第101話
「油断して、ごめんなさい」
「そうだね」
「迂闊で、ごめんなさい」
「そうだね」
スリーに心から謝るもなしのつぶてだ。
奏は本気で土下座も辞さない覚悟でいるのだが、いかんせん今は馬上で身動きが取れない状態だった。
奏は後ろからスリーに抱えられていた。緊張に身を縮めてガチガチの奏とは対照的に、カポカポという、ゆるーい馬の蹄の音はこの場の空気には全くそぐわない。
スリーは今朝からろくに眼を合わせてくれない。
一応、言葉をかければ返事をしてくれるが、それもどこかおざなりな気がする。
「怒っているよね?」
「いや」
スリーはすぐに否定はしてくれたが空気は重い。それ以上何を言うでもなく黙っている。
(いったいどうしたらいいの)
このぎこちなさは昨日のことで尾を引いている証拠で、スリーとはずっとこんな調子なのだ。
昨日はあれからアリアスに抱かれて部屋まで帰る羽目になってしまった。
どんなに暴れようがアリアスから逃れることができず、半ば無理やりだったのだが、後ろからついてくるスリーの視線が、ビシバシと突き刺さってきて居たたまれなかった。
あまりの酷い仕打ちにアリアスを睨めば、何故かご機嫌になったアリアスが「護衛とは上手くいってないんだな」と言われて、唖然となった。そこからは記憶が少し飛んだような気がする。
スリーと上手くいっていない、とは思っていなかった。
少し距離を置かれているような気はしたが、大袈裟にする程のことはなかった。
それがアリアスから見れば上手くいっていないように見えるという。
奏はそれがとてもショックだった。
今日は朝からアリアスはカレーの仕込みにかかっている。
昨日の夕方の時点で中庭では料理人達が準備に追われるように忙しくしている姿があった。
アリアスから言いつけられたのだろう。様々な料理道具が持ち込まれていた。
当然、奏もアリアスに手伝いをさせられると思っていたのだが、それは全くの杞憂に終わった。
アリアスは帰り際、頑張って働いた奏を労うと「明日は手伝わなくていい」と言った。
拍子抜けでポカンとしていると、「明日は動けないと思うぞ」と言って、頭を乱暴に撫でてきた。終始ご機嫌なアリアスに不気味なものを感じた。
そういうことで、今日はゆっくりと過ごすことになったはずなのだが、気がつけばスリーに連れられて乗馬をする状況になっていた。
どうやら最初から予定されていることだったらしい。
聞けば二日後の遠征は、ほとんど馬車で移動するようだが、途中からは馬で移動するという。
そのために多少なりとも慣れたほうがいいということのようだった。
「乗馬を教えて欲しい」と言えば、「危険だから」とあっさりと却下されてしまった。少し不貞腐れた気分になる。
それでも初めての乗馬はそれほど悪いものではない。
アリアスの予告通り酷い筋肉痛に陥った奏は、動くたびに顔を顰めていたが、ゆっくりとし た馬の歩みは筋肉痛に優しかった。
背後にスリーが張り付いてさえいなければ、快適な散歩を楽しめたはずだった。
恋人に触れられている状態で嬉しくないはずはないのに、昨日のアリアスの暴挙ですっかり台無しになってしまった。
何が悲しくて恋人の顔色を伺いながら、乗馬をしなければならないのか。理不尽な状況に苛立ちが募る。
それもこれもアリアスが悪い、と八つ当たりしたくても、アリアスは現在とても忙しい。
それにスリーの無言の圧力を前に、アリアスを訪ねる勇気は持てなかった。
奏はすっかり意気消沈していた。
「本当にごめんなさい」
小さく呟いた。返事は期待できないと項垂れていると、スリーが苦笑した声音で言った。
「アリアス様のことは仕方ないと思うしかないね。カナデには怒ってはいないからこっちを向いて」
奏は恐る恐る背後を振り返った。
赤色に染まったスリーの瞳と目が合うと、上から覆いかぶさるように唇を奪われる。
吐息さえ貪るような熱い口付けに奏は喘いだ。しっとりと合わさったスリーの唇に奏は翻弄される。
満足するまで奏の唇を堪能したスリーが離れた時には、すっかり息絶え絶えになっていた。
奏が真っ赤になった熱い頬を押さえて俯くと、スリーの手が頤を掬いあげてもう一度口付けられる。掠めるように触れられた唇が甘く感じる。
「アリアス様の性格では、注意することは難しいかもしれないね。それでも気をつけて欲しい。決して無理はしないで」
アリアスと知り合ってから気づいたことがあった。
アリアスは非常に体力がある上に行動力もある。
それに本気でついていこうとすれば、無理をせざるを得ない状況に陥る。
アリアスに限っては、相手を気遣うことが殆どないので、その辺は自己予防するほかない。それをわかっていてスリーは気をつけるように言うのだろう。
実際にアリアスにこき使われたスリーは珍しく疲れ切っていた。
模擬戦で多くの騎士を相手にしていた時でさえ、息を乱すことのなかったスリーには珍しいことだった。
アリアスを相手にするなら、注意はいくらしても追いつかない、という認識がスリーにはあるようだ。
「本当にアリアスは自由な人だよね」
「そうだね。そういうところに惹かれるのかもしれないね」
「スリーさんは、アリアスが好きなの?」
「尊敬はしているよ」
「どこらへんが……」
百歩譲って料理人としての才能は認めてもいい。
けれど、尊敬の念が芽生えるような性格は決してしていない。
スリーがアリアスのどこに尊敬を感じているのか疑問である。
「アリアス様がゼクス王の義理の兄だということは聞いている?」
「うん。それは知っているけど、詳しい事情は面倒くさいからって教えてくれなかったよ。リゼットに聞けって」
そういえば、バタバタしていてリゼットに聞きそびれていた。
「アリアス様らしいね。俺が知っている限りでは、アリアス様は前王がどこかからいきなり連れてきたと聞いているよ。当時は大騒ぎだったらしいね。ゼクス王は小さかったからすっかり懐いたようだけど、周りはアリアス様に王位を継がせるのではないかと勘ぐって大変だったというよ」
アリアスが面倒くさいと誤魔化すわけだ。
しかし、それをリゼットに丸投げで説明させようというのだから、さして大変だった、と思っていない気がした。
「アリアスが王様じゃなくて良かったよ」
心の底からそう思った。あんな俺様が王だったとしたら、奏は今頃のんきに乗馬などしていられなかった。
異世界人ということで、アリアスの興味のままに色々といじくりまわされていたことだろう。
そんな恐ろしい想像をうっかりしてしまい寒気がした。
「元々アリアス様に王位継承権はなかったから、案外すんなりゼクス王が王位を継承したね。けれど、アリアス様を担ごうとする一派がゼクス王を暗殺しようとしてね。まあそれはアリアス様がすべて排除したけれど、なかなかしつこくて苦労したそうだよ。ある時は毒殺未遂まで発展してね。さすがにアリアス様でも対処できなくなってしまった。剣で殺しにくるならアリアス様に敵はいなかったけれど、毒殺となると手も足もでない。何度かそんなことが続いてアリアス様が切れてね。突然料理人になると修行の旅に出てしまったんだよ」
アリアスは随分と思い切ったことをしたものだ。ゼクスを毒殺させないために料理人となって対処しようと考えたのだろうが、すぐに行動を起こすあたりがアリアスらしかった。
「王位継承権がないのにアリアスを王にしようって無理があるよね」
「そうだね。アリアス様は優れていたからね。勘違いする輩がいたんだよ。それもアリアス様が城をでてしまうと随分と静かになったね。ゼクス王の暗殺は一切なくなったよ」
聞けば聞くほどアリアスのカリスマ性の凄さに驚いた。余計な輩まで引っかけてしまうことは、いい迷惑でしかないが。
ゼクスは決して頼りない王ではない。アリアスの奔放さを考えれば、明らかにゼクスが王であるべきだと思う。
それなのに、そう考えない人間がいることが、奏には不思議でならなかった。
いくらカリスマ性があってもアリアスが王とは、笑えない冗談でしかない。
「アリアスは意外だけど、ちゃんとお兄さんしているんだね」
ゼクスのために料理人になってしまったくらいだ。本当にゼクスを想っていなければできないことだ。
「そういうところを尊敬しているんだよ」
すごく納得した。普通はいくら仲が良くても義理の兄弟にそこまでしない。
「前王はゼクス王のためにアリアス様を連れてきたのかも知れないね」
「王様に他の兄弟はいないの?」
「アリアス様だけだよ」
その辺のことはあまり気にしたことがなかった。
親しくなったわりにゼクスのことはあまり知らない。
今さらだが、ゼクスの両親についても聞いたことがなかったと気づく。
「王様っていくつなの?」
「二十九歳だよ」
落ち着きのあるゼクスは年齢がいまいち掴み切れなかった。思っていたよりは若くて驚いた。
「意外と若いね。いつ王位を継いだの?」
「二十五歳の時だよ。前王が戦死されてね。王妃様はゼクス王が小さい頃に病で亡くなったと聞いているよ」
奏は「戦死」と聞いて怖くなった。
今でこそ平和なセイナディカだが、以前は戦争があったことをゼクスから聞いていたからだ。
けれど、聞いているだけで全く実感はなかった。
ゼクスの身内が亡くなっている事実に戦争の恐ろしさを感じずにはいらなかった。
「スリーさんも戦争に行ったよね」
「あれは戦争というよりは小競り合い程度だったから。大きな戦争なんてそうそうないよ」
奏の不安そうな声に「大丈夫だから」と安心させるようにスリーは言う。
けれど、二日後の遠征のことを考えると途端に不安がよぎった。
戦争に行くわけではないけれど、話が通じるかもわからないドラゴンと対峙しなければならない。
戦闘がないとは言い切れない。今まで平静を装っていられたのは、できるだけ考えないようにしていたからだ。
奏は小さく身震いした。考えれば考えるほどドツボに嵌りそうだったが、一度でも考えはじめてしまうともう止められなかった。
(怖い)
よく生贄になるなどと豪語したものだ。怖くても今さら遠征を拒むことはできない。
「カナデ、大丈夫だから。俺がそばにいるから」
奏の不安を感じとったスリーがきつく抱きしめてくる。その力強さにホッとして身体から力が抜けた。
危うくネガティブな思考に憑りつかれて、遠征前に城から逃げ出すところだった。
「スリーさんって安心する」
「そう言われるのはちょっと……」
奏はスリーの体温に包まれてすっかり安心して身を任せていた。
スリーはどことなく不満そうで、思わずクスリと笑えば、後ろから首筋を甘噛みされる。
スリーの暴挙に顔を真っ赤にして抗議するも、さらに首筋を舐められてしまう始末だ。
可愛い媚態を見せる奏にスリーは熱い視線を向けていた。
けれど前を向いている奏が、気づくことはなかった。