26センチ目「うめき声の正体」
ドアの中から現れたのは、顔がドロドロに溶けたゾンビだった。
ゾンビはつけているマスクを頭から外すと、本来の姿を露わにした。それはれっきとした人間だった。
俺はほっと胸を撫で下ろした。本物のバケモノだったらどうしようかと思ったが、そうでなくて本当によかった。
「あの、何か御用でしょうか……?」
くしゃくしゃになった茶髪を整えながら、その男子学生は個室から出てきた。
「はじめまして。俺たち、オカルト研究会の者です」
「オカルト研究会?」
「はい。実は、変な声がするって学生の間で噂になってるんですよ。それで現場を調査しに来たんです」
「ああ、そうだったんですか。それは申し訳ないことをしたなぁ」
その男子学生は汗ばんだ頭をポリポリとかいた。
「なぜこんなところでうめき声を?」
「俺、演劇部に所属してるんですけど、もうすぐ舞台があるんです。俺は見ての通りゾンビの役なんですけど、ゾンビの役作りをするには誰もいない夜の校舎がちょうどいいかなって思って……」
演劇部員は手に持ったゾンビマスクを見つめながら語る。
「それで、人気のないトイレをわざわざ選んだってことですか」
「はい。でも変な噂になってるなら、もうやめようと思います。ご迷惑をおかけしました」
彼は申し訳なさそうに言うと、俺たちに頭を下げた。
「意外とすんなり解決したな」
「そうですね。素直に応じてもらえて良かったです」
「ああ、本当に。個室の中に立て篭もられたらお手上げだからな」
それを聞いた演劇部員は、不思議そうに首をかしげた。
「俺、鍵開けてないですよ?」
「えっ?」
彼がそう言った瞬間、二つの個室のドアがひとりでに閉まり、カチリと音を立ててロックがかかった。
全てのトイレがひとりでに水を流し出す。洗面台も例外ではなく、栓をひねっていないのに勝手に蛇口から水が流れ出した。
「「「うわあああああああ!!」」」
びっくりした俺たちは、慌ててトイレの外へ飛び出した。
間違いない、あれは本物の心霊現象だ。心臓の動悸が収まらない。
高坂先輩と春菜は、いきなりの出来事に困惑しているようだった。大の男三人が情けない悲鳴を上げながら出てきたのだから、無理もない。
「どうしたの!? 何が起こったの!?」
「心霊現象! ガチのやつ!」
俺は早口で一息に返答した。
すると、それを聞いた高坂先輩が一歩前に進み出た。
「よし、私に任せろ」
「でも!」
「姐さんがいれば大丈夫だ。行くぞ」
高坂先輩と新垣先輩はずんずん入っていく。俺は寒気をこらえながら、その後ろを恐る恐るついていった。
相変わらず室内に鳴り響く水の音。個室のドアは閉まったままだ。
それを耳にした高坂先輩は、息を大きく吸いこんでから、大声で叫んだ。
「う る さ い ッ!!!」
覇気のこもった一喝が、不穏な空気を一気に吹き飛ばす。
それまで流れていた水が嘘のようにピタリと止み、個室のロックがカチカチと解除されていく。
「な? 大丈夫だって言ったろ?」
「す、すごい……」
高坂先輩はふぅとため息をつくと、俺たちを振り返った。
「これだけか? 心霊現象とやらは」
「あっ、はい。いまのやつです」
「そうか。では、これにて一件落着というわけだな」
高坂先輩は手元のメモに『夜:心霊現象発生。退治済み』と書き込んだ。あんなことが起きたのに顔色一つ変えない高坂先輩を、俺は密かに尊敬した。
トイレから出ると、演劇部員は俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございました。俺、あんな恐ろしい場所だなんて知りませんでした。もうあそこのトイレは使いません」
「うん、そうしてくれると助かる」
ゾンビマスクを片手に、演劇部員はそそくさと部室棟を去っていった。
俺は腰に手を当てながら、ある疑問を口にする。
「結局、聞こえたうめき声の正体って、あの演劇部員と幽霊どっちだったんですかね」
「分からないな。だがいずれにせよ、これからはもう起こることはないだろう」
高坂先輩ははっきりとそう言い切った。一部始終を間近で見ていた俺も、なんだかそんな気がした。
高坂先輩が一体何者なのかという一番大きな謎を残しつつ、部室棟の怪事件は幕を下ろした。
「久々に活動したからお腹が空いたな。打ち上げにファミレスでも行こうか、諸君」
「おっ、いいっスね。姐さんの奢りで」
「えっ」
「ごちそうさまです、先輩! よし、席を取りに行こう春菜」
「オッケー!」
「ま、待ってくれ君たち! 奢りではない! 奢りではないぞー!」
高坂先輩の叫びが宵闇に虚しく響く。こうして、俺たちは無事に部室棟を後にするのだった。