第三幕 燐寸命火
曇天の空に、風でざわめく木々の木葉たち。
七つの烏の鳴き声に呼応して、虫たちが声を静める。
遠くに聳え立つ白亜の城も、新緑を彩る樹木たちも、宝石と見間違う花々も。皆総てが彩度を落としている。
黒狼と笛吹がいた昨日は、美しくその彩りを誇っていたが、今や世界は老いていた。
その元凶であるかのようなモノが一体、庭園の中央にある純白のティーテーブルの前で佇んでいた。
黒の塊。そう表現するしかないソレは蠢き、自分の居場所を主張しているのか、昨日ラッテンに用意されていた席を、伸ばした蹄と鋭利な爪が合わさったモノで、器用に持ち上げて横へずらす。
鳥類の甲高さと、馬の低音、肉食目の落ち着かせる遠吠えで、何かを納得したソレは、鳥類の大きな羽を広げて、何かを鳴らして喜びを表現する。
「まぁ、皆さま。もうお着きになっていらしたのですね。今準備いたしますので、もう暫くお待ちくださいませ」
「あっ、ネコさん! ――ってああー、イヌさんの影に隠れちゃった」
「リンさま。急に走り出してはいけません。もし転んでしまっては大変です」
黒い塊に、やって来たリンがバスケットを投げ捨てて駆け寄る。
塊から鳴らされていた音が止み、蹄と爪が合わさったモノで、今にも飛び付きそうなリンを制止する。
覆い繁った草道をしっかり踏み締めて、カップやケーキスタンド等が置かれた台車を押すエラは、彼女を咎める。
先程まで隣で自分も押してみたいと言わんばかりに、エラの周りを回っていたリンだったが、興味の対象が黒い塊へと移ったようだ。
「トキツゲさん、今日も鶏冠がカッコいいね!」
リンの言葉に、黒い塊の頂点部分が、赤く点滅する。何かを告げる叫びが、森へ響き渡る。
側面からは、瞳孔が縦に開いた瞳が塊の中から二つ現れ、赤い点滅に目を奪われるリンを注視する。
「ネコさん? ネコさんは……かわいい? 抱っこして一緒に寝たい!」
開いた瞳は、塊の中へと消えていく。
そうしている間にも、エラはテーブルへクロスを敷き、大量の食器を並べていく。
エラとリンは前回と同じ場所で、対面で座り、そこには二人分の食器が並べられる。しかし、黒い塊の前には四人分の食器が所狭しと並べられ、その対面には八人分もの食器が重ねられら状態で並べられる。
合計十四人分の食器が置かれたテーブルは、ティーポットやケーキスタンドが置ける隙間が無くなっていた。
「ネコさん隠れないでー」
「……ごほっ……ごほっ。――ああ、心配しないでオーラン兄さん。ゆっくり歩けば大丈夫だから。ゲルブ兄さん、それは駄目だよ。皆の分なんだから」
エラたちが歩いてきた道程を、狭い歩幅で辿る少女が、咳き込みながらも、か細い声を上げる。
隣を心配そうに歩く鴉には笑いかけ、先を行き、ケーキスタンドに乗ったサンドイッチを食べようとしている鴉を叱る。
旅人の装いをした少女は右手で杖をつき、弱々しく前へ進む。
「もう、ロート兄さん。そんなに怒んないであげて。インディ兄さんはもうちょっと離れて。恥ずかしいよ。――ブラオ兄さん、リューン兄さんは? ……ごほっ、え? リーラ兄さんと一緒に何処かに行った? ……たぶん、そのうち来るんじゃないかな」
少女はサンドイッチを食べようとした鴉と喧嘩をする、もう一羽の鴉を諌める。
少女の左肩に乗り、頭を擦り付ける鴉には照れた表情で拒絶の意思を見せるが、振り払わない。
空で悠々自適に飛ぶ鴉に声をかけたかと思うと、苦笑する。
「ラーベちゃん、大丈夫?」
「いつものですから、気にしないでください。ほら、リンさん。……ごほっ。ネコさんに触れるときは、怖がらせないようにしないと」
駆け寄るリンに、ラーベと呼ばれた少女は袖の余った左手で、リンの頭を撫でる。
「できる?」
「怖がらせないように……。うん! できる!」
戻っていくリンを、ラーベの型に乗っていた鴉が後を追う。
「リンさんのエスコートをお願いね、インディ兄さん」
「ラーベさま。道中の同行、叶わなかった事をここにお詫び申し上げます」
「いいですよ。兄さんたちがいましたから。リンさんに台車を任せるのは、不安ですからね」
全部台無しにしそうです。っと、ラーベは小声で付け加える。
納得したエラも、今にも黒い塊に飛び込みそうなリンを一瞥して小さく笑う。
側では、二羽の鴉が後から混ざった鴉に叱られている。
「おっ? おおっ? おおー……」
黒い塊は爪のある蹄で、リンの体を傷付けないように、体を横に倒してゆっくりと持ち上げる。膝裏を抱え背中を支えた状態で、軽々と持ち上がる彼女の体は、黒い塊から見て左側の席へ収められる。
呆然としているリンに、ソレは複数回の低音を鳴らす。
「淑女としてもう少し落ち着いて欲しいって、別にいいじゃない。ねぇイヌさん」
肉食目の鳴き声が鳴る。
伸びに伸ばされた黒の腕が、道端に落ちたバスケットを彼女の側にまで持っていく。
鳴き声は唸り声に変わり、リンを怒っているようだ。
「イヌさんもー……? トキツゲさんは違うよね?」
黒い塊の反応を、この場全員が静寂で待つ。
黒い塊は漆黒の翼を広げ、頂点部分が真紅に染まる。宣告される叫喚が全員を襲う。
「大声での催促はいけませんよ、トキツゲさま」
「……ごほっ。トキツゲさん、朝食ぐらいは摂りましょうよ」
言葉とは裏腹に、エラはケーキスタンドから、黒い塊の前にある取り皿へサンドイッチを分けていく。
サンドイッチを食べようとしていた鴉は、ふてぶてしく分けられるサンドイッチを涎を滴ながら眺めている。その鴉と喧嘩して鴉は、ラーベに付き添っていた鴉と共に、ティースプーンなどの準備を手伝っていく。
リンのエスコートを頼まれた鴉は、彼女の席の背もたれの部分に留まり、全員の行動が気になるリンに、声をかけて落ち着かせている。
空を飛んでいた鴉は、ラーベに一声かけて、どこかへ飛び去っていった。
「ロートさま、オーランさま。ありがとうございます。――ラーベさま、ブラオさまはどちらへ行かれたのですか?」
「リュー……ごほっ。リューン兄さんとリーラ兄さんを探しに行きました」
二羽の鴉へ礼をするエラは、席に着こうとするラーベの体を支える。座り終えた彼女から杖を預かり、左の肘掛けの奥側へかける。
お互いに頭を下げる二人。
エラはそのまま、ティーポットを取りに行き、ラーベのティーカップから順に紅茶を淹れていく。
ラーベはティーカップを右手でゆっくりと持ち上げて、咳き込みながらも息を吹き掛ける。台車の上にいる二羽の鴉に見届けながら、湯気の立った紅茶を口に含んでいく。
「……ん。エラさま淹れた紅茶が、一番美味しいですね」
頬を緩ませるラーベに緊張の糸が切れたのか、二羽の鴉は別で用意された簡易なティーテーブルへと移っていく。
そこには既にサンドイッチを食べ始めている鴉がおり、気付いた一羽の鴉がまたも剣幕に怒りだす。
「では、今日はどなたからに致しましょう」
「……ごほっ。私はもう少し、落ち着いてからにします」
「んー、私がやってもいいかな?」
混ざり合った音がリンに向けられる。
エラとラーベも、静かに首を縦に振る。
リンは淹れられた紅茶に、角砂糖を三つとミルクを多めに入れて、音を立てながらティースプーンでかき混ぜる。
取り出したスプーンをソーサーへ置き、ティーカップを両手に抱えて傾ける。
機嫌良く足をバタつかせながら、昏い焔色の瞳は無垢に笑う。
「それじゃあ聞いてください。私の覚えている不思議な話を」
◆◆◆◆
あれは、2年ぐらい前の事。
私のお婆ちゃんが亡くなって、何回目かの冬の事です。
大好きなお婆ちゃんがいなくなってから、お父さんが段々と、私に辛く当たってくるようになりました。
お母さんは変わらず、少し冷たいような気もするけど、何かあったら一番に駆けつけてくれる、優しいお母さんです。
「大人しくしろ! あの婆さんはもう死んだんだ。お前までいなくなったら、俺たちには何も残らなくなっちまう」
「あなた。リンも反省しているようですし、その辺りで良いのでは?」
悪戯でもしたの? ……ごほっ。ごめんね
ううん。毎日雪が降ってて、退屈だから外を歩いていたの。
まぁ……。それはご両親も心配だったことでしょう。
リン様は昔からお変わりないようですね。
もー、イヌさんそれどういう意味?
お転婆っていうことだよ。お嬢。
ロバさんも同意見なのー?
口々に言われる私の評価に、色々言いたいことはあるけど、気を取り直して続けていく。
黙々とサンドイッチを食べているトキツゲさんに隠れて、ネコさんは湯気の立つ紅茶を、頑張って冷ましていた。
おほん。えー、私は理由なく外に出ていた訳じゃなくて、ちゃんとした理由があるんです。
少しでも家のお金になるように、マッチを売りにいってたのです!
そう言って私はティーカップを乱雑に置き、足元にあるバスケットを見せびらかす。揺さぶって中身があることも知らせていく。
「……ごめんなさい。でも、これ。お金、ちゃんとマッチ売れたよ?」
「そうじゃない。そうじゃないんだ、リン。金なんて、この際どうでもいい」
「でも、いつもお金お金って、言ってたし」
「お金より、貴女の命の方が大切ってこと。分かる? リン」
肩に手を置いて、お父さんは真剣な表情で、私の顔を見てきました。お母さんは、後ろから抱き締めてくれました。
暖炉の火が燃える、煉瓦の家で私はこの日。ずぅぅぅと、部屋の中でお母さんと一緒にいることになりました。
当然の判断だ。俺達でもそうしてるね。スコーンうめぇ。
隣のテーブルからは、ラーベちゃんのお兄さんたちの声が聞こえてくる。
とりあえずマッチの実物を見せようとバスケットの蓋を開けると、後ろから声が聞こえる。
そっと手を取られ、音も無く蓋は閉じられる。
駄目だよ、リン。ラーベやエラさま。それに狼とも約束しただろ。
やる気のない、しかし甘さのある声に振り向くと、少し長い黒髪に藍色の瞳をした男性が、私の椅子の背もたれに寄りかかりながら、気だるそうにしていた。
どうやら私の自由は無いみたいだ。
その調子でお願いします。と褒められる彼の緩んだ顔は、女の子として満更でもない。
「リン。どうしてもマッチを売りたいのなら、明日私と行きましょうか」
「……うん」
「機嫌を直して。ね? あの人も、リンが心配なのよ」
そうして、私は次の日にお母さんと一緒に出掛けることになりました。
羨ましいですね。優しいご両親で。
……ごほっ、ごほっ、ごほっ!
ラーベ様。こちら膝掛けとなります。よろしければ、紅茶に蜂蜜を入れてはどうでしょう?
イヌさん、ありがとう。そうするね。――ああ、いい……ごほっ。いいですよ、エラさま。自分でやります。
いや、俺たちがやるぞ。ラーベ。
ロート兄。今日張り切りすぎ。
スコーンメッチャうめぇ! おいロート、オーラン。ストロベリーと、くろてっどクリームっていうの、メチャクチャうめぇぞ!
結局エラさんがラーベちゃんの紅茶に、台車かに並べられた瓶の中から蜂蜜を選び、スプーンで掬って溶かしていく。
相変わらず何を他食べても、美味しいって言ってる人もいるし。
ほら、リン。続きは?
そう言って後ろの彼は、話を進めるように促してくる。
向こうはその気はなかったのだろうが、耳元で囁かれたため、私の顔が炎みたいに熱くなる。
ラーベちゃん、違うの。そんな目で見ないで。
「リン。必ずお母さんの言うことを聞くんだぞ。――じゃあ、言ってくる」
そう言って、次の日にお父さんはお仕事に出掛けていきました。私はお昼からお母さんと一緒に、マッチをバスケットに積めて行くことになりました。
うむ。絶対に聞かぬじゃろう、それ。
トキツゲさま、次はどうなさいますか?
うむ。次はスコーンじゃ。
……時にネコよ。俺が冷ましてやろうか?
猫舌を哀れむな、赤目黒鳥。
ネコさん、貸して。
無言で前に押されるソーサーに、赤目の彼は納得のいかないような表情を浮かべる。
とにかく、日が昇りきってから、私はバスケットを持ってお母さんと一緒に家を出ました。
雪景色の町にはいっぱい人がいて、色んな人がいて、私はわーってマッチを配ろうとしました。
どんな風に? こう、わーってやって。どざーって売れて、ざっくざく。
けど、うまく売ることはできず、お母さんがご飯を買いに行っている間、街角で待つことになりました。
「ここで待っているのよ? いい? 絶対にここから動いては駄目」
そう言い残して、お母さんは人混み中へ紛れていきました。
寒い冬にはグラーシュだな。
ゲルブ兄、よくこの場でそれ言えるね。
でも、いいですね。よろしければ今夜用意させていただきますが、どうなさいますか?
……ごほっ。兄さんたちも私も、予定は無いから。……お邪魔させて貰おうかな。
我々は行く所があるゆえ、折角のエラ様のお誘いではあるのですが、ご容赦のほどを。
大丈夫ですよ、イヌさま。思い付きですので。
今日のお泊まりと夕飯が決まったところで、話を再開する。
それで、手が冷たくなってきたので、ふとマッチを点けることにしたんです。
火だから暖かいかなーって、そんな感じで点けたんです。
「……えっ?」
火を点けた途端、周りが少し明るくなりました。もちろん暖かくなりましたし、その上、驚くことが起きました。
目の前に暖かいスープが現れたの。
檸檬黒鳥、なんだその顔は。汚いぞ。
私はどんどんマッチに火を点けました。
そうしたら、暖かい豪華な食べ物に、服に、欲しかった物。全部が目の前に現れるの。
上を見上げると、流れ星がいっぱい流れてて、お伽噺の世界にいるみたいだったの。
その内ね、とっても大好きだった人が目の前に現れたの。
私の大好きなお婆ちゃん。あの日、誰かが最期に一緒にいた、私のお婆ちゃん。
「お婆……ちゃん……? ねぇ、お婆ちゃんなの?」
お婆ちゃんは答えてくれなかった。
マッチの火が消える度に、お婆ちゃんの姿が霞んでいく。だから私はね、一生懸命マッチに火を点けたの。
バスケットの中身が無くなるその時まで。
――ずっと、ずっと。星降る空の下で、火を点けたの。
気が付いたら、最後の一本になっちゃったの。
もうこれ以上、火を点けられない。
そう思って、もっと多くのマッチを探しに行こうと、周りを見たらね。
――誰もいなかったの。
雪が降る暗い町。私のよく知ってる、明るい町がね。
私以外に、誰もいなかったの。
何でだろうね?