愛ってなんですか
泣きじゃくったまことは図書室から出て昇降口に向かった。ローファーを突っ掛け、自然と足を向けたのは、部室棟だった。
文芸部の部室に入っていく。先程放課になったばかりらしい部室にはまだ誰も来ていない。
まことは臆面もなく泣き叫んだ。
「あああああああっ!」
まことの叫びが嗄れてくる頃、部室の扉がばたーんと勢いよく開いた。まことの声に驚いたのだろうか。
「ちょ、まことちゃん、大丈夫?」
そう声をかけてきたのは、麻衣だった。麻衣はいつも気づくと部室にいて、お茶を淹れている。こんなに早くから準備に来ているのだろう。放課の鐘は先程鳴ったばかりだ。
まことは泣きじゃくった状態で、上手く喋れなかった。そんな様子を察してか、麻衣は問い詰めることはしなかった。ただ、優しくまことの震える背中を撫でた。労るように。
まことはひとしきり泣きじゃくると、いつの間にやら、麻衣の腕の中にいて、麻衣にすがっていた。麻衣は文句一つ言わず、ただじっとそこにいた。何も聞かないでいてくれるのが、この人の優しさだということが身に染みて、更に涙が滲んでくるが、ある程度落ち着いたので、まことは眦を拭って、麻衣に礼を言った。
「……ありがとうございます」
「いいえ」
麻衣はまことと目を合わせなかった。合わせたなら、聞きたくなってしまうだろう。まことに何があったのか、まことの身に何が起こったのか。みんなの治癒を担当する身としては、傷を抉るようなことはしたくなかった。
麻衣が言葉もなく、まことの背中をさすっていると、まことが唐突に口を開いた。
「……愛ってなんですか?」
「えっ?」
突拍子もない問いかけに、麻衣は咄嗟に答えられない。まことも、言葉が足りなかったことを自覚したのだろう。すぐに補足した。
「私、岸和田くんに言われたんです。恋愛感情を込めて歌うなって。私、私……」
「そっか」
麻衣はできる限り軽い調子で頷いた。
まことが礼人に想いを寄せているのではないかということは、実は麻衣は知っていた。というか、文芸部の聡いやつなら、みんな悟っていておかしくない。
最初は、学年が同じだから、距離感が近いのかな、と思っていた。だが、父の日や海の日、重陽、彼岸に神無月、学園祭を経て、徐々に明らかになっていく。礼人がどう思っているかはわからないが、二人の距離は着実に縮まっていた。少なくとも、呼び名が「長谷川」から「まみ」に変わった時点で、まことの中で礼人が特別な存在になっているのは察していた。
特別な人に特別な呼び方をされる。チープだが、チープだからこそ、効果があるのだろう。礼人に「まみ」と呼ばれるたび、まことは顔を綻ばせていた。
「恋愛感情を込めて歌うな、ね」
岸和田も強烈なことを言う、と思ったが、岸和田にも岸和田の事情があるのだろう。兄に再会するためにあらゆる罪を犯してきたように。
故に、岸和田の意見を麻衣は一概に否定することはできない。麻衣は常に一歩引いたところから他者を眺めることができるから。
それにしても。
「愛ってなんですか、ねぇ」
「あ、あの、そんなに真剣に考えなくても! 大丈夫なので」
勢いで言ってしまったことを後悔しているのであろうまことがせかせかとした様子で言うが、そういうわけにもいかない。後輩が大きな壁にぶつかって思い悩んでいるのをただただ見過ごせるほど、麻衣は人間できてないわけではないのだ。人生としての先輩というのなら、たかが二年程度だが。
愛。それは自分がぶつかるような問題ではなかったので、深くは考えてこなかった。家庭はごくごく普通で、暴力もなければネグレクトもない。かといって、過剰な親からの愛はなかった。適度な家庭だったんじゃないだろうか。
中学まで普通の学校に通って、人の役に立てるかもしれないから、というごくごく普通の理由でこの学園に入った。
愛のない人生、とは言わないが、愛を語れるほどの人生でないことは確かだ。
「岸和田の意見は置いておくとして、別に高校生なんだから、恋愛の一つや二つはしたって構わないんじゃないかしら」
麻衣は恋愛に口を出そうとは思わない。馬の足に蹴られたくないというのもあるが、他人の恋愛なんて、恋愛している当事者たちの問題であって、自分とは関係のないことだと思っているからだ。
「ただ、恋愛には壁があるという話を聞いたことがあるわ。乗り越えなければならない壁。
一つは出会うこと。一つは想いが通じ合うこと。それから……想い続けることよ」
麻衣は正直に言うと、結城が自分に向けてきている感情の正体には気づいている。それへの答えを見つけかねているのだ。……まあ、結城が告白してこないというのもあるが。
麻衣は結城が嫌いではない。有り体な言い方をすれば、好きだ。だが、それは幼なじみだから友達として好きなのか、恋愛感情で好きなのか、麻衣には断定ができない。だから、藪をつつこうとはしないのだ。
「ただ、歌に関して言うなら」
麻衣は一つの推測を口にした。
「今回は阿蘇を呼び戻すのが目的でしょ? 想いを伝えるのは、阿蘇がこっちに戻ってきてからでもいいんじゃないの」
まことがはっと顔を上げる。
そう、礼人が黄泉から戻ってくれば、時間はいくらでもある。
わざわざ、歌で一気に伝えようとしなくてもいいのだ。まことがしなければならないのは、黄泉にいる礼人に呼び掛ける、ただそれだけなのだ。
想いを伝えることは後でもできる。
岸和田が言いたかったことがなんとなくわかった気がした。
まことの顔つきが変わったのを見、麻衣は立った。いつも通り、お茶を淹れ始める。
「まあ、私は恋愛なんてやったことないから、恋愛経験について聞くなら、優子とかにした方がいいんじゃない? 代永といい感じだし」
「あ、それいいですね」
まことが朗らかに笑う。それを見て、麻衣も微笑んだ。
「やっぱり、まことちゃんは笑っていた方がいいわ」
「えっ」
「阿蘇をそうやって迎えてやんなさい。笑顔で。そしたらあの鈍そうな阿蘇だってイチコロよ」
「なっ」
顔を真っ赤にするまことにからからと笑ってお茶を出す。
「ま、気晴らしに優子をからかってやんなさいな。結構面白い反応するわよ」
「定禅寺先輩って、優子先輩の味方じゃないんですか?」
「ただの友達よ」
そんな噂をすればなんとやら。部室の扉が開いて、優子が入ってきた。
「あら、まことちゃん。練習サボり?」
いきなり意地の悪いことを言われたので、仕返しに、満面の笑みで問いかけた。
「優子先輩、愛ってなんですか」
いきなりの問いかけに、優子はみるみるうちに顔を林檎にするのだった。
その後、部室で色々聞いて回った。
なごみにとっての愛は家族に捧げるもの。結城にとっての愛は大切なものを守るための力。優子にとってはかけがえのないもの。代永にとっては守りたいと思えるもの。咲人にとっては偏屈でもなんでも、結局は真っ直ぐな感情。眞鍋にとっては仲間。華にとっては境界の存在しないもの。
それぞれがそれぞれに答えを持っていて、一つとして決まった形はない。ただ一つ言えるのは、確実に存在するもので、簡単に消えてなくなったりしないこと。
華が首を傾げてまことに問う。
「まことちゃんの愛は一度封じただけで簡単に消えちゃうもの?」
まことは胸を張って答えた。
「いいえ」
何かが吹っ切れた表情で宣言する。
「私は礼人くんが好きです。大好きです。それは何がどうなったって、そう簡単に揺らぐ感情じゃありません」
まことの威風堂々とした宣言に何人かがおお、と色めき立つ声を出した。
少し間を置いて、まことは恥ずかしさに踞りはしたが。言ったことは確かだ。
いつかこの想いを礼人に伝えようと思う。ただ、それは礼人を黄泉から救い出してからだ、と決意を新たにするのだった。




