第52話
ゼクスは、奏を呼びに走って行ったリゼットを見送ると、壁に寄りかかるようにして目を閉じる。呼吸をするたびにズキリと胸が痛む。
『────?』
意識が遠ざかっていたゼクスは、思いの外近くで聞こえた声にうっすらと瞼を開けた。
目の前に涙を流している女性の顔が迫っていた。ゼクスはギョッとして意識を覚醒させる。
近くで見る女性は美貌といえる容姿をしていたが、顔を歪めて鼻水まで垂らしている姿は滑稽であった。
ゼクスは思わず笑ってしまい、すぐさま激痛に襲われ呻く。
(綺麗な顔が台無しだな)
可愛いリゼットを見慣れているゼクスでさえ、思わず見惚れてしまった。海を想わせる深い青色の瞳からハラハラと流れ落ちる涙は、その美貌を損なわせることはない。
ただ、外聞もなく号泣している姿を見て、女性がまだ若いのかも知れないとゼクスは感じていた。
◇◇◇
「ゼクス様!!」
「王様!!」
奏とリゼットは必死の形相で叫んだ。息が切れるほど急いでいたが、ゼクスの無事な姿を確認すると床に座り込む。
「王様! 血が!」
乱れた息を整え、先に復活した奏が、ゼクスの服の袖に付いている血を目ざとく見つけて驚愕した。
「ゼクスが危ない」とリゼットに聞いてはいたが、かなりの大参事に動揺する。
「たいしたことはない。それよりカナデはそちらの女性の相手をしてくれ」
「は? たいしたことないわけないでしょ! って、え? 誰の相手?」
奏はゼクスばかり気にしていて、近くに人がいることに気づいていなかった。
強がりとしかいえないゼクスの言葉に反論してから、ようやく女性の存在に意識を向ける。
(美人さんだ!)
泣き顔でさえ様になるほどの美しさに奏はポカンとする。ゼクスの美貌に慣れていても正直驚く。
「えーと、どちら様?」
女性はゼクスを凝視したまま泣き続けている。奏は困惑してリゼットに助けを求める。
「異世界の人だということですが……」
「どういうこと?」
「許可なく召喚をした輩がいたようだ」
「は? でも金髪……」
奏は茫然と金髪で深青色の瞳を持つ美女を見つめた。外国でも異世界召喚があるなんて初めて知った。
(は! 言葉は通じるの!?)
明らかに外国人だ。生まれてこのかた日本から一歩も出たことのない奏は動揺した。英語など義務教育レベルだ。ほとんど役には立たない。
『JAPANESE(日本人)?』
「YES!」
美女が奏に気づいて声をかけてきた。思わず反射で答える。馴染んでいる言葉ではないが、知っている言葉に召喚は本物であると確信する。
「どうやら同郷のようだな」
「えーと、そうなのかな?」
同郷といえるかどうか疑問だ。確かに地球人という意味ではそうともいえるが。
「違うのですか?」
「同じ国の出身ではないかな」
「そうなのですね。カナデ様は神秘的な色彩ですもの」
神秘的かどうかは別にして、世界からすれば小さな島国の日本人は珍しい人種といえる。
美女の容姿はどちらかと言えば、この世界に馴染んでしまっている。言葉の違いがなければ異世界人とは気づかれないだろう。
『WHERE AM I?(ここはどこなの)』
「え?」
奏が日本人と知ると美女は少し落ち着いたようだ。安堵した表情で質問を投げかけてくるが、英語が理解できない奏は意味不明だ。英語が話せないという英語すら思い浮かばない。
奏は自分の絶望的な英語力に落ち込んだ。こんなことなら英会話を習っておくんだったと思ったが、今さら言っても後の祭りだ。
『日本語なら話せるわ』
奏の絶望が伝わったのか、美女が助け船を出してくれた。
「良かった。ごめんね、英語は自信なくて」
『そうなの? 日本語は習っていたから大丈夫よ』
「ありがとう」
今から英会話を習得する苦労をしなくて済むと知って奏は安堵する。
『わたしはシェリル・エディントンよ』
「カナデ・アマサキです」
『あの、彼は大丈夫?』
「ん? 王様は手当てしないとまずいんじゃないの!?」
奏は慌てふためく。シェリルに言われるまでゼクスを放置していた。リゼットが心配そうに傍についているが、のんびり会話をしている場合ではない。
「騎士が医師を呼びに行ってくれていますよ」
「それなら良かった。でも、王様はどうして怪我なんて」
「それは……」
リゼットは言葉を濁した。奏は何の説明もされていないため状況が掴めない。
『KING(王)?』
シェリルが小さく呟く。ゼクスが王であると初めて知ったようだ。
「シェリル?」
『わたしはなんということを……』
シェリルの絶望したような小さな声が聞こえる。その声にゼクスが反応する。
「カナデ。彼女はどうした?」
「よくわからないけど、王様を心配しているみたい」
「平気だ。そう伝えてくれ」
「平気には見えないけど……」
ゼクスの顔は蒼白だ。今すぐに手当てを必要としている。
「もう一度泣かれる前に納得させてくれ」
「手遅れみたい」
どうやらシェリルには奏の言葉は日本語として伝わってしまったようだ。同時通訳状態になっていることは、いいのか悪いのか。
ゼクスと会話の最中にシェリルは急激に青ざめて泣きはじめてしまう。
「王様はシェリルに何したの?」
『カナデ。わたしが彼に怪我をさせたのよ』
シェリルはさめざめと泣いている。今にも懺悔しそうな悲壮感が漂っている。
「シェリルが王様を?」
奏には信じられなかった。シェリルは奏より小さく、とてもゼクスに怪我を負わせられるようには見えない。
ゼクスも体格はかなりいい。騎士に劣らないほど鍛えられた肉体をしている。女性がどうこうできるとは思えない。
『カナデ、これを見て』
奏の納得していない素振りに、シェリルは証拠を見せつけるように床を軽く叩く。するとボコリと床が陥没する。
「あ!」
奏は衝撃を受けて顔色を失う。これまでゼクスに言われた言葉の数々が走馬灯のように頭に流れ込んでくる。
ゼクスは初めから異世界人に力があることを知っていた。当然、奏にも同じように力があると信じている。
(本当はシェリルが召喚されるはずだった!)
ゼクスが必要としている力は、シェリルの力だ。その力の凄まじさは到底、奏と比べるべくもない。
(私はもうここにはいられない)
リゼットには「帰る」と伝えておいて、本当は決断できずにいた。それが今はっきりとする。
けれど、シェリルの存在は奏の意思など関係なく、奏をこの世界から排除しようと動くだろう。
奏は本当の絶望を知る。覚悟もできないまま、死の近づく音が奏を支配する。奏の目の前が真っ暗になっていく。