第45話
ゼクスの荒療治が功をなしたのか、奏は徐々に距離感に慣れはじめた。ほとんど慣れされられたといった具合だが、意外と何とかなるものだ。
「王様、疲れたよ」
「まだはじめてもいないのに何を言っている」
そうダンスの訓練はまだはじめてはいなかった。
にも関わらず、何もせずにこうしてゼクスとくっついたまま一体どれだけの時間が経過したのだろうか。
「いい加減離れて欲しい」という訴えは、ことごとくゼクスに却下され続けて、今に至る。
奏が仰け反ると、腰に添えられていたゼクスの手が背中に移動して、ぐっと引き寄せられる。少しでも逃げを打つと身体が引き寄せられるといった攻防が数度繰り返されている。
そのたびに「慣れるまではこのままだ」と、ゼクスに脅される始末だ。
奏は肉体的な疲労よりは精神的に疲れていた。今日はもう終わりにして欲しい。
「……王様の瞳って綺麗だよね」
近い距離にいて何をするでもない。自然と目線はゼクスに集中してしまう。
奏は紫色のゼクスの瞳をまじまじと見つめる。見たこともないような深い紫色の瞳は、吸い込まれそうに美しい。奏は宝石を思わせる瞳に見入った。
「それは俺を口説いているのか?」
「え?」
「ああ、意味がわからないか。瞳を褒めるのは口説きの常套句だぞ」
奏はニヤリと笑うゼクスに怯む。
確かに容姿を褒めたのだから口説いていると思われても仕方ないかもいれないが、ゼクスの意味深な笑いはそれだけではないようだった。
「どう口説いていることになるの?」
「女が男を褒める場合は、『あなたの瞳に捕らわれたい』『私のすべてを奪って』といった感じだな。逆になると『あなたしか見えない』『あなたの瞳に映るすべてを奪いたい』『俺だけを見ていろ』という感じになるな」
「二度と王様は褒めない」
奏はフンと鼻息を荒くしてゼクスから顔を背けた。
「そういうな。カナデの瞳も美しいぞ」
「ちなみにそれはどういう意味?」
「『俺だけを見ていろ』だな」
奏にはゼクスが本気で口説いているようには思えない。何故ならゼクスの口元が微妙に笑っていたからだ。
「冗談はさておき、そろそろ特訓をはじめるぞ」
「ダンスなんてしたことないのに」
奏は生まれてこのかたダンスをしたことが一度もなかった。覚えている限りでは、学校の体育でやらされた創作ダンスくらいだったが、それとパーティーのダンスを同じに考えるのは無理がある。
「なにもいきなり複雑なステップを覚えろとはいわない。俺の動きに合わせろ。それでなんとかなる」
「そんなのでいいの?」
「取り敢えずは身体で感覚を覚えろ。それからステップを覚えていけばいい」
「よろしくお願いします」
自信はまったくなかったが、ゼクスに任せるしかないだろう。
「いい加減慣れたと思ったが?」
奏自身そう思っていたが、ゼクスが動きはじめるとそれが間違った認識であると思い知らされた。動くたびにゼクスの身体が触れるので意識せずにはいられない。
ダンスに慣れていないとわかっているのに、ゼクスは意地悪く、奏を翻弄する。
奏はステップすらままならない状態で身体を振り回される。足を踏まないように注意することが難しい。いっそのこと踏んでやろうか、と奏が思い始めた時、小さな揺れによって奏の身体が傾いだ。
「え? 地震?」
「そのようだ」
ゼクスは奏の身体を強く抱きしめた。揺れはすぐに収まったが、ゼクスの表情は硬い。
「悪いが続きは明日だ」
ゼクスが離れていく。奏はゼクスの緊迫した雰囲気に気圧されて、見送るほかなかった。
◇◇◇
「約束を守れなくて悪かったな」
数日してから奏のもとに訪れたゼクスは、疲れているようだった。顔色が冴えない。
「王様、無理しないでよ」
「時間がない」
「ダンスなら別の人に習うから!」
「ダメだ」
「どうして!?」
「……譲りたくない」
奏は呆れ果てた。疲れていることを隠せていない人が何を言っているのか。
「頑固」
「お前は俺を癒そうと思わないのか?」
「ダンスなんて余計疲れるだけでしょ!」
「どうせ何をしても疲れる」
ゼクスは投げやりな態度だ。もう疲れていることを隠す気がない。
「王様、ちゃんと寝ている?」
「寝ている」
それは嘘だ。ゼクスは自己管理をしていない。奏はゼクスがいつ倒れるか気が気では無かった。
「今日は何もしない!」
「意地悪を言うな」
「王様! こっち来て!」
奏はゼクスの腕をとると、強引にソファまで連れてくる。有無を言わさず突き飛ばす。
ソファに突き飛ばされたゼクスは驚いて半身を起こすが、奏は伸し掛かって抵抗をさせない。
「随分と積極的だな」
「王様はこれくらいしないと言うことなんて聞かないでしょ!」
ゼクスは揶揄ってきたが真顔で返事を返す。奏は少し怒っていた。
「ここで休めばいいのか?」
「そう。分かっているならいいよ」
奏はゼクスの答えに満足すると身体を起こす。ゼクスの上からどこうとするが腰をがっちりとゼクスに掴まれて動けなくなる。
「ここまでして俺だけ寝ろというのか?」
「邪魔になると思うよ」
「責任をとれ」
「お、おかしな言い方しないでよ!」
まるでゼクスを襲ったような言い方をされて奏は焦る。痴女認定はごめんだ。
「こうしていたら寝られる気がする」
奏は抵抗したが、ゼクスに抱きかかえられるようにしてソファに押し倒される。ゼクスは奏を抱き枕にして眼を閉じる。
「王様は私の心臓を止めるつもりでしょ!」
憤慨する奏の声が聞こえていないのか、ゼクスからの返答はなかった。