歪んだ王国と、剥き刃のナイフの王
北部都市イベルタル、その中心地から北西に位置するのが、イベルタル最大の歓楽街『花街』だ。
その花街から距離を起き北側に、水利水路である〝月見堀〟と呼ばれる水路がある。それを挟んで存在するのが、様々な業種や住人が雑多に住み着いている〝雑居街〟と呼ばれる市街区だ。
高級な花街とは異なり、雑居街は地位が低い。
身を売って生計を立てている女性たちの中でも、落ちぶれた者たちや器量に自身の無い者はこのあたりに住み着いて商売をするという。
――花街で盛りを過ぎた落ちぶれ女は、堀を越えて北へと流れる――
口さがない者たちの間ではそう盛んに揶揄されていた。
とくにこの雑居街、さらに北へと向かうと、マッチ工場やメッキ工場や食肉処理場と言った人間にとって環境の良くない工業施設と隣接しており、なおさらに環境と治安が悪かった。
イベルタルの街では貧しい者は北へ北へと流れていく――、そう言われていた。
その雑居街の中心近く、特に治安の悪化している風俗の街区がある。飲み屋や盛り場、低俗な風俗店、さらには、闇金貸し、地下闘技場、アングラ賭博場、そう言った店が密集している辺りで剣呑極まりない。
そして、そこはこう呼ばれていた、
――阿片街――
ご禁制の麻薬である〝阿片〟が盛んに取引される場所であるからそう呼ばれた。
そこは、イベルタルの中でも最悪の悪徳の都である。
† † †
阿片街の真っ只中、その最奥部、比較的に高さのある建物が密集している場所がある。〝堕天楼閣〟と名付けられたその建物は、地上7階、地下3階、木造の建物でありながら驚くほどに頑丈であり、建てられてから100年余りの年月が過ぎているというのにその威容はいささかも揺らいでいなかった。
その建物に何が入っているか? 全容を知る者はいなかった。近寄るだけでも危険だからである。その建物の支配者として様々な組織や犯罪者が時代とともに次々に入れ替わった。そして今、この建物を支配しているのはある1人の人物だ。
堕天楼閣は、地下1階が賭博場、地下2階が闇闘技場、そして地下3階が妓楼館――と、表向きは言われていた。
だがその地下3階、独特の甘い芳香のする、あるいは人によっては糞の腐ったような匂いと感じる〝阿片窟〟だった。人間の魂と肉体を蝕む麻薬〝阿片〟を提供し怠惰を貪るための非合法な娯楽の場である。
当然ながら、常識的な感覚を持っている人間ならば近寄ることすらありえなかった。それゆえ、様々な時代を経ても悪徳を志す者たちがその支配者として収まることは珍しくなかった。
今もまた紫色の煙を複数の女性たちが燻らせていた。
極彩色の彩りのあるシルクのガウンに身を包んだ半裸の女性たちが、サイズの大きい寝具に身を委ねて横たわっている。そして、人の腕の長さほどのある、長煙管を用いて吸っていたのは〝阿片〟である。
ただのタバコを吸うのとはわけが違う。
吸えば吸うほど、体に入れれば入れるほど、その体と魂を蝕んでいく。魔物のように恐ろしい、それゆえそれは麻薬と呼ばれるのである。だが、堕落に身を委ねている者にとっては、そんな危険性など何の意味もない。ただ今が快楽に溢れていればそれで良いのだ。
そして、そのアヘン窟に溢れている女性たちは、1人の男に身を委ねる、ただそれだけのためにその部屋に、その階層に落ちぶれていた。
天井から降ろされた灯りはなく、部屋の真ん中に通った厚手の絨毯で作った通路の両サイドに連なるように床に置くタイプのオイルランプが並べられている。あるいは周囲の壁の中程にオイル式の明かりが設けられている。
部屋全体は薄暗く、人の姿がおぼろげに浮かび上がる程度だ。
そして分厚い絨毯の通路を一番奥まで視線を通せば、そこに東国風の飾りのついた天蓋付きの寝台が据えられていた。
木材は赤く塗られ、金羅紗の半透明の天幕がその四方に降ろされている。その天蓋付き寝台の中だけは、煌々と明かりが照っている。四隅の柱に強力な灯りが取り付けられて寝台に横たわる主を照らしているのだ。
シルクの寝具の上に身を横たえているのは、二人の女と一人の男。女はいずれも美女で、1人は黄色い肌の東方人に、もう1人は色の濃い褐色の肌の南洋大陸の異国の女性。二人とも目の下に不健康そうなクマができている。普段からこの部屋の主の男のもたらす阿片で体を蝕んでいるせいだ。
そんな二人が陶酔しきった顔で縋り付いている男がいる。
長身に痩躯、限界まで引き締まった筋肉質の体が威容を誇っている。腰から下に東方風のズボンを履き、上半身は裸、東方風の黄色い肌は船乗りのように陽に焼けている。
その野性実が極まる肉体には、背中から左肩、左肩から左胸にかけてのたうつ龍が入墨で彫り込まれている。髪の毛は両サイドはカミソリで丁寧に剃り上げているが、額から後頭部にかけての髪は極めて長く、後頭部で結い上げられて後ろに流してある。髪は黒いながら青い輝きがある。
目には銀縁のメガネ、横方向に細長いカニ目と呼ばれる作りの物だ。ただレンズは褐色の色ガラスであり視力矯正用というよりは、自分の目線の動きを他人に悟らせないためのものだろう。
視線を悟らせない、それは彼が誰も信用していないからだ。自分以外の誰も、信じていないのだ。
彼が信じるのはただ一つ、力のみ。
彼のその右手には阿片ではない普通の煙草煙管、気だるげに紫煙を燻らせている。そして左手にはむき身の両刃のナイフ、いつでも誰かを傷つけられるように鞘に収めることは絶対にない。
ここは王国、彼だけの王国、金と暴力と阿片に支配されたゆがんだ王国だ。怠惰な時間だけが過ぎていくかに思われた。
だがその静寂は唐突に打ち破られた。







