もう一度あなたに 3
シェリルの家族が現れて消えるという不可思議な現象のことをヴァレンテは誰にも話すことはなかった。特にシェリルに知られるわけにはいかないと口を閉ざした。
あれが一時的なものなら特にシェリルには言えないと思ったからだ。シェリルに家族を合わせることで里心などついては困るという気持ちも少なからずあった。
あの時の現象がどういったものなのかはわからないが、シェリルが少しでも帰れるかも知れないと思うようなきっかけを与えたくはなかった。二度と帰ることは出来ない。それでいい。
ヴァレンテはわれながら酷い考えだと思った。それでもゼクスが唯一選んだ女性だ。みすみす逃がすつもりはなかった。
それからしばらくしてヴァレンテは遠征に同行することが決まった。宰相としてではなく騎士としてだ。元は騎士だったとはいえ無理のある人選だった。どうやらアリアスがごり押ししたようだ。
将軍になったばかりのアリアスはまだ騎士団との連携はとれないらしく、しかも暴走を止められるような人間もいないということで白羽の矢が立った。
ヴァレンテは正直いって面倒くさいと思っていたが、同行は意外な結果をもたらした。ドラゴンについてもそうだが、国を混乱に陥れた黒幕を捕らえたことは大きな収穫だった。
その場にいなければ知りえなかった事実も多くあった。そして黒幕となった人物を知るに至った。それは遠征に同行しなければ知りえなかったことだった。
そして積み重なっていた問題がすべて解決してひと息つけるようにまでなった。
ちょうどゼクスもシェリルと蜜月中だった。少しくらい仕事を休んでも平気だろうとヴァレンテは執務室で一人ぼんやりとしていた。
最近リゼットがハマっているという特別なお茶を飲みながら寛いでいるとドサッという音とともに一人の人間が机の上に落ちてきた。
ヴァレンテはあっけに取られていたが、こぼれたお茶がその人物の服にかかりそうになり我に返った。
机に身体を打ち付けて悶えているその人物の身体を起こそうと手を伸ばしたヴァレンテは眼を見張って動きを止めた。
「あなたは……」
いろんなことがありすぎてすっかり記憶の彼方になっていたが、机の上にいる女性には覚えがあった。あの時もこうして突然現れた。何故また今になって現れたのか。
「あ、いたたた」
痛みに呻いていた女性が身体を起こした。打ち付けた腕が相当痛かったようで眉間に皺を寄せていた。
それでもなお美しさを損ねない女性にヴァレンテは声をかける。
「痛みが酷いのでしたら手当てをしましょうか?」
「……もう平気よ。ありがとう」
ヴァレンテの問いかけに女性は答えた。言葉が通じることにヴァレンテは驚く。
女性が顔を上げた。ヴァレンテに気づくと「あっ」と声を上げて固まった。
「……机の上は固いでしょう。こちらへ」
唖然としている女性をヴァレンテは促した。状況が理解できていない女性はヴァレンテのなすがままに近くの椅子へ腰掛けた。ヴァレンテを凝視したままだ。
「この場合はお久しぶりです、でいいのでしょうかねぇ。それとも初めましてでしょうか?」
「あ、あの言葉がわかるの?」
「ええ。どうしてなのかわかりかねますが、どうやらそのようですね」
ヴァレンテは不思議な現象に慣れつつあった。最近の出来事は理屈では計れないことばかりだった。
女性が机の上に降ってきたことも同じようなものだろう。
「あなたは誰?」
「私ですか? 私はヴァレンテと申します。一応はこの国の宰相を務めております」
「え? 国の宰相って? 偉い人ってこと?」
「どうでしょうね。国王の片腕ではありますが」
「国王ってどこの国よ!?」
「セイナディカですよ」
女性は混乱しているようだった。ヴァレンテを食い入るように見つめて矢継ぎ早に問いかけてくる。
「セイナディカなんて知らないわ! どうなっているの? ……あ、それにあなた! シェリルのこと知っているでしょ! 誘拐犯なの!?」
「シェリル様のことは知っていますよ。誘拐犯ではありませんが」
たしかに誘拐はしていない。しかし一味には違いなかった。シェリルを召喚した犯人を知っている上に今では懇意にしている。
「誘拐犯じゃないの? どうしてシェリルはここにいるのよ!」
「それには事情があります」
「どんな!?」
女性の必死な様子にヴァレンテはどう答えたものかと逡巡した。答え如何では女性がシェリルを帰せといいかねない様子だった。ヴァレンテにとってそれは失策だ。
ゼクスにとってもはやシェリルは手放せない大切な存在となっている。帰せといわれて帰せるものではない。そもそも帰る手段もない。
「シェリル様はわが国の王を愛しています。この国に留まる決意を固めています」
嘘ではないが本当でもない。シェリルがゼクスを愛していることは事実だが、それがセイナディカに残る理由とはいえないからだ。
「……あの夢の人って国王様なの? シェリルはどうしてそんな人と知り合ったっていうの
よ」
「夢とはなんでしょうか?」
「し、知らないわよ! 私だって何がなんだかわからないわ! 本当にいったいどうなっているのよ」
女性は途方にくれたような顔をしていた。ヴァレンテは女性の不安げな様子に心を痛めた。シェリルの家族ならずっとシェリルの行方を捜していたはずだ。心配していたに違いない。
そして自分はこんなわけのわからない状況に陥っている。混乱しないわけがなかった。
ヴァレンテはある程度の事情をしっているから対処できた。異世界から来た人間に耐性ができていた。けれど女性は全く何もわからないのだ。
「あなたの名前を窺ってもよろしいでしょうか?」
「え? 言ってなかった?」
「ええ」
女性は不安を吐き出して少しは落ち着いたようだ。名乗っていないことをヴァレンテに指摘されて大きなため息をついた。
「ごめんなさい。混乱していて。ジェナよ」
「ジェナと呼んでも?」
「いいわよ。あなたのことはどう呼べばいい?」
「そうですね。ヴァレンテと呼んでください。ヴァルでもいいですよ」
「でもあなたは偉い人よね? いいの?」
「かまいませんよ。ジェナはこの国の人間ではありませんから」
むしろヴァレンテがジェナを呼び捨てることのほうがおかしい。シェリルの家族ならそれ相応の対応をするのが普通だ。だがヴァレンテはそうはしなかった。
ジェナはシェリルの家族だがヴァレンテの元へそれこそ落ちてきた。運命的なものを感じた。ヴァレンテは個人的にジェナに興味を持った。他人行儀な関係になりたくはないという思いが呼び名に拘る理由だった。
「そう? じゃ、ヴァレンテって呼ぶわね」
ジェナの口から自分の名前が紡がれる。ヴァレンテはその感覚が気に入り微笑んだ。ジェナが眼を見張る。
「あ、あなたの笑顔って心臓に悪いわ」
「何故です?」
「なんでって……」
ジェナが言葉を濁す。顔が少しだけ赤くなっていた。
「なんでもいいでしょ! それよりヴァレンテは冷静よね。こういうことに慣れているの?」
「いいえ。これでも驚いていますよ。ジェナはいきなり現れましたからね。一度目は目の前から消えてしまいました。あなたが本当に存在する人間か疑いましたよ。それから自分の頭がおかしくなったのかとも思いましたね。疲れていたので」
「大丈夫なの?」
「頭ですか?」
「違うわよ! 疲れているんでしょ?」
「あの時はそうでしたが、今は平気ですよ。問題が解決した後なのでゆっくりできます」
ジェナが消えたあとヴァレンテが己を疑ったことは事実だ。それほど疲れきっていた。いもしない女性を妄想したのではないかと。
「平気ならいいわ」
「心配してくれるのですね」
「まあね。だってあなたとは何かあるみたいな気がするし……」
運命的なものを感じていたのは何も自分だけではなかったようだ。ジェナは笑みを深めたヴァレンテからフイと顔を背けた。どうやら照れているようだ。
ジェナはしっかりした女性なのだろう。いくら不思議な出会いとはいえ、感情をそのまま吐露したことに戸惑いを感じていたのだ。
「ジェナが私のところへ落ちてきてくれてよかったですよ。でなければ大騒ぎになっていましたからね」
「そうなの?」
「ええ。ジェナはここが異世界だという認識はありますか?」
「……そうよね。やっぱりね。だってセイナディカなんて国はないもの。それにヴァレンテみたいな琥珀の目の人はみたことがないわ」
ヴァレンテの眼の色はセイナディカでは珍しくもない色彩だ。ジェナはそれを見たことがないという。そんな色彩を持つヴァレンテを目の前にしては認めざるを得ないといったところだろう。
「セイナディカではごく一般的ですよ。セイナディカは極彩色に富んでいますからしばらくは慣れないでしょうね。ああ、一つ忠告しておきますが、いくら美しく感じても男性の目は誉めないように」
「どうして?」
「口説いていると勘違いされますからね」
「ロマンティックなのね」
「ロマン?」
「えーと素敵ってことよ」
ヴァレテに理解できない言葉をジェナは即座に言い換えた。頭の回転が速い。シェリルと同じだ。やはり姉妹は似ていた。
「ジェナは何時までいることになるかわかりませんね?」
「そうね。どうしてきちゃったのかもかわらないし」
以前のようにジェナがすぐに消えることはなかった。そのことにヴァレンテは安堵しながらも、ジェナをどう扱うか考えあぐねていた。なにしろ肝心のシェリルは、ゼクスの自室から当分でてこられそうもないからだ。
「城に滞在することはいいのですが、シェリル様に会うのは難しくなりそうです」
「へぇ。ここって城なのね。でもどうしてシェリルに会えないの?」
ヴァレンテは本当のことをいうべきか迷った。あまりに明け透けだったからだ。
「……諸事情です」
「会わせる気がないわけじゃないのね?」
「もちろんですよ。なんというか時期が悪いと思っていただくしかないですが……」
シェリルにいつ会えるのかはゼクス次第だ。いまのところヴァレンテには予想もつかない。ゼクスがシェリルに飽きることはない。とすればシェリルがゼクスをとめてくれるまで待つしかないのだった。
「シェリルは元気?」
「ええ。それは間違いないですよ」
ゼクスに抱き潰されていなければだが。
「それなら待つわ。私がいつまでいられるかわからないけれど……」
「そうですか。では部屋を用意させます。それまではそうですね。……お茶でもいかがですか?」
「……いただくわ」
ヴァレンテの誘いにジェナがホッとしたか身体の力を抜いた。ぎこちない笑顔を見せるジェナに美味しいお茶をいれるべく、ヴァレンテは執務室の扉を開いた。