やるべきこと
「……そんなことがあったんですね」
文芸部の部室。いつもの穏やかなティータイムの中で、礼人はまことにハロウィンの日にあったことを話していた。
今日のティータイムの面々は少なかった。学園祭があるからと延び延びになっていた中間テストの補修のため、眞鍋と結城が顧問の零と西村に連れ去られた。今日は文化の日で祝日だ。学校はやっていない。土日祝日は全寮制のこの学園も、学外に出ていいことになっている。部長のなごみともはやカップルと言っていいだろう優子と代永のコンビは外出中だ。優子がいないため伸び伸びとできる、と咲人が舞い上がった矢先、コンピュータ研究部の雫が咲人を連れ去っていった。
一応言っておくと、聖浄学園の部活動はいつでも転部可能だ。ただし、部活動には絶対所属しなければならない。
ただ、ここ三日、コンピュータ研究部部員の一人は部活動に参加していない。その上、学校も欠席している。その穴埋めか何かに咲人は連れて行かれたのだろう。咲人は創作タイプとしての技能も高いが、記号タイプも使えるのだ。ずっと咲人を狙っていた雫からすれば、優子のいない今は絶好のチャンスに見えたにちがいない。咲人は今頃、コンピュータ研究部のPRを存分に受けていることだろう。
そんなわけで、今日部室にいるのは礼人、まこと、麻衣の三人。まあ、他に人がいても困った。ハロウィンにあったことは不在のコンピュータ研究部部員のことと関わりのある非常にセンシティブな事情なのだ。空気の読めない眞鍋などにいられても困るし、あまり大人数に知られて快いことでもない。
礼人は今回の件に関して言えば、被害者だろう。この学園で妖魔に襲われた誰もが、被害者と呼べるかもしれない。だが、事は数人の間で片付いた。麻衣は事情を知っているから、聞かれても問題ない。
要するに、礼人がまことに話していたのは、岸和田のことだった。ハロウィンに自ら消える道を選んだ兄、一樹と、ずっと探していた兄と再会を喜ぶ暇もなく、消えられてしまった弟一弥の話。
岸和田は、昨年から聖浄学園で異常に発生している妖魔の手引きをしていた。人間でありながら。そうするための能力があったことも驚きだったが、その悪意にしか見えない行動に理由があることを、礼人は知ったのだった。
「まあ、幽霊としてこの世にずっと居残って、妖魔に変化されても、可哀想だからね。成仏することは悪いことじゃないと思うわ」
麻衣がいつも通り紅茶を淹れ、一口啜って告げた。
そう、宗教用語のようだが、岸和田一樹という幽霊は成仏した。礼人はその場に居合わせたのだ。
妖魔は幽霊が黄泉路で穢れを受けて変化したもの、というのが一般的な知識である。だが、中には黄泉路に行かなくとも、妖魔になってしまう幽霊もいる。それが、浮遊霊や地縛霊と呼ばれるものだ。
穢れがあるのは何も黄泉路ばかりではない人の世にも穢れは溢れている。黄泉路が穢れを持つのは、人の世と黄泉を繋ぐ路であるからだ。
一樹という幽霊は軽く聞いた事情から鑑みるに、望まれていた子どもではなく、もしかしたら殺されて幽霊になったのかもしれない。妖魔にならないのが不思議なくらい、穢れを纏っていたから。
その弟の岸和田は、ずっと兄が幽霊になっていると信じて、探してきたのだろう。再会したなら、感動で涙が出るくらいには。幼かったであろう頃の兄弟の死というものは、岸和田一弥にどれほどの衝撃を与えていたのか、想像もつかない。
岸和田は言っていた。兄をずっと探していた、と。やっと会えた、と。
だが、岸和田は一体どうやって兄を探していたのだろうか。一介の高校生にできることは少ない。──力があれば、違うが。
礼人は淡々と事実を述べた。
「人見に聞いた話なんだが、岸和田は『人にあらざるべき力』というのを持っているらしい。詳細はよくわからないようだが、俺のスサノオとは似て非なる力だ、と言っていた。
岸和田とはあれ以来口は聞いていないが、ハロウィン以降、妖魔の出現率は高くないというのは聞いているだろう?」
「そういえば、そうですね」
まことが相槌を打つのを見、礼人は続ける。
「岸和田はまだ何も語ろうとしない。だが、岸和田が引きこもってから妖魔出現率が減ったというのは、どう考えても切り離せない事象に思える。代永に穢御霊が取り憑いたことも、摘発はしていないが、岸和田の手によるものだということを俺は知っている。やはり、俺のスサノオとは違う、妖魔へのアクセス方法が岸和田にはあったのだと考えるのが妥当だ。
けれど、今はそれを使わなくなった。それも、目の前で兄の幽霊が消えてから。……その目的が兄に会うことであったのは、そこから察することができる。兄が妖魔になっているかもしれない、と岸和田なりに推測を立てて行動したのだろう。穢御霊や強い妖魔には強弱の差はあれど、付随して妖魔がついてくる。それを利用したんだ」
「……それだけのために、大勢の人を巻き込んだっていうんですか」
まことの問いに礼人は口をつぐむ。それは今の岸和田に問いかけたって、同じことだろう。
聞いていた麻衣がぽつりと呟く。
「死んだ人に会いたいってのは、昔から誰もが願う、叶わぬ願いよ。
もし、その願いを叶えられるかもしれない力が目の前にあったなら、使ってしまうのも、無理ないわね」
そうなのだ。
礼人だって、父や母に会えるのなら会いたい。家族を早くに亡くして心細い気持ちはわからなくもない。
譬、それがどれだけの人を巻き込むとしても、その願いのためならば、躊躇うことなんてできないのかもしれない。
まことは、ですね、と小さく頷いて、紅茶を飲んだ。
まことにも麻衣にも、失った大切な人はいるのかもしれない。だが、その問いかけを礼人が口にすることはなかった。あまりにも無神経な質問だからだ。
礼人も紅茶に口をつけようとしたそのとき、ずきん、と全身に痛みが走った。ティーカップを取り落としてしまう。まことと麻衣が怪訝な目を向けてくる。
経験したことのない痛みだった。心臓、頭、手、足、とにかく全身が痛い。呻くこともままならないくらい。
ただ、原因はなんとなくわかる。
「よう、ま……?」
「えっ、私は何も感じませんが……」
「そうか……」
妖魔の反応ではない。だとしても、これは礼人の中のスサノオが反応している。スサノオが反応するようなこと……
痛みに判断力の鈍っている頭で考えていると、唐突に部室の扉が開いた。
「スサノオ」
焦りの混じった声で礼人をそう呼ぶのは、美術部の眼帯少女、人見瞳だ。
「その名前で呼ぶな」
礼人の中でスサノオが反応して、痛みが増すのに顔をしかめながら、人見に振り向く。
「それで何があった?」
「魔泉路が開いてる」
「なっ」
この報告には礼人ばかりでなく、まことも麻衣も驚愕した。
だが、驚いてばかりもいられない。礼人はすぐ立ち上がった。
「行こう」
それは、高等部と中等部の境、結界が最も強い場所だった。
「こんなところに魔泉路なんてあるの?」
ついてきた麻衣は疑わしげな表情だ。それもそうだろう。結界が一番強い場所だ。
しかし、魔泉路はただの黄泉路とは違う。
「結界を凌駕するほどの穢れを孕んでいるから魔の路と呼ばれてるんすよ」
「なるほど」
麻衣は苦々しい面持ちで黙った。麻衣が先日、学園祭のときに強力な妖魔に襲われたのも確か、この辺りだった。強い妖魔が生まれるには、二つの条件がある。元々幽霊として強いか、黄泉路の穢れが強いか。このどちらかだ。大抵は黄泉路の穢れが強い。
穢れが強い黄泉路を魔泉路と呼ぶ。近づいてきているのか、礼人の全身が徐々に痛みを増し、麻痺してくる。
少し痺れを帯び始めてきたのをこらえながら、木刀を握り直し、人見と共に礼人はまことと麻衣を先導する。
魔泉路が近いからか、頭の中にスサノオとおぼしき男の声が流れる。
『もう少しだ。そのまま真っ直ぐ』
「わかっている……」
直接頭に響くものだからやっていられない。
だが、肌がびりびりと焼けるように反応している。その先に危険が待つことを知らせているのだ。
麻衣でも感じ取れるほどにその瘴気が濃くなってきた頃に、見えてきた。
そこには制服姿の一人の少年と溢れ出す瘴気。
どす黒く、それでいて形を定めていない光景を背に、少年がこちらに気づいて振り向く。
「……やあ、大勢で一体何の用かな?」
「岸和田、何をしようとしている?」
岸和田は肩を竦めた。
「質問に質問で返すとはナンセンスだね、阿蘇くん」
「それだけの瘴気を纏っていて、疑問に思わない方がおかしいな」
「それもそうだね」
瘴気を変わらず纏わせながら、岸和田は尚も笑う。心無しか、先程よりも纏う瘴気が濃くなっている気がする。
普通、人間が瘴気を纏うと、瘴気に耐えられず、体調を悪くし、最悪死ぬ。死ななくとも、瘴気から妖魔が発生し、妖魔に取り殺される可能性だって、大いにあり得る。
だが、岸和田の表情に一切苦しみはない。
「僕はね、気づいたんだ。兄さんに会いたいなら、兄さんと同じように、死ねばよかったんだ」
「……何を言っている?」
「だから、僕は今、死のうとしているんだよ。瘴気を使ってね」
「何を馬鹿なことを! そうなったら、お前は瞬く間に瘴気に呑まれ、妖魔に」
「妖魔になったら、阿蘇くんがスサノオで還してくれるんでしょ?」
「そういう問題じゃないだろ!!」
礼人が激昂し、瘴気の中から岸和田を引っ張り出す。そして、自らは瘴気の中へ飛び込んだ。
「礼人くん!?」
「阿蘇くん……?」
手を伸ばそうとするまことを、礼人は駄目だ! と制止した。
礼人は瘴気の中で、ある歌を口ずさんだ。
その歌に、まことは目を見開き、立ち尽くした。
「魑魅魍魎が跋扈した跋扈した魔なる黄泉の路よ、閉ざせ」
その擬似歌唱とスサノオの力で、魔泉路は閉じられた。




