もう一度あなたに 1
その日、ヴァレンテはいつものように仕事に追われていた。ふざけた噂によって人員が減っていくおかげで仕事は増量。つねに微笑をたたえた表情にはまるで余裕が感じられない。
最近は、ゼクスにも遅い春がやってきて喜ばしい反面、これ以上の仕事に忙殺されるようなことがあれば二人の仲も風前の灯になるだろう、と気を揉んでいた。
仕事のために恋人との時間が少なくなってしまえば、ゼクスは振られかねない。
今のところシェリルは理解ある恋人でいてくれるようだが、それも長くは続かないかもしれない。
ただでさえ、ゼクスとシェリルは生まれた世界が違う。
宰相としては、聡明なシェリルを王妃にするべくゼクスには頑張って欲しいところである。
ゼクスはシェリルにベタボレだから、あまり心配することはないと思いたい。
ヴァレンテは自分のことより、国ひいてはゼクスのことで悩む日々だ。それは仕事として充実する日々を送っているにほかならないが、恋人の一人も作らず、淡々と仕事に邁進することに多少の疲れを感じていた。
仕事が増えたこともそうだが、ゼクスとシェリルの甘い空気を近くで感じていると、ふと物悲しい気持ちになるのだ。そうとう疲れている。
鬼の宰相と呼ばれて久しい。まさか仕事に忙殺されただけでこのていたらくとは。
ヴァレンテは目の前の書類を見てため息をついた。誰もいない執務室に虚しく響く。
しかし、疲れていようがなんだろうが仕事は待ってはくれない。少しでもサボれば次の日はさらに仕事は増えるのだ。
ヴァレンテは誰も肩代わりをしてくれない仕事を淡々とこなしていた。
どれくらい時間がたったのか。ヴァレンテはふと人の気配を感じて仕事を中断する。視線を書類から離して顔を上げると目の前に美しい女性がいた。
金髪の髪は肩までの長さで毛先に向かって緩いウエーブがかかっている。目鼻立ちがはっきりしていて、特に印象的なのは瞳だ。
とくに珍しいという色ではないが、澄んだ湖のような青を髣髴とさせる。
ヴァレンテは突然現れた女性に驚いたものの、冷静に観察を続けた。目の前の女性は状況を理解できていないのか、せわしなく瞬きを繰り返している。
そのうち、キョロキョロとあたりを見回してはじめたが、果たして目の前にヴァレンテがいることを認識しているのか、かなり怪しい。
「あなたはどちら様でしょう?」
少々間抜けな問いかけだが、状況が理解できていないのはヴァレンテも同じだ。執務室にはヴァレンテ以外に誰もいなかった。
たしかに鍵をかけてはいなかったが、元騎士のヴァレンテが入り込まれるまで気づかないなどありえない。直前まで気づけなかったことが信じられない。
女性に何かの意図があるような感情も見えない。ただただ戸惑っているという様子を見せている。
「*******……」
ヴァレンテの問いかけにようやく女性は目の前に人がいるということを認識したらしい。何事かをつぶやいた。
しかし、ヴァレンテは女性の言葉は理解できなかった。聞いたことがない言葉だ。いや、どこかで聞いたような気もしなくはない。
「いったいあなたは何処からきたのですか?」
「**?」
やはり聞き覚えがあるような気がした。言葉そのものというよりは不思議な音の羅列が感覚として残っている。
そして、女性を観察していて気づいたことがある。
何故か女性の容姿に既視感を持つ。初めて見る相手だ、と認識しつつも、どこかで会ったような気がしてくる。
それが何なのか分からずモヤモヤとしていたヴァレンテだったが、唐突に納得する。
「シェリル様のご家族ですかねぇ」
シェリルに良く似ていると思った。
シェリルのような儚い感じの美人ではないから、すぐには気づかなかったが、たしかに血のつながりを感じる。
「シェリル!?」
女性が驚愕して叫んだ。ヴァレンテは唖然として女性を見る。何故か言葉がわかる。
「落ち着いてください」
「***********!!」
ヴァレンテは突然女性に詰め寄られた。興奮状態の女性を落ち着かせようとするが、今度は女性の言っていることがわからなかった。
どうやら「シェリル」という名前だけは共通で理解できるようだ。
ヴァレンテは女性を宥めながら大変なことになったと顔を曇らせた。三人目の異世界人の出現に困惑する。
「シェリル様と引き合わせてみますか」
「……シェリル」
ようやく落ち着いた女性をどうするかヴァレンテは悩んだ。
シェリルに合わせることは別に構わなかったが、女性の存在は隠しておきたかった。生け贄強硬派の貴族に知られるわけにはいかないからだ。
「口の堅い人間を呼ばなければいけませんね。ですが、このまま一人きりにさせておくのも心配ですね」
ヴァレンテが一人で執務室に籠っている時に現れてくれたことは幸いだったが、このままでは身動きが取れない。誰を呼ぼうにも一度執務室を出なければならない。
ヴァレンテの執務室は城の中でも人気のない場所に位置していた。
誰かが都合よく通りがかってくれるという期待はもてそうにない。そうなると選択肢は限られる。
「仕方ない。人目を避けてゼクス様の執務室まで行きますか」
ここからゼクスの執務室はそう遠くない。人と遭遇せずに辿り着きさえすれば、後はなんとかなるだろう。
ヴァレンテは決断すると執務室の扉を開けた。不安げな表情をしている女性を手招きする。
「大丈夫ですから、私の手をとってください」
ヴァレンテは女性をおびえさせないように優しく微笑んだ。
女性が一歩踏み出す。ヴァレンテの手を取ろうと腕を伸ばす。
しかし、女性の手がヴァレンテに触れることはなかった。
「どういうことでしょうかねぇ」
目の前から女性が消え失せた。ヴァレンテは途方にくれたように立ち尽くしていた。




