第114話
遠征二日目。天気はこの上なく快晴だったが、奏は宿から出ると陰鬱な表情で馬車に乗り込んでいた。
昨日の出来事が脳裏をよぎり溜息をついた。
最近どうもスリーに関わると暴走してしまう。スリーを困らせたくないのに制御不能に陥ることがしばしばだった。
いつから肉食女子の仲間入りを果たしてしまったのか。
「カナデは積極的なのね」
シェリルにそう言われても仕方のないことをした自覚はある。
「日本にいた時は、こんなんじゃなかったんだけどね」
大学生の時に告白されて初めて彼氏ができた。
容姿は恰好がいいというわけではなく、普通で穏やかな性格の彼だった。
奏は身体が弱いことを気にせずにいてくれる相手で、相性が良かったのか、付き合いは順調に続いていた。
何もかもが初めてのことで亀より遅い進み方ではあったが、ある日なんとなくいい雰囲気になって、二人の関係は先に進むはずだった。
ところが服を脱がされ、いざという段階になって中断してしまった。
冬の寒い日だった。
裸になった奏は寒さのあまり咳きこんでしまった。
可愛く「コンコン」と咳きこむくらいなら良かったが、吐血でもしそうな勢いで咳きこみ、ぐったりとした奏に、彼は「またにしよう」と言って苦笑していた。
しかし、次の機会は訪れることはなかった。その後、微妙に気を遣われて徐々に会うことがなくなっていった。
そして、彼とはそのまま自然消滅してしまった。
思えばあの時、あばら骨が浮いた身体を見て彼は引き攣った顔をしていた気がする。
それ以来、奏はまともに恋をしたことがない。
だから異世界にきて、こんなに激しい恋をすることになるとは思いもよらなかった。
「カナデは積極的じゃなかったの?」
「どっちかというと受け身だったかな」
誰かを好きになるという情熱が欠けていた。告白されたとはいえ、よく彼氏ができたな、と、今でも不思議なくらいだ。
「最近ちょっとおかしいんだよね」
「そうなの?」
「スリーさんの近くにいるとなんかこう我慢ができなくなるっていうか。こういうのってどういうんだろう……」
スリーが困っている様子を見せても触れたくなる。離れていたくない。ずっとくっついていたい。
恐ろしいほどの欲望が湧き上がってくるのだ。そのうちスリーを襲ってしまいそうだった。
「欲求が満たされてない状態かしら?」
「欲求……。え? 欲求不満ってこと!?」
まさかの欲求不満を指摘されて、奏はガーンと頭を殴られたようなショックを受けた。
「好きな人に触れたいと思うのは、当然のことだと思うわ」
「でも、噛り付くってあり得なくない? やっておいてなんだけど……」
「彼のことが食べたいくらい好きなのね」
シェリルが冗談めかして言う。
奏はいたたまれない気持ちになった。それはつまり肉体的な意味で欲求不満ということだ。
「それって、性欲が……」
何となく最後まで言えずに、モニョモニョとしてしまう。この手の話題を誰かとしたことはなかった。
シェリルは平気そうに「食べたい」と口にしているが、経験が豊富そうには見えない。
「カナデは彼を襲ったらいいのよ」
「お、襲うって」
奥手そうなシェリルから過激発言が飛び出した。
奏は動揺して熱くなった頬を押さえる。
「姉が言うには、こういう時は考えるより行動あるのみだって教わったわ」
「お姉さんは大胆だね」
「我慢は良くないと思うのよね」
確かに我慢は良くないとは思うが、襲うのはいかがなものか。
以前スリーに迫って距離を置かれたことがある。本能のままに突き進むのはどう考えても良くはなさそうだ。
「シェリルなら王様を襲う?」
「私はムラムラなんかしていないわ!」
「あー、うん。私はムラムラしているのかぁ」
今の状態を的確に表した言葉に奏は遠い目をした。
二十四年の人生でムラムラした記憶がない。性欲どころか食欲すら失っていた過去を思い出す。
最近はアリアスと食の探求をしていたおかげで、食欲はすでに満たされている。
睡眠については、病弱だったために満たされなかったことはない。むしろ余分に貪っていた。
満たされていない欲求の残りは、最後の一つになるわけだが、何故今頃になってという気持ちが大きい。
セイナディカに来てから元気になった身体は、ようやく人間の三大欲求を思い出して満たそうとしているようだった。
「滝にでも打たれようかな……」
こんな遠征の途中でスリーを襲って、このムラムラを解消するわけにはいかない。そうなると煩悩を我慢するほかない。
手っ取り早く思いつくのは火照った身体を覚ますくらいなものだ。
もしくは欲求など湧きおこらないくらいに身体を痛めつけることだが、遠征序盤で凶悪な害獣と出くわすこともなく、害獣駆除に参加して体力を削るようなことはできそうになかった。
馬車から見える風景はのどかで平和だ。暇を持て余した騎士たちが欠伸を噛み殺している。今日は何事もなく無事に終わりそうだ。
道中で都合よく滝が見つかるわけもなく、奏は悶々としながら、一日中我慢を強いられることとなった。