必要な代償
まことの頭をしばらく撫でていた礼人だが、やがて顔を上げる。
「そろそろ、出ないとな。お前の歌の力でここも閉じる」
「あ、そうだね、って……」
まことは突然襲いかかった浮遊感に目を見開く。なんでもないように、まことを礼人がお姫さまだっこしていた。
木刀を地面に突いて、つらそうだった様子は見られない。
ただただまことは恥ずかしく、顔を赤くしながら、礼人を見る。
「れ、礼人くん? だ、大丈夫なの?」
「何のことだ?」
「あ、いや、その……」
ナチュラルにお姫さまだっこをされている事実に赤面するしかない。
礼人はちらりとまことを見てからぼそりと告げた。
「……別にこれくらい、なんでもないさ」
まことがぼふんと赤くなる。片手で木刀を掴み、ラジカセをまことに預け、礼人は走り出す。出口に向かって。
光射すまことたちが礼人のために開いた出口はすぐそこだった。礼人は疲弊を感じさせない勢いで、そこまで走っていく。
「阿蘇!」
「ひゅう、まこっちゃん」
「礼人!」
外にいた何人かが反応する。一部まことと礼人を茶化す声だったが、礼人はスルーする。
「早く、黄泉路を閉じ──」
そのときだった。
黒いしゅるしゅるとしたものが黄泉路の方から飛び出て、礼人の手足を絡め取る。まことから手が放れるのを見、礼人は咄嗟に咲人に叫んだ。咲人が事態はわからないが、まことをキャッチすると、礼人は黒い靄のようなものに四肢の自由を奪われ、黄泉路に引き戻されようとしていた。
「長谷川さん、大丈夫?」
「はい、それより、礼人くんが……なんで!」
まことが叫ぶと黄泉の奥から突風が吹いてきた。転ばないように耐えるため、場の全員が膝をつく。その間、礼人も靄から逃れようと足掻くが、その息は荒い。まことを抱えて歩いたのも、強がりだったのだろう。体力の限界がきていた。
からん、と礼人の手から木刀が落ちる。
そのとき、風に乗って、低い女性の声がした。
『何を逃げるのです? スサノオ』
礼人がちっ、と舌打ちをする。スサノオの欠片をまだその身に宿すからだろう。正体はすぐにわかった。
「イザナミか……!」
イザナミといえば、黄泉に住まう神だ。スサノオの母とも言える存在である。
『やっと帰ってきたのに、あなたは出ていくのですか? 黄泉を治める神だというのに』
「礼人くんは礼人くんであって、スサノオとは違う!」
まことが叫ぶ。風が更に強くなった。
『黙りなさい、小娘。月夜ごときが私に楯突くんじゃありません』
更に風が強くなる。特にまことへの当たりが強い。まことのところに吹く風は氷の礫を孕み、まことの肌を傷つけていく。
「やめろ!」
礼人が叫ぶ。イザナミは余裕ぶった声で言う。
『では、あなたは黄泉に残りなさい。そうすれば、この風を止めて差し上げましょう』
礼人が顔をしかめる。
ここで礼人が黄泉に戻ってしまえば、礼人は死者となるだろう。まことたちが計画し、ここまで来たことが全て水泡に帰してしまう。
だが、まことたちを傷つけさせるわけにはいかない。
礼人は目を瞑り、集中する。それから、告げた。
「わかった。帰そう」
「礼人くん?」
『素直にそう言えばいいのです。さあ、帰りましょう、スサノオ』
風が止む。
そのタイミングで、礼人はかっと目を見開き、まことを真っ直ぐ射抜いた。
「まみ、ラジカセの再生ボタンを押せ!」
「は、はいっ」
まことが再生の三角マークを押し込む。
そこから流れてきたのは。
『さあ、黄泉帰りの時間だ』
代永が目を見開く。というか、他の全員もそうだった。
それは紛れもなく、縫合タイプの纏の解放詞だった。しかも、代永が持つのと同じ、最強の纏として謳われる「黄泉帰りの纏」の。
黄泉帰りの纏は妖魔を黄泉に帰す纏。その浄化能力は確かだが、もう一つ、知られざる能力があるのを礼人は知っていた。
黄泉帰りということは黄泉路を開くということ。消えかけていた黄泉路が再び開いていく。
『無駄なことを!』
「これがあんたに有効じゃないわけないだろうが、黄泉醜女」
『その名で呼ぶなぁ!』
イザナミが激昂する。無理もない。黄泉醜女は不名誉な名前だ。イザナミは黄泉の食べ物を食べ、黄泉醜女になってしまった。……現世に還れない、妖魔になってしまったのだ。
黄泉醜女は妖怪という捉え方もあるが、イザナミの場合は違う。神とはいえ、現世のものでも高天ヶ原のものでもない、幽霊となり、黄泉の気で変化したものだ。幽霊が変化したものを人間は妖魔と呼ぶ。
妖魔ということは、纏が効く、ということだ。
黄泉帰りの纏の浄化能力により、靄がほどけ、礼人は地面に着地し、真っ直ぐまことたちの方へ戻ろうとする。
が。
……さすがに妖魔化した神、穢御霊はそうは簡単に問屋を卸してはくれないようだ。苦し紛れにも思えるが、靄が蔦のように伸び、礼人の右足に絡みついた。
「くっ……」
黄泉と現世の狭間の黄泉路にあり、しかも相手は穢御霊。黒い蔦は人力ではそう簡単には放してくれそうにはない。
礼人の木刀にはまだ手が届かない。得意の記号解放を使うのは難しい。
が、記号解放は何も木刀が媒体でなくても、棒状の媒体があれば問題はない。
礼人は制服のネクタイピンを取った。
そして唱える。
「攻撃用記号構築、標的を確認、悪鬼を切り裂け、人の造りし刃よ、記号解放!」
電光が礼人の手からネクタイピンに流れ、電装剣が顕現される。
礼人は躊躇うことなく、蔦を切り裂いた。
だが、礼人はそこで力を使い果たしたように立てなくなった。
「ぐっ……立てぇっ!」
礼人は電装剣を自分の足に突き刺す。当然そこからは血が溢れた。だが、麻痺した神経と、礼人の意志が礼人を奮い立たせる。
ゆっくりと、足を引きずりながら、まことたちの方へ向かうが……
『甘いな』
イザナミの不敵な声が響いた。
まことたちに手を伸ばそうとした礼人の手が見えない壁によって、ばちんと弾かれる。
「何故……」
『貴様はスサノオの力を使いすぎた。お前に埋め込まれたスサノオの力はお前の命に直結するもの。お前は無意識に、今の攻撃にスサノオの残り僅かな力を乗せた。……この意味がわからないとは言うまい』
つまり、スサノオの力はスサノオに帰還し、礼人の命は危うい状態。つまり、死者になってもおかしくなっていないということ。
名実共に黄泉人となることを示していない。
イザナミは自分を裏切ったイザナギにこう言った。人間という存在を呪い、毎日千の命を絶つ、と。人間の命を奪い、黄泉人にすることこそがイザナミの本当の狙いである。
ギリギリ、まだスサノオの欠片を残す礼人はまだ黄泉人にはなっていない。
「何故スサノオに執着する?」
『我が子を可愛く思わぬ親がどこにいる?』
そう、生まれたのはイザナギからであったが、イザナギと夫婦関係であったイザナミにとっては、イザナギの子であるスサノオは我が子も同然である。そして、生まれてより母に会いたがったスサノオと今こうして黄泉で暮らすことができるようになった。母もまた、スサノオのことを思っていたのである。親心というのはそう簡単には否定できない。
──相思相愛なのかよくわからない、三角関係の中に放り込まれたような気分だった。
姪である月夜姫に愛され、母であるイザナミに愛され、──スサノオは何を思って過ごしているというのか。
『母上』
スサノオが口にする。
『人間と神は本来交わるべきものではありません』
『それをお前が言うか、スサノオよ』
スサノオは自分の魂の欠片を人間の世界にばらまき、人間を振り回してきた。
だが、スサノオもその中で学ぶことがあった。
『人間の生き死にを神が操作するなど、傲慢甚だしい。特に今の妖魔の蔓延る世界で妖魔に対抗できる逸材を死なせるなど』
スサノオは様々な魂の欠片から得たことで色々学んだ。だからこそ、母にだって、反逆する。
『父を恨む気持ちも呪う気持ちもわかります。だがそれは人間にとっては当の昔で、今の時代にとっては単なる昔話にしか過ぎない』
『だから何だというのです、スサノオ』
緊張感の漂う中、スサノオは堂々と言い放った。
『関係ない者を巻き込むな、ということです』
ふん、とイザナミは鼻で笑う。
『お前を宿している時点でそいつはもう無関係ではいられない』
「……それなら」
そこで黄泉路に踏み込む者があった。それは岸和田だった。
「僕も無関係じゃありませんよね? 女神さま」
「岸和田……?」
岸和田が淡々と告げる。
「僕にもスサノオの魂は宿っています。等価交換といきましょうではありませんか」
「岸和田、お前がそんなことする必要は」
反論する礼人に、岸和田は悲しげに微笑んだ。
「これで今まで僕の成してきた所業はチャラにしてほしいな」
つまり、今度は岸和田が礼人の身代わりになるということだ。
「この力は本来、どの力よりもスサノオの元に帰るべき力です。それと引き換えに、阿蘇くんは返してください」
少しの間を置き、イザナミはよかろう、と告げた。
「ちょっと待って、岸和田くん、誰かが犠牲になるなんて!」
叫ぶまことを岸和田が柔らかな表情で諭す。
「これは、必要な代償なんだよ」
それに、兄さんにも会えるかもしれない、と岸和田は俯き加減に紡いだ。
「そういうことだから、今度こそ、バイバイ」
そうして岸和田が手を振り、黄泉路が閉じていく──
そう思ったとき。
一陣の風のように、その人物は現れ、岸和田を黄泉路から外側に突き飛ばした。
一瞬、誰もが何が起こったのか、わからなかった。
「それなら、僕が逝く」
そう岸和田を押し退けたのは、教師の五十嵐終。
誰が疑問を挟む間もなく、五十嵐は黄泉路の向こうに消え、黄泉路は閉じられた。




