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良いお年を

 麻衣の憮然とした顔がそこにあった。言わずとも、その理由はわかる。

 文芸部、部室の奥に据えられている場違いに大きな樽。その上に乗せられた木の蓋と槌何本か。

 更にはテーブルの真ん中には二段重ねの餅が置かれている。

 窓などには紅白の垂れ幕。いや、どこから持ってきたんだよ──と突っ込むのは馬鹿馬鹿しいのでいいとして。いや、よくもないが。

 麻衣はごごごご、と怒りが見える程になっていた。のほほんとその前に立つのはなごみ。この見るからにお正月セットを用意した張本人である。

「清瀬なごみ。この部屋の仕様は何かしら」

「ご覧の通りだよ。お正月さ。いよいよ明日は新年。僕たちが祝わないわけにはいかない」

 きっぱりと言ったらいいのか、ぬけぬけとと言ったらいいのかわからない具合になごみは宣言した。室内の体感温度が氷点下に達するのも厭わずに。

 無論、氷点下に陥れたのは麻衣である。が、なごみは気づいているのかいないのか、お正月セットについての説明をする。

「お正月といえば鏡餅は欠かせないよね。もちろん葉っぱつきの蜜柑を乗せたよ。葉っぱがついてないと鉄板な感じがしないもんね。それとこの樽は鏡割り。一回でいいからやってみたかったんだよねー。憧れない? テレビとかで芸能人とかが樽割るの。みんなでやれるように槌も数用意したんだよー」

「鏡割りってことはあれか。中酒とか」

 割って入った結城にちっちっちっ、となごみが人差し指を振る。何故この氷点下の中、口出しができるのか謎であった。

「そこは僕たちは善良な高校生だもの。羽目を外しちゃ駄目でしょう。中はただの水だよ」

「ちぇ、せめて白ブドウジュースがよ、がっ」

 まず、悪のりした結城に鉄拳制裁が下る。いや、鉄拳ではないか。麻衣が妖精を呼び出してエクスカリバーに変えたプラスチックバットによってだ。

 まあ、結城が麻衣に制裁されるのはデフォルトだ。問題はそこからである。

 ゆらり、と次なる標的を見つけた狼のように鋭い眼光がなごみに向けられる。

「善良な高校生だから、羽目を外しちゃ駄目、ね。その言葉、そっくりそのままあんたに返すわ」

「な、何を言ってるのかな? まいたん」

 麻衣の圧にさすがのなごみも気圧されたようだった。無論、なごみ以外も気圧されている。タオルを振り回したら凍るんじゃないかと思われるほどの極寒に耐えられるものなどそうはいない。

「ねぇ、なごみ。善良な高校生だっていうんなら、一月に何があるかくらい、わかるわよね?」

「ナ、ナンノコトカナー、ゼンゼンワカンナイナー」

 全て片言で、目が思いっきり泳いでいる。確信犯の動きだった。

 そんななごみに麻衣はびしりとエクスカリバーの切っ先を向ける。

「あのね、私たちは高校三年生なのよ? 大輝は就職が決まって、優子は推薦合格してるから忘れてるかもしれないけど、私たちは受験生なの。いい? 一月の半ばにはセンター試験があるの。センター試験は志望校が自分の大学に入れるかどうか篩にかける第一段階なのよ? そんな重要な試験が控えているというのに、鏡割り? あんた、ふざけるのも大概にしなさいよ。正月が来るってことは、二週間後にはセンターなんだからね!」

「勉強の二文字を一時くらい忘れさせてくれませんか?」

「善良な高校生と言ったのはどの口だったかしら?」

「ごめんなさい、真面目にやりますから元旦だけは許して」

 なごみの嘆願に、麻衣はふっと不敵な笑みを浮かべる。

「……言ったわね?」

 一瞬何のことかわからず、目をぱちくりとするなごみ。そんななごみにわかりやすいよう、麻衣は繰り返した。

「元旦だけはって言ったわね?」

「……あ」

 顔を青ざめさせるなごみ。味方はいない。残念ながら、この場の全員が証人である。

 麻衣はものすごくいい笑顔でなごみの襟首をむんずと掴んだ。なごみは既に死んだ目をしている。

 今日の日付は十二月三十一日。世で言うところの大晦日である。元旦は明日、一月一日である。

 つまり、なごみの自由は明日にしかないということ。なごみは自分で自分の首を絞めたことになる。南無三である。

「じゃ、私はこの馬鹿と一緒に受験勉強してくるから。あとはよろしく」

 ずるずると引きずられていくなごみ。それを助ける者はなかった。皆がただただ疑問に思った。明らかになごみは麻衣より体躯がいいのに、どこになごみを引きずる力があるのだろうか。本人の体重という名の質量と摩擦が邪魔をするはずだが、テコの原理を使っているわけでもなし……という馬鹿な話はさておき。

「というか、二日連続でパーティーとか、定禅寺先輩じゃないっすけど、どうかしてると思います」

 礼人が垂れ幕をちょんちょんとつつきながら言う。優子が苦笑した。

「文芸部は何かにかこつけてイベントに乗っかるのが好きだからね、代々」

「代々なんすか」

 エクスカリバーの攻撃から復活した結城も苦笑いする。

「去年も似たような光景になったっけ。麻衣が先輩をたしなめるという」

 先輩の威厳はどこへやらだ。

 そこへ、一昨年もだったわよね、と確認する優子。恐ろしくて思い出せねぇ、と肩を竦める結城。未だ絶対零度から回復しない後輩たちには何故和気藹々と会話ができるのか全くわからない。慣れだろうか。慣れとは恐ろしい。

 結城が頭の後ろで腕を組む。

「ま、高校受験のときも麻衣はあんな感じだったからなあ」

 そこに何故かまことが食いつく。

「そういえば、結城先輩と定禅寺先輩って、幼なじみなんですよね」

 こてんと結城が首を傾げる。

「そうだが、どうした?」

 そこでまことがずいずいと寄ってくるので、結城は圧されて後ろに下がる。

 ばっと顔を上げたまことの目は。

「結城先輩は定禅寺先輩のこと、好きなんですか?」

 とてもきらきらしていた。

 結城が固まる中、礼人とまこと以外の全員が噴き出す。優子に至っては腹を抱えて笑っていた。

 硬直して一言も発しなくなった結城をよそに、優子が告げる。

「そんなの愚問だわ。聞くまでもないに決まってる」

「な、ちょ、俺はまだ何も」

「結城くんはね、まいこのことだーい好きなのよ」

「ちょ、優子」

 結城が咎めるような声を上げるが、優子は一向に気にする様子はない。相手が麻衣だったならこうはいかないだろうが、結城なら話は別だ。

 咲人がぼそっと付け加える。

「しかも片想い」

 ぶふっ、と眞鍋が噴き出す。腹筋が割れそうと悲鳴を上げている。放っておこう。

 代永や華までもが笑っているので結城は味方を探す。先程までぽかんとしていた礼人に目をつけるが、礼人も既に笑っていた。

「結城先輩って、案外初なんですね」

「初で悪いか」

「開き直った」

 そこにまことが超ド級の爆弾を放り込む。

「告白はしないんですか?」

「なっ、ばっ……」

 ふしゅう、と結城の顔から湯気が立つ。普段ならこれはまことのデフォルトなのだが、結城がやるのもなかなか初々しいというか。

 結城が上手く動かない口を懸命に動かして、ぼそぼそと告げる。

「その、こくは、くなんて、できるわけないだろ……あいつは俺を幼なじみとしか見てないだろうし……」

「意気地なしー。何にも思ってないやつに背中託すわけないでしょ? 学園祭のときのこと忘れたの? このヘタレ」

 優子の囃し立てに、結城が激昂する。

「一世一代の大告白だぞ!? 緊張しねぇ方がどうかしてるっつうの」

 赤くなりながらそう語る結城を見て、礼人はふと、昨日の人見を思い出した。

「あなたのことが好き」

 好きという感情──恋愛感情を素直に口に出すのが、どれだけ重いことなのかということに、礼人は思いを馳せた。考えてみれば、優子だって、代永に想いを伝えていない。スサノオと月夜姫の関係もそうだ。神ですら、愛の言葉を口には出さない。

 それだけ重たくて、真っ直ぐなものを向けられて、何も答えられなかった自分は、果たして誠実なのだろうか。

 人見は、返事はわかっていると言った。だからといって、何も応えないのは、不誠実なんじゃないだろうか。

 ──それに。

 鈍い鈍いとこれだけ言われれば、嫌でも気づく。

 礼人はまことをちらと見た。

 俺は自分の気持ちをはっきりさせないといけない。

 新年を迎えるというのは、新しい心持ちを構えるいいきっかけになる。礼人は己に問うた。今日は十二月三十一日。明日になれば新年だ。この一日で、自分の気持ちを決められるだろうか。どうやったら、自分に向けられる好意に応えられるだろうか。わやわや騒ぐ他をよそに、礼人は物思いに耽った。

 そうしているうちに日が暮れ、世が更けていく。聖浄学園は全寮制で消灯時間が決まっているが、大晦日ばかりは生徒の夜更かしは許された。忘れがちだが、今は冬休みなのだ。

 誰もいない部屋で、礼人は一人考え込みながら、除夜の鐘を聞いた。

 そこに一通のメールが届く。咲人からだった。

「礼人、何か悩んでいるみたいだったからメールしてみたんだけど、検討違いだったら、スルーしていいから。僕の憶測を言うよ。




 長谷川さんのことを『まみ』と呼んだその時点で、もう、礼人の心は決まっているんじゃない?」

 その言葉にはっとする頃、百七回目の除夜の鐘が響いた。



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