愛情のこもった抱擁、そして、お化粧直し
「プリシラ、もっと近くに寄って来ておくれ」
「はい」
言われるがままにソファーの上との距離を近づける。
「プリシラ」
シュウさんは私の名前を呟くとその両腕を広げて私を強く抱きしめてくれた。黒水仙の香りとともに、その温もりが伝わってくる。
いや、温もりだけじゃない。そうこれは〝愛情〟だ。
「シュウ様、暖かいです」
「ああ、私の腕の中のあんたもとても暖かいよ。心臓が脈を打っているのもよくわかるよ」
初めは遠慮がちにその身を委ねていたが、私は思い切って彼女にすべてを委ねた。
「シュウ様、いつもの変わらない素晴らしい香りなんですね」
「ああ、この黒水仙の香りだろう?」
「この香りを嗅いでいると2年半前のことを思い出します。でも、あなたに助けていただいた3年前のことも思い出すんです。」
「そうかい」
フラッシュバックしたようにあの時の心細さが私の胸の中に蘇る。でもそれと同時に、
「大丈夫だよ。何も怖くないからね」
「はい」
「ああそうだ、あの時はこうも言ったね
『行き場所がないから、私の所に来るかい?』
そう呼びかけたらあなたはこう言ったね?
『あなたの事をどうお呼びすればいいですか?』
そして私は言ったのさ。
『シュウ様とお呼び』
ってね」
「はい覚えてます。はっきりと覚えています」
そして私はもう一度彼女にこう呼びかける。誰がたくさんの思いがいっぺんに溢れかえってくる。思わず涙声になってしまう。
「今まで本当にありがとうございました。あなたから受けたたくさんの御恩は生涯絶対に忘れません」
「私もだよ。あんたと過ごした半年間は私にとっても一生の宝物なんだ」
それは信頼、そして愛情、二人の間で結ばれている強い絆だ。私とシュウさんはお互いの気が済むまで強く抱きしめあうのだった。
それからどれほどの時間が流れたのだろうか。
部屋の壁際にある大きな柱時計が鳴らしたことをきっかけに私と彼女は不意に現実に戻ってきた。
そして私の顔を見て一言。
「ひどい顔だね」
そう言いつつくすくすと笑っている。
「えっ?」
思い当たるのはひとつだけある。
「涙で化粧が崩れてるよ? そのままじゃ他の人の前には出せないね」
「そんなにひどくなってますか?」
こうならないように気をつけていたつもりだったが溢れかえる感情というものは抑えようがない。しかしだからといってこのまま人前に顔を出すわけにもいかないだろう。
「え? どうしよう。困ったな。口紅の予備ぐらいしか持ってきていないし」
「何を狼狽えているんだい。あんたが今いるのはどこなんだい?」
「えっと、あ――! ここはシュウ様のお城〝水晶宮〟」
「そういうことだよ。化粧品くらいどうってことないよ」
そう言うと彼女は私を抱きしめたまま立ち上がると、一旦体を離して私の右手を握りしめてくれた。
「おいで、プリシラ。お化粧を直してあげるよ」
「はい、シュウ様!」
こうして、彼女と私は再開を終えると、彼女に手を引かれて別室へと向かったのだった。
† † †
その建物の名前は〝水晶宮〟
邸宅ではなく宮殿、そう呼ばれるのには理由がある。ここはまさに女帝の宮殿なのだ。
地下1階、地上4階、部屋の総数は100に迫る。 これがたった一人の支配人のために供されているのだ。
余談だが、シュウさんは独り身だ、あえて言えばアシュレイさんが家族同様の扱いを受けている。
もっとも、水晶宮には訪問客が絶えず、遠方からの来客を多數泊めることもあるので、ムダに大きいというわけではない。
シュウさんに手を引かれるままに歩いて行けばたどり着いたのはシュウさんの居住区画であり、その中の一角のドレッサールームだ。
ドレッサールームと名前がついているが、その実、巨大な邸宅の一つのフロアの3分の1を占めている。揃えている衣装も化粧品もその他もろもろ品数が桁違いだ。
「こっちだよ」
そして私の手を引くと、ドレッサールームの一角にある特大の化粧台セットに招き寄せる。
「さ、ドレスを一旦預かるよ」
その言葉と同時にドレスの背中の合わせ目を解くと、彼女自ら脱がせてくれる。インナードレス姿となり、ドレスが汚れないように肩掛けの布がかけられる。
そして、化粧台セットのチェアに座らせてくれた。
「さ、お座り」
「はい」
促されるままに腰を下ろす。まずはお化粧落としだ。
化粧を溶かすクレンジングオイルを含ませた清潔な布で丹念に落としていく。
私はされるがままに身を委ねる。
化粧を落とし終えると、清潔な水を含ませた布でクレンジングオイルの残りを拭い去る。
そしてそこからは、女性としての美を知り尽くしているシュウさんの独壇場だった。
「プリシラもお化粧が上手くなったけど、やっぱり細かいところはまだまだ甘いねぇ」
そう言いながら下地作りは抜かりなかった。
おしろいを塗る前にエッセンシャルオイルで肌にうるおいを与える。それも顔の筋肉を丹念にマッサージするように懇切丁寧に隅々まで手技を施してくる。
「さて次は」
いよいよおしろい。でもここでも普通のやり方とは違った。シュウさんはおしろいを二つ取り出した。
どちらもクリーム状の代物だが真っ白ということはなく色合いが微妙に異なる。
発色の鮮やかさを抑えめのものを下地として顔に塗ってくれる。さらに光沢の強い透明感のあるもう一つの方を上地にさらに塗り広げる。
目鼻立ちや顔の陰影がより印象的に映るように工夫した結果なのだろう。
下地ができたら次は頬紅だ。
房の大きなブラシのようなものを取り出すと、さらに頬紅は粉状のものを使う。容器の中に小指ほどの大きさの丸い玉が並んでいる。それが頬紅の粉を丸く固めたものであるというのがよく分かる。
それを化粧ブラシで擦り取ると、私の頬の辺りに柔らかく塗りつける。そのブラシ使いも丁寧かつ繊細であり職人並の腕前だった。
「頬紅が出来上がったら、目の周りだね」
そこからは更に職人技の世界だった。
先の小さな筆を何種類も用意すると目張りを施していく。
目の輪郭から始まって、目尻のキワ、まぶた、目の周囲、複数の色を使いながらまるでキャンバスに絵を描くように私の目元を浮き出させて行く。
眉毛にはハサミを入れて少し量を減らす。そして少し太めの筆で眉を書き入れる。
そしてまつげ、私はさすがにここまでは手が回らなかったがシュウさんならばそこに抜かりない。
何種類もあるつけまつげの中からひとつを選ぶと、慎重にそれをまぶたにつけてくれる。
「さ、ゆっくりとまぶたを動かしてごらん」
「はい」
「うん、うまく貼れたようだね。どこか違和感ないかい?」
「ありません全然気になりません」
「よし、いいだろう。鏡で見てごらん」
促されるままに鏡を見れば私が自分で施したのと一段も二段も違う美しい顔があった。
「うわぁ!」
私は思わず呟いた。その声にシュウさんも満足げだ。
「ふふ、喜んでもらえたようだね」
「はい、自分自身でするより素晴らしい仕上がりです。ありがとうございます!」
「当然だろう? これからこの街の重鎮たちに会うんだからさ」
「えっ?」
「あら、気づいたらあったのかい?」
「えっ? いえそうではないんですけど」
「ふふふ、私に言われてあらためて気づいたって感じだね。大丈夫だよいつもと見知った顔だから」
そう言いながらシュウさんは私の手を引いて立つように促した。







