十年前の真実
「ここが黄泉路っすね。どこに繋がってるかわかんないっすけど」
『月夜姫の気配がする。お前の傍にいたやつの気配だ』
黄泉路でそんな言葉が交わされる。礼人とスサノオだ。
その様子を興味深そうに見ているのは長いツインテールを揺らす華。
「月夜姫っていうと……まみか」
「え? 真実さん生きてるの?」
「あ、いえ、そうじゃなくて」
ややこしい。真実というのは礼人の母、河南真実のことだ。蜩姉妹とは水島姉弟の次くらいに親しく付き合わせてもらっている。当然、華は礼人の母のことを知っている。妖魔討伐のときに行方不明になったことも。
だが、親を呼び捨てにする子どもがあっていいものなのかは疑問だが。これくらいの年頃の男子は母に冷たいという説がある。しかし、礼人はそれに当てはまらないはずだが。
礼人がまみと呼んだのはもちろん母ではない。
「長谷川まことって、俺の同級生に万能タイプで歌唱が得意な月夜姫を召喚できるやつがいるんです。真実って書いてまことって読むのを俺が一回まみって読み間違えて以来、まみって呼んでるんすよ」
「へぇ、仲いいね。もしかして、これ?」
小指を立てる華に何言ってるんすか、と半眼になる礼人。
「ただの同級生っすよ。部活が同じです」
「文芸部?」
「文芸部ですね。中学は聖浄じゃなかったっぽいっすけど」
「ふぅん」
珍しい子もいるもんね、と華が言ったが、ツクヨミを宿しておいてよく言うと思う。
「外にまみがいるんなら、聖浄って考えて間違いないでしょう」
「わりと信用してるのね、スサノオのこと」
「まあ、こいつ以外指標になるやつがいないんで」
神同士の気配など礼人にはわからない。穢御霊だったらまた話は別なのだが、相手は普通の神だ。「普通」と称するには多大なる語弊があるが、それにいちいち突っ込んではいられない。
場所が特定できたなら、あとは華を送り出すだけである。
ここで華が首を傾げた。
「あれ? でも礼人くんは帰らないの?」
礼人は肩を竦めてあっさり答える。
「黄泉路を閉じるやつが必要でしょう? それに俺には妖魔が寄ってきますから、俺が出たら妖魔も一緒に出ちゃいますよ」
ううむ、と華が唸るが上手い方法が思いつかなかったらしい。仕方なさそうに肩を落として、ひらひらと手を振った。
「じゃあ、私は行くよ。礼人くんが高校生になったっていうくらいだから、零ねぇのことも随分待たせてるだろうし」
ただし、と指を一本立てる。
「ちゃんと帰ってくること! 外に待たせている人がいるのを忘れちゃいけないよ?」
「俺は別に誰も待たせてなんか」
「何言ってるの」
ぷくっと頬を膨らませ、華は言う。
「さっき言ってたまことちゃんを始め、零ねぇや水島姉弟、文芸部のみんな、それに私だって待ってるんだからね? 忘れたらでこぴんするから」
と、言った傍からでこぴんする華。いて、と声をこぼす礼人。華をじとっとした目で見た。
「なんで今でこぴんするんですか?」
「今ちょっと外のみんなのこと忘れてたから」
「む」
返す言葉もない。確かに待ってくれている仲間がいることを忘れていた。
「まあ、この痛みを覚えておいて、ちゃんと黄泉から帰ってらっしゃい。みんなと待ってるから。じゃあね」
黄泉路を去っていく華の後ろ姿は、外からの日の光の向こうに徐々に溶けて消えていった。
「ということがあったの」
黄泉路から戻ってきた華は文芸部の部室で黄泉で礼人に会ったことを語って聞かせた。一通り話し終えると、苦味を帯びた表情を浮かべる。
眼下の人物に向かって一言。
「零ねぇ、そろそろ放して」
「いやだ」
「三十路女がシスコンって恥ずかしくないの?」
「妹が可愛くて何が悪いの?」
姉妹の言葉の応酬に、見ていた一同は苦笑いしか浮かばない。
咲人がひっそりと呟く。
「文芸部って、随分昔から曲者揃いだったんだね……」
「そうみたいね」
これにはさすがに優子も同意した。零に妹がいることを水島姉弟は知っていたが、まさか零が妹を溺愛するシスターコンプレックスだとはこれっぽっちも予想していなかった。彼らが零を知る頃には既に華は行方不明になっていたのだ。
なごみはさすが文芸部の現部長なだけあって落ち着いている。結城は麻衣に目潰しされている。
代永が首を傾げた。
「華さんって零先生とそんなに年違わないんですよね。なんで僕らと同い年くらいに見えるんですか?」
もっともな疑問だ。華は聖浄学園高等部の制服姿だ。普通に考えて、礼人が小学生から高校生になるまでの間ずっと黄泉の中にいたのだから軽く十年くらいは経っているはずなのだが、制服姿に違和感がない。零とは年の離れた姉妹に見える。
すると、華も首を傾げた。
「それが私も不思議なんだよねー。黄泉に入ってから時間の感覚っていうのがなくってさ。確かに長いこと黄泉の中を歩いてたような気もするんだけど、十年っていうほどの実感はないかなぁ」
姉を冷静に引き剥がしながら華が告げる。剥がされた姉は微妙に虚しそうな表情をしていたが、いつも通りの表情で妹の言葉を引き継いだ。
「黄泉は死者の逝く場所。死者の時間は進みはしないわ。こないだ号外に載っていた幽霊がそうだったように。
もしかしたら、黄泉には時間という概念が存在しないのかもしれない」
「まあ、そう考えるのが妥当だな」
西村が肩を竦めた。
「それで、礼人くんのことはどうするつもりなの?」
華は迷うことなく、まことに問いかけた。まことは少しの動揺の後、考えていた案を告げる。
「岸和田くんにスサノオの力を使って、黄泉路を開けてもらおうと思っていました」
岸和田も文芸部室の中にいた。相変わらず雫に付き添われて、沈んだ表情をしている。
華はスサノオの名を聞いて驚いた。
「ええ!? スサノオって二人いるの?」
「ああと」
まことは微笑して説明する。
「礼人くんのスサノオも岸和田くんのスサノオも、魂の欠片に過ぎません。持っている性質は違うんです」
「なるほど?」
首を傾げ、よくわかっていない様子だったが、華はそれ以上は聞かなかった。華は礼人とスサノオから話を聞いて、礼人が黄泉で生者でいられる時間に限界があることを知っていたから、早く話を進めなければいけないことを理解していた。
華から文芸部にもたらされた情報は二つ。礼人が生きて黄泉路の中からスサノオの力を使って黄泉路を閉じようとしていること、黄泉でスサノオの力を使うと、使った分だけスサノオの力が本体であるスサノオに戻り、礼人がスサノオの恩恵を受けられなくなる、ということだった。
この二点から導き出される結論は一つ。早く礼人を黄泉から連れ戻さないと、礼人はスサノオの力を使いきり、死者になってしまうということだった。
華はまことを見た。
「あなたが、長谷川まことさんね?」
いきなり当てられて、まことは目を白黒させる。自己紹介がまだだというのに、何故華がまことを知っているのか。
「礼人くんとスサノオから聞いたわ。あなたは月夜姫を宿せるそうね? 礼人くんは、自分が黄泉路を出ると、強い妖魔がついてくることを気にしていたわ。月夜姫の能力で、どうにかできないかしら?」
まことは表情をきっと引き締める。その答えは当然、決まっていた。
「もちろん、どうにかしてみせます。ただ……」
ちら、と岸和田の方を見る。岸和田は相変わらず、話し合いに参加しようとしない。
そう、この作戦は大前提として、岸和田の参加がないと成立しない。礼人には黄泉路を閉じる力があるわけだが、岸和田には反対に黄泉路を開ける力がある。妖魔をどうにかするなら、まことが月夜姫を召神してもいいし、代永が黄泉帰りの纏で一網打尽にすることもできる。だが、それは黄泉路を開かないことにはどうにもできないのだ。
華はまことの視線を追い、岸和田を見た。俯いたまま、話を聞いているかどうかもわからない岸和田を見、華はつかつかと歩み寄った。
華の意図が汲めず、皆がその一挙手一投足を見守っていた。すると、華は徐に、岸和田の頭を撫でた。
「お久しぶりだね。君はもう覚えてないかもしれないけど、十年前、私が最後に助けたのは、確かに君だったはずだよ」
そこでようやく、弾かれたように岸和田が顔を上げ、まじまじと華を見る。しばらく見つめてから、あ、と声をこぼした。
「礼人くんから事情は聞いた。お兄さんを追って、死のうとしたんだってね。あのときももしかして、そんなことを考えていたのかもしれないね。……でも、お姉さんがせっかく救った命を無駄にはしてほしくないな」
岸和田は思い出したのだろうか。声にならない声で何事かを呟こうとするが、音にならなかった。
華は岸和田の頭を優しく撫でながら諭した。岸和田の眦から、ほろりと光る筋が零れていくのが見て取れた。
華が告げる。
「こうして、命っていうのは繋がっていくんだから、君にも繋いでほしいな」
「っ、ああああああっ」
岸和田は嗚咽した。臆面もなく。




