閑話、眠れない夜とメイラの打ち明け話
運河の水路の水面に揺られて夜は暮れていく。
運河船の中に設けられた簡易ベッドは思ったよりも寝心地は悪くない。船の緩やかな揺れもあって眠りにくさは皆無だった。
でも私はまんじりともせず眠れずにいた。
何度か寝返りを打ちながら窓の外に視線を向ける。
夜の街並みや運河水路の周囲の夜景を眺めながら私は自分の過去に思いを馳せていた。
「もう2年半も経つのかぁ」
もうひとつの簡易ベッドで寝息を立てているメイラに気を使いながら自分自身に問いかけるようにつぶやき続けた。
「〝あの人〟のところで暮らし続けていたら今頃私は何になっていただろうか?」
あの人とは、
――シュウ・ヴェリタス――
私の人生を大きく変えたとても大切な存在だ。
「3年前だったっけ」
自分の意思で親元を離れようと計画的に家出をした。
行き先についても検討した。
お金も用意した。
自分の才覚には自信があった。
だから、家族というしがらみを捨てても生きていけるとあの時は思っていたのだ。
「でもあの時は甘かった」
そう、世の中は当時の15歳の私が考えるよりもはるかに複雑で悪意に満ちていたのだ。
家族や使用人や執事と言った人たちに、いかに守られながら過ごしてきたのか気づきもしなかったのだ。
ベッドの上で体の片側を下にして窓の外を眺めていたが、背中からふいに声をかけられた。
「お嬢様」
「え?」
慌てて振り向くとそこには心配げにじっと見ているメイラの姿があった。
「眠れませんか?」
「あ、いいえ」
体を反対側に向けてメイラと向き合いながら言葉を返す。
「ごめんね起こしちゃって」
「いえ、なんだか私も眠りが浅いみたいで。それよりなんだか考え込んてらっしゃるようでしたけど。何か心配事でも?」
メイラはとてもよく気が付く侍女だった。だからこそ私はついつい頼りにしてしまう。それと同時に彼女には隠し事はしたくない。
「心配事と言うか昔を思い出してたの」
「昔、ですか?」
「ええ、3年前の家出のことよ」
そう答えてベッドから体を起こしベッドサイドに腰掛ける。メイラも体を起こすと船室の片隅にある水差しの瓶からコップに水を取ると私に差し出してくれた。
「ありがとう」
それを受け取り軽く喉を潤すと言葉を続けた。
「私が15の時にしでかした大事件、覚えてるでしょ?」
そう問えばメイラは苦笑いしていた。
「はい。モーデンハイムに仕える者でしたらいやでも覚えています。当主勅令のご婚姻から逃げ出そうとしての家出でしたね。あの時は当時のご当主様が準備をしていた政略結婚がすっ飛んで大騒動になってたんです」
「私の意思を無視した強引な政策結婚だったのよね」
「ええ、分家筋の使用人たちの間でも〝いくらなんでも当然よね〟と噂しあってたんです」
ああ、やっぱりそうだったか。今でも思うがそれほどまでに酷い強引な結婚命令だったのだ。
「あれは本当に辛かったわ」
「軍学校の卒業に合わせて起きた事件でしたね」
「ええ、私は軍学校を卒業して正規軍に入るはずだったんだけど、私の当時の父親が、自分の権勢を確実なものにするために自分の意のままになる操り人形のような男を私の夫にするために無理やりに仕組んだのよ」
当時の辛い記憶が蘇る。
自分の未来を断頭台で切り落とされたような絶望感は今でも忘れられない。
フェンデリオル正規軍への幹部候補としての配属が決まっていたにも関わらず、それが強引に潰された。そればかりか、私の知らないところで挙式の全てが決められていたのだ。
「わけもわからず軍学校から実家に連れ戻されたら、もうすでに花嫁衣装が出来上がっていたわ」
私は苦笑しながら言う。
「それもすごく古臭いデザインでみっともないのよ。一体何十年前の代物ってね」
「その事はお嬢様のお母様は関わっていたのですか?」
「いいえ、元父親が独断で全部決めていたそうよ。まったく花嫁衣装くらい自分で決めさせろよって話よ。だから家出の時に暖炉にぶち込んで燃やしてやったわ」
するとその時メイラが少し眉間にしわを寄せていった。
「お嬢様をご存知ないかもしれませんが、あれその後、ちょっとしたボヤ騒ぎになったそうです」
「えっ?」
「煙が部屋に充満して大騒ぎだったとか。もっともそれがあったから家出したお嬢様を追いかけるところではなかったようですけど」
「あ、それは――ごめんなさい」
謝りの言葉を口にするとメイラは苦笑する。
「仕方ありませんよ。あの元ご当主様が父親だったら私がお嬢様のお立場でしたらやっぱり家出を試みていたと思います」
「ええ、私の元父親は精神的な虐待の末に私の兄――つまり長男を自死に追い込んでるの。私の政略結婚はその埋め合わせ。とても人間の父親のすることではないわ」
そんな時、メイラが意外なことを口にした。
「市井の若者たちの流行り言葉でそれを何て言うか知ってますか?」
「流行り言葉? そんなのがあるの?」
「ええ、子供にとって薬にならない毒にしかならない親――【毒親】と呼ぶそうです。自分の親を気に食わないからと言ってそういう呼び方をするのが大半だそうですが、中には本当に毒そのものと例えていいようなひどい親もいるんだそうです」
「そうなんだ」
「はい」
毒親――、そういう呼び方をされると私の場合は自分の心の中で本当にしっくりと来る。
「そういうのって、候族だからとか、一般市民だからとか、関係ないわよね」
「ええ、今更ながらですが私の親もそんな親でしたから」
意外な事実だった。私は思わず驚いていた。
「本当?」
「はい。私の親の場合は親としての役割を放棄したんです。働きもせずまともな生活もできない状態でした」
「聞いたことあるわ、育児放棄とか育成放棄って言うんですってね」
「はい、私が使用人の世界に入ったのも、その日の食べ物を自力で見つけなければならなかったからです。お腹を空かせて食べ物をもらおうと訪れたのが、私が働くことになったマシュー家の台所の裏口でした」
それはとても信頼しているメイラの過酷すぎる過去だった。
「でもそこの女性使用人の人たちはとても優しかった。3回ほど顔を出したら、そのお屋敷の侍女長の方から、うちで働いてみるか? って言われました。文字の読み書きすらできない薄汚れた子供なのに本当に雇ってくれた。下働きは大変だったけどそれ以上にこの世で生きていくために必要なことをたくさん教えてもらいました。あの時の出会いがあったから私は今生きています」
「それで女性使用人の世界に?」
「はい。それから20年以上、マシュー家とモーデンハイム家にお世話になっています。あの当時の侍女長様から受けた恩は今でも忘れていません。だからこそです、家の中で心休まる暇がなかったお嬢様のことを知り、私に何かできるんじゃないか? そう思ってお嬢様の小間使い役を志願したんです」
「そうだったんだ」
苦しみを知っている人は他人に優しくなれる。他人が苦しみの中にある時に、その苦しみから助け出そうと手を差し伸べることができるからだ。
「ありがとう、メイラ」
そう答えて私はメイラにそっと近づくと彼女の肩を抱きしめた。







