閑話、眠れない夜とルストの恩人の思い出語り
そして彼女の隣に座りなおす。
「ねぇ、ひとつ聞いていい?」
「何でしょう?」
「メイラは結婚はしないの?」
私より年上の彼女は本来なら適齢期だ。実際、婚姻して退職する女性使用人は珍しくない。私の質問にメイラは少し困ったような表情を浮かべてこう答えた。
「今のところそのつもりはありません。女性使用人の中には技術と技と知識を磨いてお屋敷に生涯にわたってご奉公する人もいるといいます。私はひとつの道を途中で降りることなく務めあげようと思っています」
彼女らしい当然の言葉だった。
「これからもよろしくね」
「はい」
そして彼女はさらに尋ねてくる。
「お嬢様、ちなみにお嬢様の場合、家出をした後にイベルタルで娼館で勤めていらっしゃったのでしたね」
「ええ、時々驚かれるけど、娼館に身を寄せていたことがあるのは事実よ」
「どうしてそのようなところに行かれるようになったのですか?」
「そうね、話しておいてもいいわね」
彼女なら不用意に他人に漏らすようなこともないだろう。
「ある人から商業都市のイベルタルに向かうようにアドバイスを受けていた私は北へと向かった。そしてたどり着いたイベルタルだったけど、私はそこでいきなり躓いたの」
「何があったんですか?」
「メイラ、〝手配師〟って聞いたことある?」
「えっと、呼び名だけは。どういうことをしているのか存じませんが」
「うん、手配師って言うのは一種の詐欺師よ」
「詐欺ですか?」
「ええ、いい仕事があるからやらないか? と言葉巧みに近寄って来て、もっと詳しい説明をしたいから一緒に来いと連れて行かれる。そして、その人が案内する事務所に入ったら最後、口にもできないような酷い仕事を押し付けられて売り飛ばされるの」
「人買いみたいな仕事ですか?」
「そうねそれに近いわね。世間知らずだった私はそういう手合いの男にまんまと引っかかってしまった。窓のない部屋に閉じ込められて契約書にサインしなければここから出さないと脅された。文字の読める私は男達が突きつけてきた契約書の内容がひどい搾取であることを理解していたけど、屈強なあらくれ男に囲まれては、どうにもできなかった。絶望して契約書にサインしそうになった時だった。あの人に会ったのは――」
そうだ、そこであの人に出会ったのだ。
「あの人?」
「ええ、手配師の事務所にたまたま来ていた女性でね、娼館や高級酒房など色々な商売を手広くやっている女性実業家だったの。その日も自分のお店で働かせる若い女性を探していたの」
「その人に救われたんですね?」
「ええ、手配師たちの強引なやり口を見抜いて、街の自警団を呼び寄せて一網打尽にした。助け出された私を見てあの人はこう言ったの、
『あんた、家出をしたあのご令嬢だね?』
私の素性をあの人は一発で見抜いた。でも、こうも言ってくれたのよ。
『安心おしよ。家出をするなんてよっぽど辛いことがあったんだろう? 送り返すような無情なことはしないからさ』
監禁されて脅されまくっていた私は心が壊れる寸前だった。それ以上に実家に送り返されることだけはそれ以上の恐怖だった。
そうしない――、そう言ってくれたことが何よりも嬉しかった。そしてその人はこう言ってくれたの。
『あたしのところで働かないかい?』
――って」
私の話にメイラはうなずいてくれていた
「私と同じですね」
「ええ、そうね」
「それでどんな仕事してたんですか? まさか娼婦の真似事とかはしていないでしょうけど」
「まさか、体を売るようなことはしていないわよ。私が任されたのは裏方の事務職よ。手紙のやり取り、書類の整理、売上金の計算、住み込みで暮らしている娼婦のお姉さんがたの使いっ走りとかもやらされたわ」
私がしていた仕事の内容聞いてメイラは頷いてくれる。
「分かります。私も似たような事いっぱいやらされましたから」
「何処も同じね。それで、娼館の部屋の一つを借りて寝泊まりしながら働き続けた。私を助けてくれた〝あの人〟の善意に報いるためにも。指示されたことを言われた通りにしっかりこなした時はちゃんと褒めてくれた。間違いがあったら言い方はキツかったけど必ず正してくれた。飴と鞭がはっきりしてる人で、教えを請うには素晴らしい人だったの」
「そうなんですね」
「でもね、本気で怒らせるとものすごく容赦ないの。特にお客さんと言い争いになったり失礼な態度を取ったりすると容赦なくビンタが飛んできた。一度、支払いのお金の払った払わないで口論になって相手の人を侮辱してしまったんだけど、初めて往復ビンタされたわ」
メイラは私の話をあっけにとられて聞いていた。
「鼻血が出るほど叩かれた後で、土下座して謝るように言われた。ひどい顔になって店の奥に引っ込んだ私に、しばらくして濡らした布を持ってその人が現れた。そしてその人はこう言ったの。
『たとえ自分が悪くなくても、理性を失くして騒いだ段階で負けなんだよ』って、
『正しいと思ってもそれを感情と力で捻り込んだら絶対にダメ、どんな時でも頭を冷やして冷静にやり取りをするの。いいかい? この世で最も強いのはいつでも冷静に振る舞える人間なんだ。我を忘れて怒りをぶちまけたらだめだよ』
あの時の言葉は今でも忘れない。
それに口論相手である客の前で私を殴打することで相手の溜飲を下げさせる意味もあった。タチが悪くとも客は客、悪い噂を立てられたら痛い目を見るのはこっちだもの。制裁されたと言う結果のあることで、その時の問題はそれきりになった。
結果としてもっと大きなトラブルから守ってもらえた。そのことに気づいた時は涙が出るほど嬉しかった」
その人との思い出はまだある。
「反対に予定以上の結果を出せた時、掛け値なしに褒めてくれた。毎日のお金の出入りの帳簿合わせ。伝票が無かったり、間違いがあったり、そもそも忘れていたり、そう言うのが多い中でみんなの仕事が終わっても、必ず帳尻が合うまでその日のうちに片付ける事を忘れずにやっていた。寝る時間が足りないなんてしょっちゅう。でも頑張っていたらあの人はそれを認めてくれた。
『お前のひたむきさは立派な財産だ。だからその財産を形にしてやる』
そして、ものすごく高級なイブニングドレスを仕立ててくれた。それを着て娼館の待合室でお客にお酌をする仕事もさててもらえた。ちょっとした小銭も稼げたけど、それ以上に仕事をしたらしただけ認めてもらえるというのが何よりも嬉しかった」
メイラはしみじみと耳を傾けてくれていた。
「分かります。仕事をすることとその価値を評価してもらえること。それが分かるとお仕事が本当に楽しくなってくるんですよね」
「ええ!」
「お嬢様もお屋敷住まいのままではそういうことは分からなかったでしょうね」
「そうね。籠の鳥の身の上を嘆きながら世の中の何も知らずに無為に生きていたと思うわ。私はあのお店で人生はを生きる上で大切な事を学んだの」
メイラはうなずきながら問いかけてくる。
「お嬢様にとって本当に素晴らしい人だったんですね。その人のお名前は?」
「〝シュウ・ヴェリタス〟、北の女帝と呼ばれた凄腕の人よ。いつか会ってお礼を言いたいとずっと思ってたんだけど、なかなかその機会がなくってね」
「そんな、お時間があればいつでも行けるじゃないですか?」
「言ってることは分かるわ。でもね、そうできない理由があるの。私は軍の重要任務に関わる立場、実家のモーデンハイムとも家出後の和解をしている。それに対してその人――シュウ女史は闇社会にも顔が利くのよ。お互いの立場を考えるとそうやすやすとは会えない」
「つまり、会うためにはそれなりの理由と状況が必要ということなのですね」
「ええ」
それから少し、沈黙の時間が流れたが、私の傍でメイラが言った。
「お嬢様、会ってお礼がしたい。そう思うのであればそうなさった方が良いと思います。その成長したお姿お見せになるだけでも、十分な恩返しになると思います」
なるほど。そう言われてみればそうだ。やましい事は何一つしていないのだから。
「ありがとうメイラ」
その言葉に。すべての答えがある。私は心の平穏を取り戻したのだ。







