罠
暗号をコピーし、持ち帰り、礼人はあらんかぎりの知識を尽くして暗号解きに集中した。
海の日まで時間がない。また妖魔が大量発生したなら、まだまだタイプ技能初心者の多い聖浄学園は大変なことになる。
それを見てみたいと思う自分を律しながら、礼人は暗号解読に励んでいた。何故見てみたいかというと、聖浄学園には魔泉路が開いている可能性があるからだ。
父の残したテープや資料などから推測するに、聖浄学園には黄泉路が穢れ、更に妖魔を狂暴化させるという魔泉路が開いていると考えられるのだ。春からこっちの妖魔出現頻度や、出現する妖魔の強さなどを見るに、神社や寺、墓地などで見かける妖魔など、可愛いもののように思えてくる。(ただし優加に連れ出されたときは除く)
とにかく、聖浄学園に現れる妖魔は強くて出現頻度が高いのだ。大抵優子、まこと、礼人のいずれかが一撃で倒してしまうため、学園側ではそういう認識が薄いようだが。
礼人の父、明人はこの学園に通っていた時代から黄泉路から出てくる妖魔とは違う何かを覚えていたらしく、学園の各所をハックで調べ回っていたらしい。それには真実や優加も連れ立っていたこともあったらしいが、タイプ技能の違う二人には明人が何をやっているかすらわからなかったらしい。
それに、この暗号が記号タイプの技能により代永に埋め込まれたというのが気がかりだ。つまり、人間が妖魔側に立っているということになる。どういう目的かはわからないが、味方でないことは確かだ。
それにもし、そいつが妖魔と結託しているならば、代永が眠っているうちにより強力な妖魔で聖浄学園を襲わせるかもしれない。妖魔は強ければ強いほど、人間に近い知能を持つようになり、意思疎通も可能なのだ。意思疎通といっても、交渉して、妖魔の猛威を止めることはほぼ不可能に近いが。
逆に、人間側を裏切り、妖魔側に降って、妖魔をけしかけているのだとしたら、言葉で意思疎通を取れることは大変な武器になる。
しかも意思疎通が取れるほどの妖魔は強いときた。……代永をこのまま眠らせておいたなら、どうなることか。──想像したくもない。
優子やまことという心強い味方はいるが来る妖魔が一匹二匹とは限らないのだ。もし、代永が倒れた状態で聖浄学園を陥落させる場合、礼人なら、数でごり押す。優子やまことといった極端に強い技能者は少ない。それに生徒の三分の一はまだタイプ技能に慣れていない一年生だ。全員が全員、タイプ技能を習得できるわけではなく、タイプ技能適正のない場合は運動タイプ、と呼ばれ、縫合タイプより付与された纏を使って戦うことになるのだが、運動タイプは大体部活動に集中しているため、本格的な妖魔討伐の戦闘要員として数えられるかは微妙なところだ。
となると代永──もとい、代永と契約した黄泉の最高神、禍ツ姫の力は必要となるだろう。何しろ妖魔を黄泉へ一斉強制送還するほどの力の持ち主だ。味方にして損はない。
となると、やはり契約者である代永自身に目覚めてもらう必要がある。ハックした情報から、代永が目覚めていないために禍ツ姫は力を行使できていないようだから、彼らは同調体となっているのだろう。
それは置いておくとして……
礼人は眉間にしわを寄せていた。
暗号が複雑で難しいのだ。一言で表すなら暗号マトリョーシカとでも言おうか。一つ暗号を解くとまた別な暗号が現れて、それを解いたらまた別な暗号が、という繰り返しである。不毛にも思えるくらいの暗号の解読法を記号タイプの技能の一つ「記録」で記録していく。今解いている暗号はあくまでコピーだ。この暗号が全て解けたところで、本物の方が解けなければ意味がない。あまりにも複雑なので、解読法を記録して、本物の解読に流用するつもりにしていた。
それにしたって長い、と更けつつある夜の中で、礼人が黙々と作業を続けているとふわりと独特な香りがした。ふと見ると、湯気の立つ珈琲が目の前に差し出されていた。
「生憎とアイスコーヒー用のインスタントじゃなかったんだ。夏だけど、勘弁してね」
そう言って紙コップを机に置いたのは、礼人のルームメイトの岸和田である。同じ一年生で同じ記号タイプと共通点の多い二人だったが、クラスは違うし、部活も違うし、ということで、同じ部屋で寝て過ごすくらいの関係に過ぎなかった。そのため、こうして礼人が岸和田と言葉を交わすのは初めてのような気がした。朝起きておはようくらいは言っていたが。
礼人は一旦手を止める。そういえばこういう交流を絶っていた気がする。時には息抜きも大事だ、というのは優子によく言われていたことだ。それに珈琲を出して話しかけてきたルームメイトに礼人は僅かながら興味を抱いた。これまで会話をする暇なんてなく、気がつくとどちらかが先に寝ていて、先に寝るのが岸和田、というパターンが多かったからだ。こうして夜更かしをする岸和田が物珍しく感じた。
「おう、ありがと」
熱い珈琲を啜る。暑い夏に熱いものを飲むというのも乙なものだ、と礼人はぼんやり思った。例えるなら、冬にこたつに入ってアイスクリームを食べるようなものだろう。その行為の倒錯感が感覚を狂わせているのかもしれないが。
「お前が遅くまで起きてるなんて珍しいな。えと、岸和田……くん」
「ははは、無理にくんとかさんとかつけなくていいよ。そういうの性格じゃないでしょ、阿蘇くん」
「まあ、そうだな……」
あまり言葉を交わしたことはないが、何故か性格は把握されている。まあ、記号タイプは技能にハックという情報収集能力があるため、観察眼やら洞察力やらが優れている傾向があるという。岸和田がそうでもおかしくはない。
岸和田はけらけら笑いながら、同じくインスタントの珈琲を啜っていた。
「阿蘇くんは夜更かしして暗号解読? 熱心だね」
「時間がないからな」
「何、宿題とか?」
「まあ、そんなところだ」
くつくつと岸和田が笑う。
「意外。阿蘇くんって結構宿題とかさっさと終わらす堅実タイプだと思ってた」
「ただの宿題ならさっさと終わらせるさ。ただこの暗号が複雑怪奇で難しいだけだ」
「ふぅん。まあでも夜更かしってあんまり体によくないらしいからね。早く寝なよ」
「そういうお前こそ、なんで起きてんだよ?」
すると、相変わらず笑顔でのほほんとした様子で岸和田が続ける。
「いやぁ、楽しみなことがあって、眠れないんだよ」
「遠足前の子どもか」
「あはは、そうかも」
それから岸和田はぐびぐび珈琲を飲みきると、礼人にひらひらと手を振った。
「まあ、頑張って解いてね。確か永瀬部長曰く、阿蘇くんは記号タイプのホープなんだから」
「余計なお世話だ。言われなくても解く」
珈琲をちびりちびりと飲みつつ、礼人は暗号を解く。すると、かちり、と音が鳴った。
電子の女声が事務的に言う。
「暗号の解除に成功しました」
暗号の解除に成功した礼人は、優子と一緒に代永の元へ行き、暗号を解除した。
かちり、と最後の暗号が外れると、暗号の解除に成功しました、という女声の後、こう続いた。
「暗号解除に伴い、罠発動。契約神を封印し、擬似契約神として穢御霊が登録されました。穢御霊より、黄泉路の妖魔たちへ指令──」
嫌な予感しかしない女性アナウンスに、礼人も優子も固まっていた。
そんな二人の前で一年振りにその瞼を上げた代永爽が妖艶に笑う。
「各自、侵攻を開始せよ──」
災厄の海の日が、始まる。