錯綜
まことが泣いて出ていった後の図書室。岸和田と人見が取り残される。
「いいの? 泣いてたけど」
「いいのさ、泣かせたんだから」
気を紛らすように本の適当なページを開く岸和田。何分経ってもページをめくらないのを見て、人見が胡乱げな目で問う。
「読んでるの?」
「当たり前だよ」
「本、逆さまよ?」
岸和田がぎょっとして本を持ち直しかけ、それから止まり、じろりと人見を見上げた。
「人見さんって、そんな茶目っ気のある人だったっけ」
岸和田の手にする本は、元々上下が正常だった。つまり、逆さまではなかったのだ。人見は嘘を吐いたことになる。
しかし、人見はどこ吹く風。というか、いつも通りの無表情であっけらかんという。
「あなたが心ここにあらずだったから」
その言葉を受け、岸和田が苦笑する。
「まあ、現状で冷静でいられるなら、それはもう人間じゃないからね。僕は人間の道を踏み外した覚えはないよ」
「ダウト」
人見にばっさり斬られる岸和田。いっそ清々しいほどの即答である。
そう、岸和田にそのつもりはないかもしれないが、端から見たら、岸和田は一度、大きく人としての道を踏み外している。妖魔を操り、黄泉路を自在に開け、果てには瘴気まで操ることができる。現状に至るまでの全ての元凶、黒幕と言っても間違いない。岸和田もそれを否定のしようがない。兄が黄泉に行き、兄から直々に過ちを指摘された今なら、冷静になって考えることができる。
周りのことが見えていなかった。自分のエゴだけで兄を探していた。兄に会いたいという気持ちは誰にも否定させはしない。だが、やっていいことと悪いことくらいの区別はつけるべきだった。今黄泉にいる礼人はもちろん、一年昏睡した代永、代永の昏睡に心を乱していた優子を始めとして、文芸部のほとんどの面々がこの事態に巻き込まれてきた。その罪を償うにはどうしたらいいかというのも、岸和田に与えられた課題である。
その第一歩が、黄泉に行ってしまった礼人を取り戻すことであるのはわかっていた。完全な免罪符にはなり得ない。けれど、岸和田は岸和田で礼人に言わなければならないことがある。
考え込む岸和田に人見が言う。
「あなたたちは難しく考えすぎなのよ。あなたの兄の話を聞いたけれど、人はどうせ死ぬんだから、いつか会えたはずでしょう」
「僕に死ねと」
「そこまで言ってない。我慢が足りないと言った」
はは、と岸和田が小さく笑う。
「我慢か。確かに足りなかったかもしれない。兄の突然の死という現実を受け入れたくなかった。父母を失って泣く駄々っ子と一緒というわけだ」
身内の死というのは人見には実は縁がない。人見はシングルファザーの家だが。母は人見を産んだ直後に死んだと聞く。岸和田は例に父母を失った駄々っ子と語ったが、人見は自我を持ってから、母が亡いことを告白されたとき、さして衝撃は受けなかったと思う。身内を亡くして悲しいのは、きっとずっと傍にいたのが、突然いなくなったときだろう。岸和田がそれに該当する。
人見は絵を片付けながら、呟くようにして、告白する。
「目の呪いをかけられていたっていうなら、同情しなくもない」
「禍ツ眸のことか」
「知ってたのね」
岸和田は苦虫を噛み潰すような表情になる。
岸和田の兄、一樹は目を合わせた人を死なせてしまうという呪いにかかっていた。そのため、親からは早く死んでしまえばいいと虐待を受け、親戚からも白い目で見られた。一樹への冷遇はひどいものだった。
対して、幼いながらに強い退魔能力を持つ岸和田は重宝された。おそらく、岸和田がいたから兄への冷遇が更にひどくなったのだと岸和田は考えている。考えすぎかもしれないが。
岸和田は幼いながらにこの状況はおかしい、と思っていた。兄への冷遇をどうにかしたいと持てる力、知識の限りを尽くして、兄の目にかかった呪いを解こうとした。あらゆる文献を読み漁ったし、あらゆる呪術に手を出した。中には危険と言われるものもあったが、そんなこと、岸和田には関係なかった。
目の呪いか、と呟いて、岸和田は人見をちらと見る。その目には痛々しくも見える眼帯がかかっている。その隠された片目こそが禍ツ眸と呼ばれる封魔の目である。封魔というと聞こえはいいが、実のところ、それは何千年か前より代々伝わる呪いのようなものだという謂れがある。
現代になって、「妖魔」と名付けられるようになった有象無象であるが、古来より瘴気を纏ったそれらは影ながら人間の敵として認識されていた。
その中で、人間の力では倒しきれないものをこの禍ツ眸に封じるという風習が代々伝わっているのだそうだ。禍ツ眸の中に封じられている妖魔は禍ツ眸の中で浄化されていく。では何故、禍ツ眸は禍ツ眸という禍々しい名前をつけられるのだろうか。
それは禍ツ眸は封じた妖魔の瘴気を吸っているからである。用法を間違えば、目に溜め込まれた瘴気が解放されてしまう。そんな危険な目が禍ツ眸なのである。その眸を引き継いでいかなければならないというのは一種、呪いとも言えよう。
しかも、禍ツ眸は血縁に継がれるのではなく、適合した魂に取り憑く。そういうシステムなのだ。だから誰がその呪いを負うことになるのかなんて、わかりはしない。
「呪い、疲れたりしない?」
岸和田が問うと、人見は淡々と答える。
「慣れた。もう十六年の付き合いよ?」
「それもそうか」
兄もそうやって折り合いをつけられたらよかったのだが……過ぎたるは及ばざるが如しである。
そんな比較的無口な二人の会話がしん、となったところで、図書室の扉が静かに開く。入ってきたのは銀髪が特徴的な教師、五十嵐だった。司書も担当している万能タイプだ。
五十嵐は謎が多く、二人以上に多くを語らないタイプである。そんな五十嵐が人見を見て、少々面食らったような表情をするのは意外であり、新鮮だった。
それから人見をまじまじと見つめてから、ぼそりという。
「まさか、禍ツ眸を持つ者がこっちにいるなんて」
それを聞き取った二人は、同時に思った。
「まるで、禍ツ眸を持っていた人に心当たりがあるみたいですね」
岸和田がそう指摘すると、五十嵐はふい、と目を逸らす。それからぼそぼそと続けた。
「知っていることは否定しない。ただ、そいつは、何百年、何千年とその呪いに苦しんだ。……それが解放されたというのなら、よかったんだと思う。ただ、禍ツ眸そのものがなくなっていないのは……悲しいことだな」
今の一連の台詞で、二人が目を剥いたことがある。
「何百年、何千年って……」
人間は百年生きるのがやっとのはずだ。だが、五十嵐の語りようから察するに、その人物は何百年、何千年と生きたことになる。
謎多き教師の謎が更に深まったような気がする。
そんな謎多き教師はさらりと述べる。
「俺は、黄泉の向こう側から来たからな」
爆弾発言である。二人は信じられない思いで聞いていた。
「黄泉の向こうには違う世界がある。俺はたまたま、そこから来た……いや、それが俺の仲間たちの願いだったから来たんだ」
五十嵐は天井を見上げる。
「それも、もう終わる」
言葉の意図が読めず、きょとんとする岸和田と人見。五十嵐は気にした風もなく、パソコンのキーボードをぱたぱたと叩き始めた。
そんなところに、まことが入ってくる。すたーん、とドアを開け、すたーんと戻ってきたドアにぶつかる。真剣な表情だったはずが、あっという間に痛みをこらえるものになった。
痛みが引いてから、気を取り直してまことは朗らかに宣言した。
「私、練習続けます」
その表情は晴れ晴れとしていて、岸和田は満足げに頷いた。




