世界ができる前の日々のこと-1-
そこは暗い部屋で、壁も扉も見当たらない。
小さなバー・カウンターがひとつ佇んでおり、スーツを着て白塗りのメイクをした男装の者と、オレンジのウィッグと仮面をかぶったバーテンダーのみがいた。
「今回で5回目の世界創造だけど、誰も呼ばないのか?あと、その恰好……」
「そう、殺された僕のうちの一つの衣装だよ。たしか、そいつの名前は“寒がりのイチ”だ。…そのうち勝手に因果律を奏でる者が現れると思うから、僕は僕のやりたいことをする。」
男装の者はファジー・ネーブルを飲みながら、ずっと何かを小型コンピューターに打ち込んでいた。ここで言う因果律は「運命を決定づける要素」ではなく、言霊のように運命に関与する歌や詩のことだ。
「―――ようこそ、冥府の入り口“果ての街”へ。この国では、死せるものは安らかに、生者はパァーッと楽しんでほしい。今回の住人たちは、全員カガクの魔法をかけてある人形だ。この世界も今回で5巡目。お小遣い次第ではなんでも夢が叶うカオスの国。僕はこの世界の管理人。今の名前は“羊飼い”。音楽や詩を集めて、因果の旋律をまとめて世界を完成させるのを目的としている。全ての幻想をお好きなカクテルと味わいませんか?……と。今日の執筆はここまででいいや。」
「おい、ぜんぜん世界を作る気がないだろ。もっと楽しいものを作らない?箱庭だけに、おもちゃをいっぱい詰めるとかさ!」
楽しそうに語るバーのマスターを横目に、羊飼いはファジー・ネーブルを呷り、白いチョークで扉を描いた。
「僕は果ての街の中心街にある“青の泉”に素敵な音楽を集めたいだけ。フライヤーとかはそのうち刷るから大丈夫。じゃ、行ってくるわ、マスター。確か帝都に居るんだよね、その“演奏者”は。」
「ああ。何回目かの人生でそいつの弟子をやったことあるけど、厄介なお方だから気を付けて」
羊飼いはチョークのドアノブをひねり、ドアを開けた。途端、色鮮やかな夜景が広がった。……足元に。
うわあああああ、と叫びながら羊飼いは落ちた。星の咲く漆黒の夜景に。じゃぶん、と音を立てて落ちたのは、蓮の花が咲く池だった。蓮の花が咲く池は蝋燭でライトアップされており、まさに天国のようだった。
「よし、死ななかった。」
羊飼いは美しいシンセサイザーの音がすることに気づいた。微かに端が赤く光る真黒な蓮の葉をふらりふらりと渡りながら、ひとつの白い建物にたどりついた。高級リゾートホテルを模した小さなコテージに、黒い人民服の男がいた。両手に黒い電子グローブを嵌め、目の前の黒板ほどの大きさの仮想譜面をいじっていた。
「はじめまして、崇蓮さんですね。僕は羊飼いといいます。」
崇蓮と呼ばれた初老の男は、パン、と手をたたき譜面を閉じると、羊飼いの方を向いてこう言った。
「ああ、もしかして愚かなあの羊飼いか。」
「そうそう。僕、因果の旋律を奏でる方々の、曲を封じた“記憶の展示会”を開こうと思ってて……」
「聞いたことがあるな。それなら、魔法を使えぬ世界の私を呼べばいいじゃないか。彼は“拘束世界”―規律で束縛された、魔法を奪われし神々の世界――に、居る……」
興味なさそうに話す崇蓮に、羊飼いは真っ赤な表紙の本をつきつけた。
「“不完全な世界と飴の福音”、要りません?」
羊飼いはニヤリと笑う。崇蓮は驚き、目を見開き、興奮した様子で本を手に取った。
「これは……!」
「3巡目の世界の記録です。今ではこれが最後の一冊です。あなたがTVで言ってしまったパスワードを囁けば全部読めますよ。」
「……狙いは何だ」
「それは……」
羊飼いが崇蓮に差し出したのは、真っ赤な記憶石<メモリー・スートン>。
「この記憶石にとっておきのあなたの曲を染み込ませて、幻燈カクテル経由で果ての街を思い出すためのお土産にしたいんです。」
ワクワクしながら語る羊飼いに、崇蓮は「帝都まで聴きにくればいい」と冷ややかに言った。
「もしダメなら先ほどの本は返していただきますよ?」
いじわるな笑みを浮かべる羊飼いに崇蓮は「まいったな。」と言って、
「で、契約書は?」と続けて言った。