしながら部下の返事を待った。
「〝旋風のルスト〟と言う二つ名はご存知でいらっしゃいますね?」
「ああ、知ってる。フェンデリオルの西のはずれの国境でちょいとばかり勝ちを収めた小娘だろ? たまたま企みが当たって砂漠の向こうからやって来た砂モグラ連中を追い払うことに成功しただけのな」
つまらなそうにため息を吐くと、古はさらに問い返した。
「そういうのは大抵、周りにいる連中が優秀なんだよ。戦や企み事ってのは、一人じゃできねえ。大抵が部下や仲間が腕の立つ奴だったって話だ。そうでなきゃ17そこそこの小娘がそんなでかい武功を立てられるはずがねぇ」
古はルストに対する私見を口にする。彼はあくまでも、ルストの能力を周りの人間との総合力だと思っているらしい。
「それで、そのまぐれ女がどうした?」
「は、はい」
男はどうにかして古大人の怒りを買わないように知恵を巡らさながら報告を続けた。
「これまでも何度かイベルタルの街に姿を現していますが、今度ばかりは見過ごせません。何しろその女が向かったのはあの〝水晶宮〟なんですから」
男の報告は古大人には強い興味を引くものだったらしい。寝そべったままだったのがその上体を起こした。
立ち上がり、歩き出し、寝台の連幕を上げて顔を出すと寝台の縁に腰掛ける。するとすかさず寝所を共にしていた女二人が、煙草盆を手に彼の背後からにじり寄ってくる。そして、男の体にすがりつくようにその両サイドから顔を覗かせた。
古大人は、女の差し出した煙草盆を受け取るとそれを床に置いて煙管から煙をふかしながら、部下の男の言葉を聞いた。
「水晶宮と言やぁ、シュウの野郎が根城にしてる高級商館だったな」
「はい! 偉いめかし混んだ旋風のルストが、馬車に乗って水晶宮に向かったそうです」
「間違いはないのか?」
「間違いありません。銀髪のフェンデリオル人は山ほどいますが、そこに翠眼となれば数はさらに減ります。それに旋風のルストってのは歳の割に背丈が低いので一度見れば服装が変わっても大抵は見分けがつきます」
「へぇ、銀髪に翠眼ねぇ、珍しいな。フェンデリオル人でも純血系じゃねえか。だがそんな事はどうでもいい」
そう言いながら、煙管の雁首を下にして、煙草盆の灰皿に吸い残しを叩き落とした。
――カンッ!――
「そんな厄介な女が、このイベルタルで一番厄介な女のところに顔を出した。それだけで十分な厄介事になる」
「おっしゃる通りで!」
「で?」
その一言に、部下の男は凍りついた。古が更なる情報を求めている事に気づいたからだ。しかし男は迂闊だった。それ以上の報告できる情報を持ち合わせていないからだ。
声を発することすらできない。男は急速に固まった。
「どうした? それ以上はネタがねぇのか?」
落ち着いた表情をそれまで浮かべていた古だったが、その口元に苛立ちが浮かんだ。
「チッ!」
舌打ちが響く、と同時に古の左手が動いた。
――ヒュッ!――
ナイフの切っ先が空を斬る。それと同時に男の右の耳たぶが切り落とされた。鮮やかに一切の迷いなく。
「ひ! ひぃやぁああ!」
耳を切り落とされた男の悲鳴があがった。のたうち回りながら逃げるようにその部屋から出て行こうとする。だが――
――ヒュッ――
古が投げたナイフは、それまで部下だった男の背中に突き刺さった。左の背中に一直線、心臓をひと刺しである。
絶命したその男には、女たちは動じなかった。何か面白い見世物であるかのようにニヤニヤと眺めるだけだ。
「お前にはうんざりしてたんだ。半端なネタばっかりよこしやがって。騒ぎばっかりでかいやつは嫌いなんだよ」
寝台の縁から立ち上がり、男の死体の背中からナイフを引き抜く。そして傍らの別の女のガウンの裾で血を拭うと、ズボンの左腰に作った布製の輪にナイフをくぐらせて収める。
すると、別な女が立ち上がり、古の上半身に着衣をかける。
褶と呼ばれる、丈の短い長袖の上着だ。赤黒い色合いのそれに袖を通しながら着直すと、前を合わせず開け放ったまま気だるげに歩き出す。
初めは素足のままだったが、途中でまだ別な女が革製のエスパドリーユを差し出して器用に履かせていく。古は背後を振り返らずにその部屋にてはべらせていた女たちに声をかける。
「留守にするぞ」
その言葉に何人かの女が、
「お気をつけて」
と声をかけた。
そしてそのまま阿片窟の最奥部の部屋から出て行ったのだった。







