第一幕 黒狼の追憶
――これは、遠い未来の摩可不思議な物語。虚ろに染まる世界に、人々は不安と諦観を抱きながら暮らしていた。
深海の底の如く静まり返った世界を、彼らは良しとせず光を灯した。
これはそんな彼らが語る、ちょっとした後日談。
◆◆◆◆
蒼穹の空には鳥たちが優雅に羽ばたく。
荘厳の白亜の城は、城下の街を雄々しく見守る。
そんな城の少し離れた森の中、新緑の葉と宝石の如く咲き誇る花たちに囲まれた、総てを美しく包み込む庭園がひっそりと存在している。
そこで彼らは――飽きもせず、一時のお茶を楽しんでいた。
澄みわたる青空の下、彼――やや整えきれていない黒の毛皮を持つ大柄の狼は、しっかりと後ろの足でその大地を歩いていた。
のんびりと草道を歩く彼は、視線の先にいる彼女たちを認めると、少し急ぎ足になる。
そこには敷き詰められた純白の石畳の上に、財宝を飾るかのように整えられた、いつものアフタヌーンティーの準備の数々。
「悪い、少し遅れた」
一言、謝罪を彼女たちに告げる彼は、少し戸惑いを見せるが、用意されていた席へと座る。
周りを囲む手入れの行き届いた花たちからは、自然の声と聞き間違えるような囁き声が聞こえるが、彼は気にはしなかった。
「お気になさらず。私たちが早めに準備をしておいただけですので。――紅茶はいつもので?」
「ああ、頼む」
狼の左手側で待機していた、ティーポットを携えたドレスを着る女性が、手慣れた手つきで彼の前に置かれたティーカップへ、片手でティーポットの中身を注いでいく。
満たされた紅茶に、女性はシュガーの中の角砂糖を一つと、クリーマーに入ったミルクを入れていく。
狼は銀のティースプーンを手に取り、紅茶を軽くかき混ぜる。柔らかな色となった紅茶を一口飲み、その表情は穏やかなものへと変わる。
「給仕までしなくてもいいんだが……。ああ、エラ様の淹れた紅茶は、いつ飲んでも旨いな」
「好きでしていることですから。紅茶も、誰が淹れても同じですよ」
微笑む女性に、狼は自然とその頬を緩める。本人は意識はしていないが、彼の尻尾は揺れ、顔以上の感情を物語っていた。
「狼さん、エラ様の時だけ紅茶を飲みますよね。他の方の時だと、珈琲なのに」
「折角入れてくださったんだ。勿体無いから、飲むんだよ」
「素直じゃないですね」
狼の右手側に座る少女の指摘に、狼は顔を赤くしてそっぽを向く。
少女はくすんだ赤とも灰色とも言えない外套を纏い、女性とは違う優雅さは持たないが、無垢な瞳は彼女の人の良さが伺える。足元には彼女の持ち物であろう、編まれたバスケットが置かれている。
「で、他の奴は今日は来るのか?」
「後はラッテンさんですね。お仕事が終わったらすぐ来るそうなので、時間までは分かりませんが」
「……そうか。今日は俺の番だったよな」
「ええ。お願いします、狼さま」
狼は反対側の席に座る筈の人物の所在を聞き、納得する。
紅茶を一口飲み、狼は彼女たちへ語り始める。
女性は目を閉じ、その声を逃さないよう耳を澄ます。
少女は真剣な眼差しで、狼の話を聞く。
――今から語られるは、黒き狼が朧気ながらも記憶に留める、ある少女とその祖母の話だ。
◆◆◆◆
何時だったか思い出せねぇが、あれは確か……やけに光の通らない、黒い森での事だ。
その日が特別雲が多かったとかじゃなくて、いつも暗いんだよ、その森は。たぶん、木々の密度が濃いんだろうな。
そこにな、名前を思い出せねぇんだが、世話になったんだと思う婆さんが住んでいて、そこに様子を見に行こうとしてたんだ。
……悪い。この辺りの記憶がイマイチでな、何となくでしか思い出せねぇんだ。
それで向かう道の途中で、そいつを見掛けたんだ。
「……ああん? アイツは確か、婆さんの孫か」
道から逸れた場所で、赤い頭巾を被った子供がな、草の上に手籠を置いて座ってたんだよ。
顔見知りの孫ってことで、その時の俺は様子が気になったんだろうな。躊躇い無く声をかけたよ。
「おい、お前。こんなところで何やってんだ」
「……? 誰ですか?」
顔を上げたそいつは、大して驚きもせずにこっちに質問してきやがったんだよ。
もう少し優しいお声掛けは出来なかったのですか? って言われても、上品な俺とか気持ち悪りぃだろ。
とにかく、座ってるそいつの手には、幾つかの野花が摘まれてたんだ。
「お前の婆さんの知り合いだよ」
「……知らない人とは、お話ししてはいけないと、お母さんの言い付けを思い出しました」
「それを俺に言ってどうすんだよ」
そうですね、狼さんに言ってもどうしようもないことですね。――ちなみに、そのお孫さんは男の子ですか? 女の子ですか?
覚えてねぇ。フードで顔は見えなかったし、体格も差が出る年じゃなかったしな。声もどうだったか忘れた。
「まぁいいや、怪我してねぇのなら。さっさと用済まして、暗くならねぇ内に家に帰れよ」
「……ばいばい、オジさん」
「オジさんじゃねぇよ。減らず口叩くなら食うぞ、餓鬼」
食べてしまったのですか? という声に、話の合間に口に含んだ紅茶を吹き出す。
冗談ですよと言わんばかりに笑う声に、勘弁してください、食べてないですよと俺は言う。
狼さん、気を付けてください。と心配する声もあるが、不意打ちだったものにどうしろと。
片付けを任せてしまった状態で俺は息を整え、話を進める。
「……っ!」
息を呑み、体を強張らせたその子供を置いて、俺はその場を後にしたんだ。
たぶん、泣きそうになってるのを我慢してたんだろうな。
今考えると、知り合いの孫を怖がらせて立ち去るとか、最低だな当時の俺。
――今の狼さんが同じことを言っても、怖くなさそうですね。
うるせぇよ、リン。っと俺はケーキスタンドから取り分けられた、大きめのサンドイッチを切り分け、その口に突っ込む。
行儀が悪いですよ。という声もあるが、放り込まれた本人はもっと欲しそう口を開けており、これ以上は自分の分が無くなると思った俺は、無視して話を進める。
そんで、しばらく森を歩いてるとな、木造の一軒家が見えてきたんだ。
赤い屋根に、何の飾り気のない煙突。窓もガラス製じゃなくて、木でできた開閉式の奴。そんな地味な家だけど、違和感があったんだ。
そこは黒い森の中なのに、明かりが一切ついていない。煙突からも煙が出てないし、窓も閉まってる。その状態だと家の中は夜も同然だ。
起きている奴がいるのなら、普通明かりはついてるはずだろ? 人間なら特に――。
俺は慌てて扉を開けて、中の様子を見に行ったんだ。
「おい婆さん! 大丈夫か、生きてるか! おい!」
暗い夜みたいな部屋の中には、青い顔をして倒れている婆さんがいたんだ。
俺は大急ぎで窓を開けて、天井から下げられたランタンに火を点けた。
息を荒くして倒れている婆さんをベッドに寝かせて、常備されている川から汲んだ水を飲ませる。そこまでして、やっと婆さんも落ち着きを取り戻して、俺も一息つくことが出来た。
「おお……ヴォルフ。助かったよ、ありがとうね」
「礼はいらねぇよ、ったく……。――いつまでその名前を憶えてんだよ」
「好きに呼んでいいと言ったのは、あんたじゃないの。あたしにはこの呼び方が一番なのさ」
ヴォルフ様、ですか。静かにそして優雅に紅茶を嗜む声に、俺は背中がむず痒くなるが、この際気にしない。どうせ記憶が飛ぶ前の名前だ、未練はない。
私は狼さんの方がいいなぁ。という間の抜けた声もあるが、こっちはどうでもいいや。
「で、婆さん。何で明かりもつけずにぶっ倒れてたんだ」
「何でもお医者様が言うには、この辺りで流行ってる流行り病らしいよ。あたしは老い先短いから構わないけど、うちの孫も何かの病気に罹っちまってるみたいでねぇ。なのに今日もこっちにわざわざ遊びに来るみたいで。――あんた、来る途中に見掛けなかったかい?」
「……いたよ。道中の花を摘んでた」
「そうかい。お見舞いの花だろうねぇ……。ヴォルフ、ちょっとその辺りの花瓶を用意してくれる?」
はいはい、と適当な返事をしながら、俺は指をさされた台所に花瓶を取りに行ったんだ。どれくらいの奴だったかな?
――これより大きいぐらいか。そう言って俺は、目の前のティーカップを指さす。
小さくないですかって? 実際それぐらいだった気がするんだから、仕方ないだろ。
「起きて明かりをつけようとしたら、さっきの通りさ。残念だったねぇ、ヴォルフ。もう少し遅かったら、肉を食べられただろうに」
「笑えねぇ冗談言うんじゃねぇよ、婆さん」
「そうでもないさ。あたしは、あんたみたいな奴なら、喜んで食われてやるよ」
若い頃の美貌が窺えるその笑いは、残った記憶の中でも、はっきりと思い出せるよ。
あれは相当の美人だったんだろうな。あの時は霜のかかったような緑だったが、元は新緑のように美しい緑髪だったんだと思う。
やけに褒めますね、もしかして。と。興味を惹かれている声に、俺は否定する。
当時はどう思ってたか憶えてねぇし、今はもう記憶に残ってるだけの他人だ。
「せっかく来たんだ。棚にある奴は好きにしていいよ」
「好きにって……。赤ワインに干し肉、後は――。……なんで俺の好きな奴ばっかり置いてんだよ」
「そりゃあ、いつあんたが来てもいいように用意してあるのさ。文句を言うにしても、その尻尾じゃ形無しだよ。犬じゃあるまいし、そんなに振ってどうするんだい」
「うるせぇよ。――……まぁ、ありがとな」
――赤ワインですか。舞踏会に来られるのでしたら、是非その時は最高級の物をご用意いたしますわ。
――狼さん、かわいいですね。
それぞれの反応に俺は肩を落とす。気になるのはそこなのか。
まぁ、そんな感じで婆さんの家の棚には、当時の俺の好物が置かれてたって訳だ。
そうやって、他愛のない話をしてたんだけど……。
――悪い。ここから先を思い出そうとすると、胸糞が悪いから飛ばし飛ばし行くぞ。
どうしても俺と飲みたいって言って、俺と一緒に赤ワインを飲んでる最中にな、突然婆さんが苦しみ始めたんだ。
手から離れたワイングラスの中身が、シーツを赤く染めて、呻きながらベッドへ婆さんは倒れこむのを見て、俺は慌てて家中の棚という棚を漁った。
自分が落としたワインと干し肉なんて知ったことじゃないと、必死に薬を探してな。
そっから先が、最悪だ。
タイミング悪く、婆さんの孫が家に入ってきちまったんだよ。俺が慌ててたのが外からも分かったのか、閉まった扉を思いっきり開けてな。
持った手籠を落として、苦しむ婆さんを見る孫の顔は、忘れない。忘れられない。
フードから覗く虚ろな赤い瞳は、絶望そのものだったよ。全てを無くした、そんな顔だった。
「――……おばあちゃん! ……おばあちゃん!」
泣きつく孫を見て、俺は少し頭が冷えて揺らした不味いと思って、その時は孫を必死に止めたんだけど、それが尚更駄目な方に転んでな。
暴れる孫を抑えてた俺の手がさ、孫の服を破いた上に、その弱く細い腕に傷を付けちまったんだ。
痛みなんて知らないかのように、婆さんへ抱き着くのを見てさ。――俺、その場に竦んじまったんだよ。
着ていた赤い頭巾は落ちて、破けた右の二の腕と左の脇腹からは、ワインみたいな赤い血を流してさ。そいつはただひたすら泣いて、苦しむ婆さん抱き着いてる。
それでさ。俺、逃げちまったみたいなんだ。苦しむ婆さんと、泣き続ける孫を見るのが嫌で。
最低だよな。逃げた俺も、それを忘れかけちまってる俺も。
――これが、俺が憶えてる最低最悪の屑の物語だ。