崩れ去る夢、残酷な現
どこぉん、どかぁん
病院から聖浄学園は近い。戦闘が開始されたのは病室からも充分に聞こえた。
だがそんなのは耳に入っていないように、優子は呆然としていた。
「ふふふ、くくく……」
目の前で笑う人物が原因だ。礼人がハックするまでもない。代永爽という人物にはとんでもなく強力な穢御霊が憑いたのだ。
「ああ、聞こえるだろう? 破壊と暴虐の音。いつ聞いてもいいものだ。そうは思わないかね? 私の解放者くん」
「てめぇを解放するために暗号解除したんじゃねぇよ」
礼人が一睨み加える。だが、相手は意に介した様子もなく、けたけたと笑う。
礼人は臍を噛んでいた。
暗号が複雑であることに気を取られ、罠が仕込まれている可能性を考えなかった。これは完全に礼人のミスである。
「ははは! 絶望の顔とはいいものだな。小娘。どうだ? 大切にしていたものを奪われた気分は?」
「穢御霊ぁ……!」
優子が憎々しげに顔を上げ、五つの丸くてふよふよしたものを展開する。五大精霊たちだ。
優子の怒りに応じ、赤い精霊──サラマンドラが穢御霊に向かって火を噴く。が。
その火は穢御霊の体に届く前に呆気なく立ち消える。うっすらと見えたのは、透明な結界。
「縫合タイプの技能!? まさか妖魔が扱えるのか」
礼人の驚きに穢御霊がふん、と鼻を鳴らす。
「人間にできることが神であった私にできなくてどうする」
せせら笑う声。その間も優子は精霊を使う。
「風よ、戒めの鎖となれ」
しかし、そこで風に絡め取られた代永の顔から、穢御霊の表情が消える。
代永がゆらゆらと顔を上げ、優子に切なげな目を向ける。
「優子さん……僕にこんなことするんだね……」
それは明らかに穢御霊の奸計であった。代永を想う優子の気持ちを利用したこの上なく卑怯な。
だが、代永の声、代永の表情で放たれたその言葉に、優子は敏感に反応し、自分が代永に成していることに気づき、錯乱する。
「代永くん、違うの、違うの……!」
「酷いや、優子さん」
その一言。たった一言だけで、優子の心をへし折るには充分だった。
代永から風の戒めが消え、五大精霊がその場から消えてなくなる──優子はもう技能を使えない。
「う、ああああああああああああああああああああ!!」
優子の絶叫が響く。穢御霊の策は優子にてきめんに効いた。今優子の頭の中は代永に害を成そうとしていた自分の罪悪感で押し潰されそうになっている。
それを嘲るように穢御霊が言う。
「人間とはなんと脆く単純なものか」
「てめぇ……!」
優子の様子を面白がる穢御霊に、礼人は殺意を向ける。愛用の木刀に、電装を備える。
が、優子にがしりと腕を掴まれた。
「嫌っ、嫌っ、駄目、駄目なの! 代永くんを傷つけないで」
痛切な願いに電装がぶれる。こんなに取り乱した優子など初めて見るものだから、礼人は動揺した。
「優子さん、でも」
だが優子は聞かない。それどころか、精霊を展開して礼人に攻撃してくる始末である。
あの優子が、周りが見えなくなっている。
そのことに礼人は焦りつつ、対応策を考える。代永に憑いている穢御霊、あれをどうにかしなくてはならない。
記号タイプの礼人では、人間に取り憑いた穢御霊をどうにもできない。せいぜいハックで名前がわかるくらいだ。穢御霊の名前はカグツキ。カグツキは神だったときの名前だろう。
神、と考え、礼人が一つ閃く。
「禍ツ姫! いるか!」
ゆらりと風が動く。
「小童が妾を呼び捨てとはいい度胸だな」
姿は見えないが、いるらしい。妖艶さを孕んだ女性の声が返ってくる。
禍ツ姫は元々代永と契約していた神だ。
「代永との契約を戻せないか?」
「戯け、お主が契約を勝手に解除したせいで弾かれとるわ」
どうやら、先程の暗号には禍ツ姫を弾くほどの力があるらしい。正確に言うと、禍ツ姫の代わりに穢御霊のカグツキが契約したことで契約ができなくなっているようだ。神ともなると憑くのには相応の容量が必要で、カグツキは穢御霊として力を得たことで、代永のキャパシティをだいぶ乗っ取っているらしい。禍ツ姫が介入する隙がない。
「穢御霊を強制浄化みたいなのはできないのか」
「阿呆。代永と契約状態の穢御霊を強制浄化なぞしたら代永が無事で済まんわ」
それもそうか。
代永まで黄泉の住人になられては困るのだ。
「有効な策があるとすれば、祓えの力のある者が代永の中の穢御霊を祓うくらいだろう。月夜を降ろせるくらいの術者なら可能だろうて」
「ちょ、月夜姫って、月の最高神で、祓えの最上級神じゃないか!」
そんな逸材がいたら学校で騒ぎが……
そう思った瞬間、礼人の脳裏に一人の人物が閃く。
長谷川まこと。万能タイプだが得意技能は歌唱。合唱部の者たちに引けを取らない実力を秘めているという──
あいつなら、と思うが、まことをこちらに呼び出すことはできないだろう。カグツキが言い放った攻撃開始の号令が学園に突入するものだったとしたなら、万能タイプのまことは今、学校で引っ張りだこのはずだ。
万事休すか、と思ったそのとき。
「魑魅魍魎を叱咤する叱咤する蒼い月夜姫よ、おわせ」
浄歌の二番の歌詞がはっきりと流れてきた。
浄歌は三番まである。歌唱タイプの最高峰と謳われた河南真実が作詞したものだ。一番は単純な妖魔の浄化。二番は──月夜姫の召神のための歌だ。
学園の方角から、蒼い光が広がる。
「まさか、本当に……」
月夜姫は禍ツ姫の妹で、退魔の力を強く持つ神である。去年、禍ツ姫が大量の妖魔を強制浄化したというのなら、その妹である月夜姫に同じことができてもおかしくはない。
礼人の中で疼いていた鈍い痛みが、す、と消えていく。同時、禍ツ姫が不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「我が妹ながら、生意気なものだ」
どうやら、月夜姫の召神に成功し、たくさんの妖魔が黄泉に帰った。偏屈な禍ツ姫はそれが気に入らないようだが。
一斉に妖魔の消えた気配に、カグツキが驚嘆する。
「まさか、人間が月夜姫を召喚するなど……」
「あり得ますよ」
気がつくと、窓からまことが入ってきた。その体がふわりと浮かんでいるのは、月夜姫の力だろうか。
まことの瞳の色が蒼く変わる。それはまるで、蒼い月のような色だった。
「カグツキ、とうとうそこまで堕ちてしまいましたか。非常に残念です」
「何をっ、たかが月の姫が!」
カグツキが叫ぶと、操られているかのように優子の体がぐんと動き、五つの精霊を展開してまことに襲いかかる。
が、まことに攻撃は当たらない。縫合タイプの結界で弾いたからだ。
カグツキが唖然とする。
「馬鹿な……月夜を降ろすような人間など、歌唱に長けた者しかないはず……」
「神様だけの物差しで考えられても困ります。人間だって、日々進化しているんです」
そう語ったのは月夜姫をその身に宿したまこと。確かに彼女は月夜姫を降ろせるほどの歌唱の力を持つが、万能タイプだ。
「さあ、カグツキ、あなたも還りなさい」
月夜姫とまことが合唱する。
「魑魅魍魎が跋扈する跋扈する蒼い月の夜よ、去れよ」
「う、ぐあああああああっ」
代永から剥がされ、浄化されるカグツキ。一瞬見えた姿には鬼のような角が生えていた。
代永から離れてしまえばこちらのものだ。礼人が木刀を構える。
「攻撃用記号構築、標的を確認、悪鬼を切り裂け、人の造りし刃よ、記号解放!」
カグツキに礼人が止めの一撃を与え、カグツキは塵も残さず浄化された。同時、カグツキに憑かれていた代永と、操られていた優子の体が崩れるのを、礼人が慌てて受け止めた。
代永の方はすぐに禍ツ姫が契約をし直したらしく、すぐ立ち上がる。
「はあ、今年は無茶苦茶な輩が入ってきたようだな」
代永に入った禍ツ姫が礼人とまことを見て呆れる。
「姉様……」
「月夜、妾は月に帰る気なぞない。諦めよ」
「やっぱりですか」
「まあ、無茶苦茶はあったが、妾はこの通り代永との契約を取り戻した。お前と共に戦うこともあろうて」
禍ツ姫の一言に月夜姫は微笑むと、月に帰っていった。
あっという間な滅茶苦茶な悲劇はここで幕引きを迎えたのだった。
海の日編終わり
間に合った……