第103話
書類の分類作業に取り掛かっていたシェリルが、手を止めて何かを思案していた。
「どうした?」
「効率が悪いわ。書類を区別して入れられるようなものはない?」
「あ、それなら管理部に分類箱があります。すぐにご用意します」
ユハナが慌てて席を立つ。
ゼクスが「慌てなくていい」と注意を促す前に、部屋から出ていってしまう。
「ユハナは大丈夫か? また何かしでかさないといいが……」
もともとの性格なのかもしれないがユハナは落ち着きがない。
ゼクスは心配そうに見送った。シェリルがクスクスと笑う。
「一生懸命で可愛いわ」
「シェリルとあまり年齢は違わないはずだが」
ユハナの外見は幼く見えるが、文官として働いているなら、少なくとも成人はしているはずだった。
「そうね。でも可愛いわ」
ユハナが聞いたら複雑な気持ちだろう。男が「可愛い」と言われて、嬉しいはずがない。
「ユハナは弟になってくれないかしら」
「弟が欲しいのか?」
「あとは弟だけなのよ」
「あとは?」
「兄と姉、妹はいるの」
これまでシェリルが元の世界を語ることはなかった。
二度と帰ることが叶わないと知ってからは口を閉ざしている。
それゆえにゼクスはシェリルの生い立ちを聞こうとはしなかった。
これから口説こうという相手のことを未だに何も知ることができない。
「多いな」
「毎日毎日、騒がしかったわね。ゼクスにはいないの?」
「義理の兄がいる」
ゼクスには血のつながった兄弟はいなかったが、父親がどこからか兄となる子供を連れてきた。血のつながりはないが、嬉しかったことを覚えている。
「会ってみたいわ」
「そのうちな」
シェリルにはきっと興味をひかれているはずだ。
あえて機会を設けなくとも、そのうち向こうから会いにやってくるだろう。
「ゼクスのそのうちは当てにならないわ」
「それもそうだ」
どうにも捌けない書類仕事をする毎日だ。予定など組もうと思っても組めるはずがない。
シェリルの嫌味をあっさり肯定すると、シェリルが不満そうな顔をする。
「ユハナが戻ったらゼクスは休むのよ!」
書類の分類が済むまで働かせてはくれないようだ。
休める時に休まなければ、シェリルはすぐにへそを曲げてしまう。
そんなシェリルが可愛くて、つい予定以上に働こうとしていたことは、秘密にしておくべきか。
仕事中にも関わらず、シェリルと二人きりになれば、浮かれた思考になってしまう。
ゼクスは自分の変化に驚いていた。まさかこれほど一人の相手にのめり込むとは意外だった。
いずれ結婚はしなければいけないだろうが、恋愛結婚することはないと思っていた。
だからというわけではないが、恋愛に積極的になれずにいた。正直いえばどうでもいい、とさえ思っていた。
「触れてもいいか?」
ゼクスは思わず口走っていた。休むには気持ちが昂り過ぎていた。
シェリルは唐突に感じたかも知れないが、こうでもしないと欲求不満のまま、ろくに休めはしないだろう。
「シェリル、嫌か?」
こういう言い方は卑怯な気もしたが、求婚の返事を保留にしている状態で、無理に迫ることはできない。
シェリルは逡巡したのちに言う。
「嫌よ。ユハナに見られるわ」
「ああ。戻ったのか……」
意識をシェリルに向けていたゼクスは、言われるまでユハナが戻ったことに気づいていなかった。
二人の微妙な空気を感じて、ユハナが所為なげに立っている。
「あ、あの、分類箱をお持ちしまし、した」
何かを言わなければと勢いで口を開いたためにユハナが噛んだ。
さらに、ばたばたと手を動かして慌てるものだから、動きがおかしなことになっていた。
「ふふふ。ユハナは小さい動物みたいね」
「違いない」
なんだか和んでしまった。ゼクスは肩の力が抜けた。
ユハナが持ち込んだ分類箱は赤・青・白・黒・緑の五色に色分けされていた。
「分類箱には色がついているのね。区別がしやすいわ」
ユハナが机に並べていく様子を見てシェリルが言った。
これなら作業がはかどるだろう。
「さあ、始めましょう。ゼクスはソファに横になるのよ!」
「見ていては駄目か?」
休む気になれずにそう言えば、シェリルの目が吊り上がる。
「駄目よ!」
「わかった」
これ以上は聞いてはくれないだろう。
ゼクスは観念してソファに横になった。
人がそばにいる状態で休めるとは思わなかったが、シェリルをこれ以上怒らせることは得策ではない。
目を閉じればじんわりと疲れの波が襲ってくる。冴えた頭では眠れはしないだろうが、形ばかりの休息でシェリルが納得するならそれでいい。
シェリルはゼクスの様子をじっと見ていた。
本当にゼクスが休んだのか疑っているのだろう。しばらく視線を感じた。
(シェリルは心配ばかりだな)
怪我で心配され、無理をして仕事をすれば心配される。
ゼクスが疲れた様子を見せようものなら容赦なくベッドへ直行させられる。いつでも心配そうな視線を感じていた。
ゼクスはそこに不安があるのではないか、と思っていた。
シェリルが、「ゼクスに縋るほかない」と言ったあの言葉を、否定はしたが、あながち間違いではなかったのだろう。
(カナデはあの調子だからな)
以前のようにシェリルを邪険に扱うことはなくなった。
手のひらを返したように、いそいそとシェリルを世話する姿を目撃すれば、わだかまりはなくなり、仲直りしたようで安堵した。
しかし、奏はシェリルを必要以上に近くに置いてはいない。
病気については話をしたようだが、深いところまでは踏み込ませていない。
それが悪いというわけではないが、シェリルはそれを敏感に察している。
奏は同じ世界の人間だが、どこかで頼ってはいけない、と感じているのだろう。
奏は異世界に渡ってからずっと警戒心を剥き出しにしていた。簡単には打ち解けられないのだろう。
ゼクスはそのことで、奏に何かを言おうとは思わなかった。いずれは時が解決することだ。
それにシェリルが頼るなら自分以外に認めるつもりはなかった。たとえそれが誰であろうと。
我ながら恐ろしいほどの独占欲だ。それを向けられたシェリルを哀れに思うが、手放すことはできそうにない。
(落ちてこい)
シェリルは今のところ逃げる素振りはない。
ゼクスが暴走する自身を抑えているから、危機感を感じていないだけかも知れないが。
この暴走しそうな恋情をいつまで抑えていられるのか。最近ではまったく自信がなかった。
いずれにしても、そう遠くない未来に求婚の返答を迫ることになりそうだ。
思考の波間にシェリルの落ち着いた声を聞く。
「赤、白、緑、黒。……白、青」
ゼクスはその声を子守歌に、いつしか眠りに落ちていた。