第105話
シェリルが分類した書類は驚くべき速さで処理されていった。
もはや効率がいいだけでは済まない。これほど短時間で仕事を終えたことは、過去をどれだけ思い返してもありはしなかった。
「シェリルはこういった仕事に手慣れているようだが、どこで覚えた?」
「アルバイトで覚えたわ」
「アルバイト?」
「ええと、こっちでは見習いかしら? 本業とは別に仕事をしてお金をもらっていたの」
「本業は何をしていた?」
「学生よ」
学生とは勉学に励む若者のことらしい。
シェリルが学生ということは、成人して働いている奏より若いのだろう。
奏に比べて小さいシェリルだが、落ち着た雰囲気から年上であると疑ってもいなかった。
「シェリルは成人していないのか?」
「二十歳だから成人しているわ」
「本当にカナデより若いのか」
「ふふ、日本人は若く見られるから羨ましいわ」
民族の違いというわけだ。それにしても今頃年齢を聞くなど、間抜けもいいところだ。
「ゼクスの年齢を知らないわ」
「ああ、二十九歳だ」
「若いのね。もっと年上なのかと思っていたわ」
「それは老けて見えるということか?」
十歳近く離れている。それだけでも対象外にされそうだ。
「落ち着いて見えるのよ。ゼクスは綺麗だから、年齢を重ねても素敵でしょうね」
「綺麗?」
ゼクスは綺麗という言葉に不快感を示した。
機嫌が悪くなったゼクスに、取り繕うようにシェリルが言う。
「ゼクスは綺麗だけど男の人にしか見えないわ」
「綺麗というならシェリルだろう。騎士たちが色めき立っていることを知らないのか」
「知らないわ」
シェリルは鈍いのか、それとも異性が苦手だから目に入っていないのか。どちらとも言えなかった。
「シェリルは騎士たちをどう思う?」
「筋肉かしら」
「それだけか?」
「カナデは素敵だっていうけれど、私には理解できないわ。筋肉がムキムキって嫌なのよ」
シェリルは心底嫌そうな顔をしていた。
ゼクスは思わず吹き出してしまう。
「なによ。ゼクスが聞いたくせに!」
「悪い。俺も騎士とあまり変わらないが気になるか?」
ゼクスは王となる以前は騎士団に所属していた。
王族という垣根はなく充実していた日々だった。今でも鍛錬は欠かせない。
「ゼクスも筋肉なの?」
「そうだ」
昔ほどの筋力はないが、騎士と遜色はないだろう。
シェリルは気づいてなかったらしい。眉を顰められた。
「筋肉はないが文官も苦手だろう。どう違う?」
「男の人は全般に苦手よ。筋肉がムキムキの人は特に。……怖いわ」
「怖い目にあったことがあるのか?」
「しつこく追いかけられたわ」
「なんだと!」
ゼクスは唸った。知らなかったとはいえ、ゼクスも同じことをしている。
「俺のそばにいて恐ろしくないのか?」
「ゼクスは平気よ」
「なぜ?」
それこそ疑問だった。最初の出会いは最悪といっていい。その後に何故そばにいることを許されたのか、見当もつかない。
「……怪我をしていたから」
「なるほど」
罪悪感から気にしていたというわけだ。少しは好意を寄せられているものだと勘違いをしていた。
「シェリル、求婚の返事は必要ない。仕事の手伝いも不要だ。俺のそばにいることはない。リゼットを呼ぶから部屋に戻れ」
「え?」
ゼクスの突然の豹変にシェリルが戸惑っていた。
それを無視した形でゼクスは執務室を出ていく。
しかし、数歩進んだところで、シェリルの悲鳴のような声を聴いて立ち止まる。
「ゼクス! どうして!?」
シェリルが追いかけてくる。
閉ざされていた執務室の扉が粉砕された。破片が勢いよく飛んできて、ゼクスは肝を冷やす。
「泣いているのか?」
シェリルは号泣していた。
ゼクスは出会った時の光景を思い出して戸惑った。あの時のように綺麗な顔が台無しだ。
「わ、私がいつまでも求婚の返事をしないから、嫌いになったの?」
「……違う。シェリル、俺に怪我を負わせた罪悪感でそばにいるのなら、もうその必要はない。怪我は完治している」
「え? 罪悪感? どいうことなの?」
シェリルは意味がわからずきょとんとしている。涙は驚きのあまり引っ込んでしまったようだ。
「怪我をしていたから俺のそばにいたのだろう」
「そうよ」
「それは罪悪感からではないのか?」
「違うわ! あ、罪悪感があったのは最初だけよ。……私は男の人が怖いの。罪悪感だけで、ずっとそばにはいられないわ」
シェリルの過去にはそうとう根深い闇がある。
それを凌駕して、ゼクスの近くに留まる理由は一つしか考えられないのだが、「怪我していたからそばにいた」という言い方には引っ掛かりを感じた。
「怪我をしていなければ、そばにはいなかったのか?」
「あのね、ゼクス。……怒らないで聞いてね」
「あ、ああ……」
シェリルが恐る恐るゼクスを窺ってくる。
どんなことを言われるのか。ゼクスは緊張で声が掠れた。
「ゼクスが怪我をしていて良かったと思ったの」
「は?」
「……だって、怪我をしていれば襲われないじゃない」
「怪我の有無は関係ない。俺は襲ったりはしない」
「え? そうなの?」
シェリルの過去が男に対する認識を捻じ曲げてしまったようだ。
「女性を襲うなどあってはならない。異世界ではどうか知らないが、セイナディカで合意もなく女性を襲えば、死罪は免れない」
セイナディカでは女性を大切にするのは当たり前のことだ。
とくに結婚を意識した相手に対しては、結婚するまで手を出すことはあまり考えられない。
婚前交渉がまったくないというわけではないが、それはあくまでも合意の元での話だ。
一般的には初夜で初めて結ばれることが普通だ。
それは騎士道精神を重んじる騎士に強く表れる傾向があった。
文官についてはわからないが、束ねている宰相がああいう人物だ、規律は絶対に守られているだろう。
「ごめんなさい。侮辱よね」
「……いや。合意があれば怪我をしていても襲う」
男など怪我をしているからと侮れば危険なだけだ。
あの時はシェリルに好意があったわけではないが、好意があれば別だ。変に安心されては困る。
「お、襲うの?」
「あくまでも合意の上での話だ。怯えなくていい」
シェリルの怯えを感じ取った。この手の話は自重しなければならないだろう。
「シェリルが俺に怯えていたことは知っている。罪悪感でそばにいるわけではないとわかったが、俺を引き留める理由を知りたい」
シェリルは「襲う」と言えば、怯えるくらいに男に嫌悪感を持っている。
そんなシェリルが追いかけてきた理由が知りたかった。もう誤解で傷つけるような真似は金輪際御免だ。
「ゼクスが突然わけもわからず離れていくから。私を置いて行かないで。……好きなの」
「筋肉は嫌いではないのか?」
「筋肉は嫌よ。でも、ゼクスが離れていくのはもっと嫌よ」
ゼクスはホッと胸をなでおろした。筋肉が理由で振られては立ち直れない。
「それにしても派手に粉砕したな」
「あ! ごめんなさい」
執務室の扉は跡形もなく粉々になっていた。シェリルは気が動転していて、力加減など全くしていなかった。
「扉はすぐに取り換えられるから問題ない」
シェリルは気に病んでいるようだが、扉を新しくするぐらいはどうということもない。
ただ、しばらくは落ち着かない気分で仕事をすることにはなりそうだ。
「これじゃ、何もできないわ。役立たずよね」
「何を言うかと思えば。シェリルは役に立っているぞ」
役立たずどころか非常に優秀な働き手だ。
だから宰相が手伝いをやらせたがるのだ。シェリルが男嫌いでなかったら、引く手数多だろう。
「シェリルがいなければ、俺の仕事はまだ終わってはいない。そろそろ過労で倒れてもおかしくはないだろうな」
冗談めかして言えば、案の定シェリルは過剰に反応する。
「もう仕事は終わりよね! ゼクスはすぐに眠るのよ!」
「まだいいだろう。部屋でゆっくりしないか?」
いくらなんでも眠るには早すぎる時間だ。夕食は軽く済ませたとはいえ、日はまだ暮れていない。
それにシェリルの気持ちを知った興奮が冷めやらない。すんなり眠ることなどできそうにない。
「夜更かしは許さないわよ」
「シェリルが寝かしつけてくれ」
ゼクスはそっとシェリルを抱き寄せた。耳元で甘く囁けば、シェリルは頬どころか耳まで赤くした。
抵抗できないシェリルの、涙の跡が残る頬にゼクスは口づける。シェリルが息を飲んだが、構わずに唇を這わせる。
シェリルの肌の甘さに酔ったように、ゼクスは繰り返し愛しく思う気持ちをシェリルへ囁く。
シェリルの身体が小さく震える。
「シェリル。愛している」
吐息が唇を掠める至近距離で愛を告げる。
ゼクスは熱に浮かされたように、シェリルの唇を奪おうとしたが、廊下を駆け足で執務室にやってきたユハナとばっちり視線が合い、硬直する。
「あ、ぼ、ぼぼぼ、ぼくは、な、何も見ていません!」
ユハナが全身を赤く染め、くるりと身体を反転させると、全速力で廊下を駆け抜けていった。
ゼクスは唖然としていたが、ユハナのあまりにも素早い動きが滑稽で、笑わずにはいられなくなった。
「くっ、はははは! ユハナは足が速いな!」
「ゼクスがこんなところでキスなんかしょうとするから、ユハナに見られたじゃない!」
シェリルが身をよじってゼクスの腕の中から逃げ出した。
ユハナに見られたことを抗議しているが、顔を赤くして瞳を潤ませていては、迫力など欠片もない。可愛いだけだ。
「いいところで邪魔されたな。続きは今度だ」
ゼクスは逃げようしているシェリルを捕まえて宣言した。