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異説戦記-ヒノワ伝-  作者: ロウシ
第1章:崩壊
2/27

第2話:悲しくて泣きそうな夜

 ※作中での距離及び時間の単位 

  ・1km=1ガロン 1m=1メル

  ・1時間=1ヴォン 1分=1フォン 1秒=1ミル

 その他単位については必要に応じて随時更新します。(まぁ忘れてるかもしれませんけど)


零.



 ヒノワ・ウェンチェスター──(以降ヒノワと表記する)は、エルフリュレ王国の姫である。


 アースヴァルド大陸において、エルフは生来完璧な生き物と称されていた。

 整った顔立ちに、長い黄金色の髪。

 すらりと伸びた手足は、その指先までもが磨き抜かれた宝石のごとく美しい。

 いっぺんたりとも無駄のない造形は、種族を問わず美の象徴であった。


 エルフリュレは深い森の中にあった。

 旅の者を迷わせる魔性の森である。

 エルフは森を育む力があるらしく、彼らの住まう土地は、彼らが住まうことで魔力に満たされていく。

 そのため、たとえ枯れた土地であったとしても、瞬く間に荘厳な緑に覆われるのだと言われている。

 この点において、エルフは豊穣を司るとも、大地に愛されているとも言われた。

 冗談半分にではあるが、『大地とまぐわった一族』とも謳われていた。


 大変長命であり、それでいてある一定の成長を終えると『老い』というものがなくなる。

 これは彼らの身に秘めた魔力がそうさせているともいわれているが、大陸に根付く、今は名もない原始的な信仰からいえば、『老い』は醜さの象徴であるという考えから、美しさを保ち続けるエルフには敵うはずもなく、彼らの肉体が全盛期を迎えると同時に身体から追い出されてしまうのだという。


 完璧な生命体。


 生まれながらにして尋常の膂力を蓄えない欠点さえも、『完璧なる彼らに野蛮なる力は不要であるから』と唱えるものさえいるのだ。

 生殖能力の低さでさえも、『際立った美は限られるべき』と、神があえてそう定めたのだと、多くのものから解釈されていた。


 ヒノワはエルフの姫である。

 代々王族たるものは、隔絶した美と魔力を備えているものだが、ヒノワは一際強い魔力を持って生まれた。

 幼い頃──まだ魔力を理解すらしていない頃、手をかざすだけで蕾を花開くまで成長させ、枯れさせるほどであった。

 それを見て、ヒノワは無邪気に笑っていた。


 そして、エルフとは思えないほどお転婆であった。


 幼少期には城の中を駆け回り、庭の木々に素手で登り、水溜りや泥の中で転げ回って遊んでいた。

 一度木の天辺まで登ると、空を見ては雲に手を伸ばし、飛び上がって落っこちていた。

 心配と不安で心臓が破裂する思いを抱え、侍女たちが駆け寄ると、「空を飛びたかったけど、失敗してしもうた!」と、どろんこの顔で、屈託のない笑顔を浮かべ、喜びをいっぱいに転がしてしまう。

 すると、もう、たまらなくなった侍女たちは、だいたいのことを許してしまう。


 一方で、ヒノワに学問を教えた『森の賢者』はその聡明さに驚いたという。

 ヒノワはひとつものを教えると、そこから連想して、いくつもの事象を導き出した。

 果物の存在を教えると、それが成る木々の存在を言い当てた。 

 木々を知ると、それが土と水と空気を栄養としていることまで独力でたどり着いた。

 文字を読むことにはすぐ飽きてしまうのだったが、賢者の語るエルフの歴史や勇者の物語、神々の御伽噺には強い興味を持っていた。


 一〇〇年が経つ頃には、ヒノワはエルフリュレで学べるおおよその事をおさめていた。

 賢者が教えられることが無くなった。

 まだ幼いヒノワは既に、エルフリュレから学ぶことが無くなったのだ。


 一〇一年目、ヒノワはエルフリュレの外へ行く事を強く望んだ。

 しかし、王も王妃も、賢者も。

 民草さえも、それを引き止めた。

 あるいは笑い話にした。


 諭されるたびに、笑われるたびに、ヒノワは余計に意地になって外に出たがった。

 脱走しては捕まり、ついには部屋の前に警備を立てられたが、魔力で気配を消して壁を抜け、守衛や追手を躱してまた脱走した。


 一二〇年が経った頃、とうとう王が直にヒノワを説き伏せた。

 ヒノワがやるべきことは、エルフリュレの繁栄と安定であり、外の世界へ出ることは間違っている、と王は言った。

 ヒノワは全くもって納得できなかったが、一四〇年が経った頃にはさしものヒノワも脱走を諦めていた。 


 そして、一五〇年が経過した頃には、ヒノワはとうとう外への興味を失い、二〇〇年が過ぎた頃には、それについて、強い関心があったことさえ忘れてしまっていた。


 ヒノワの望みは死が訪れるその日まで、エルフリュレの象徴としてあり続けることになっていた。

 王は胸を撫で下ろした。

 娘の好奇心を制御することに成功したと。


 そして、ヒノワが最初の脱走から四九九年目、オークの国ヴァルカン公国が突如としてエルフリュレ王国に宣戦布告を行い、エルフリュレの領土を侵略したのだった。



一.



 全てが初めて見るモノと言っても過言ではなかった。


 ヒノワがヴァルカンの提示する降伏を受け入れたその日の夜に、ヒノワはヴァルカンと取り巻きのオークたちに連れられ、エルフリュレ王国とヴァルカン公国のちょうど中間にある、ヴァルカン公国軍が設営した宿屋にいた。


 三ツ首九脚の禍々しい馬が引く籠車に乗せられ、三〇〇ガロンも離れた場所にあっという間にたどり着いた。

 そこで、待ち構えていた侍女らしき衣装を纏ったオークらに取り囲まれ、これまたあっという間に服を剥ぎ取られてもみくちゃにされ、風呂場に連れて行かれた。

 そこでもまた、もみくちゃの泡だらけにされた。


 ヒノワは今、シャワーを浴びていた。


 最も、ヒノワにはそれが『シャワーを浴びている』という行為だとはわからなかった。

 ただ、汚れに汚れた身体を洗われていることは嫌でもわかった。

 汚れが泡に巻き取られて消えたので、最後の締めとして身体の表面を洗い流しているのだ。


 振り返ってみれば、まぁ当然のことで、ヒノワは全身ヘドロ塗れの血塗れであった。

 顔は涙と血と鼻水がドロに混ざって固まっていたし、透き通るように見事な黄金色の髪は、同じく付着物によって雑多に固まって、ぐちゃぐちゃになっていた。

 服に染みついた臭いもひどかった。

 玉のような肌はガサガサのボロボロのべっちょんべっちょんで、風呂に突っ込まれた際にも、ぶっちゃけ侍女と思わしきオークたちから思い切り鼻をつままれていた。

 ヒノワの知る限りオークは一際鼻がいいので、ことさらである。

 蛆の沸いた死骸がたっぷり染み込んだ悪臭はさぞきつかっただろう。

 かくいうヒノワもまぁ、相当にきつかったのだが……


 ヒノワは大変驚いていた。

 思わず声が漏れて腰が抜けて、その場にへたり込んでしまったほどに。

 大袈裟な反応を示していたが、無理からぬことであった。


 ヒノワが驚いたのは、浴槽を中心に造形がなされた、この狭い空間の快適さだった。

 戦場の野営地だけあって、外見は戸板を組み合わせたほったて小屋のようだったが、この風呂場は外見の安っぽさと内装のこだわりが剥離している。

 その内側の壁と、床に、水晶のような手触りの水色の石が敷き詰められていた。

 しかし、良く見てみると、そのいくつかに色違いの石がはめ込まれて、全体を俯瞰すると一枚の絵画のような構図になっている。

 お洒落だった。

 浴槽も同じような石を削って磨いて作られたのか、手触りがよく、滑らかな色形である。

 

 そこに溜められた湯が、良い香りとともに不自然に泡立っていた。

 ひとしりきもみくちゃにされた後で、思わず隣にいたオークの侍女に聞いた。

 得意げな顔の侍女は、この泡は、いくつかの薬草をすりつぶした特殊な香料を、湯に溶かしているとのことだった。

 その侍女は、感心するヒノワを見て目を光らせ、隙ありとばかりに泡の中に放り込んだ。

 ぎゃあ、ヒノワは湯から飛び跳ねた。

 肌に染み込んだ泡が、痛かったのだ。


 肌だけではなく目に染みるわ、細かな傷に染みてズキズキするわ、侍女たちには容赦なくもみくちゃにされるわ。

 最初は「殺される!」だの「罠だった!」だのと後悔やらなんやらしたヒノワだったが、泡は肌や髪にへばり付いた血やヘドロの塊に吸いついて、それらを取ってくれていた。

 目に見えて身体が綺麗になっていく。

 瑞々しい肌が、その張りを取り戻す。

 悪い気持ちはしなかった。

 良い匂いがするし、気持ちがいい。

 だが、舐めてみたら水はまずかった。


 しかし、一番の驚きは、細い蔦を編み合わせてつくられた『水を吐く管』だった。

 どうやらこの管も作り物らしく、ヒノワが水を出せと命令してもうんともすんとも言わない。

 またまた侍女に聞いたところ、これは足元の踏み板を強く押すことで、水を溜めている瓶に圧力がかかり、水を吐き出すのだという。


 どういう技術なのか、細かいことはてんでわからなかった。

 そのどれもがエルフ族にはない技術であった。降り注ぐ水は少々温い。

 さすがにこれは、管の根元、水瓶に溜めている水を瓶ごと温めているのだろうと予想できた。


外観は掘っ建て小屋に過ぎないのに、この内装は細部に至るまで手が混んでいる。

 まるで、それ自体が芸術品のような趣きがあった。


 とにかくすごい、とヒノワは思った。


「これで、コイツが無けりゃ最高なんじゃがのぅ……」


 手元を胸に寄せると、じゃらりと音がする。

 ヒノワの手には黒い金属の輪がはめられていた。

 それが、囚人や罪びとにかせる錠であることはヒノワは一目瞭然である。

 その中にすら、ヒノワを感心させる造形が仕込まれていた。

 その手錠にすら、きめ細やかな加工が見て取れたのだ。

 手の内側、鎖をつなげる部分には、小さな文字と番号がはっきりと彫ってある。

 細かな技術である。

 これを作ったものの、手先の器用さと几帳面さが窺える。

 目にする全てが、こうも素晴らしく、なんというか艶やかに磨かれているのだろうか。

 囚われる者は罪人だ。

 しかしこれは、罪人に与えるにはあまりにも贅沢すぎるとヒノワは思った。


 そう、ヒノワは思った。

 考えていた。


 オークとは、単純に頑強な肉体を持ち、膂力に優れ、大きく、分厚く、それに見合うガサツで不器用であると思っていた。

 戦闘においてはほとんど鉄を固めただけの、鈍器のような剣や盾を用いるのだと聞いていた。

 手先の不器用さから弓は使えぬために、投石を行うと賢者からは学んだ。

 実に、原始的な戦い方をするのだと。

 己の肉と力を信仰した戦い方だと。

 それしかできないのだと。


 戦闘を基準に比較すると、特にエルフと反する部分で言えば、オークは夜の戦に優れているということらしい。

 エルフは陽の下における戦においては、遥か彼方を見通す目を持つ。

 小さな音を細かく聞き分ける耳を持つ。

 精霊と風の運ぶ生物の気配を、その肌にたぐり寄せることができるのだ。


 しかし、夜は違う。

 アースヴァルド大陸における『夜』とは、闇の世界である。

闇の魔力が充満する世界だ。

 二万年前の聖戦の生き残り──つまりは魔族や、魔族に魅入られた者たちが、本領を発揮する領域なのだ。

 そこでは太陽の加護は得られず、精霊たちは闇を恐れて身を隠す。

 つまり、エルフが戦闘にもちうる魔力原理の技が、ほぼ全て使えなくなるのだ。


 だからこそ、夜のオークの陣地でバカな真似はしないとヒノワは言ったのだが、ヴァルカンによると、ヒノワは客人でもあるがそれ以上に敗戦国の将である事を念を押された。


 それをオークの民に示し、ヒノワの扱いを彼ら──特に将兵ら──に納得させるためであるということだった。

 要は手錠は必然であり、ヴァルカンの体面のためでもある。

 それらを飲み込んで、ヒノワはしぶしぶ納得した。 


 だが正直、ただでさえ逃げ出せる気はしない。

 そんなつもりは毛頭ないが。

 表面的にはどんなにけろっとしてみせていても、やはり心には恐怖と不安が燻っているのだ。

 気丈に振る舞えば振る舞うほど、失った悲しみはふと想起する。

 父と、母と、賢者と。

 家を失った、家族を失った民たち。

 未だ戦線に取り残された兵もいるはずだ。

 彼らのことを想うと、胸が張り裂けそうであった。


 なぜ、こんなものをされなくてはならないのか。

 自分だけが、こんな『楽』の中にいても良いのか。

 泥と傷が流されることは、ヒノワにとっては別の何かも洗い流されているように思えた。

 ヒノワは理解はできるが納得は出来ず。

 またどうやってもこの場では紐解けない現実に、頭を悩ませた。


 体を打つぬるま湯が、妙に気持ちが良かった。

 反して、自身の深部では、得体の知れない気持ち悪さが蔓延していた。



二.



「あがったぞ……い、いだっ!?」 


 衣装を簡素な無地のシャツに着替えた。

 これは、オークたちが用意したものだった。

 ヒノワが、手渡された軟らかい布で髪を拭きながら外に出ると、先ほどから一際親切にしてくれた、侍女長らしきオークが待っていた。

 彼女は手にした杖で、ヒノワの頭をぽこんっ、と叩いた。


「な、何をするんじゃ無礼者!! わしを誰じゃと……」

「うをっほん!」


 ヒノワの言葉をさえぎって、ワザとらしく咳をした。

 杖を手のひらでポンポンさせながら、侍女のオークは大きく口を広げて笑った。

 敵意のない笑みであった。


「よろしいですか、ヒノワ姫。今現在、姫様はヴァルカン公国の王、ヴァルカン様のお客人であらせられます……」


 が! と強く歯止めをかけた。


 分厚い唇が軽やかに言葉を紡ぐ。

 芯の通ったよく響く声だ。

 聞き取りやすく、声量もちょうどいい。

 上背の高さは当然、ヒノワよりはるかに大きい。

 オーク特有の恰幅のある体躯に、よく似合う声だ。

 声も、体も、あるいはその心も、今のヒノワの倍以上の大きさはあるだろう。

 叩かれた部分を抑えながら、その存在の圧に押されて、ヒノワは黙って聞いていた。


「しかしながら、ですよ。貴女は表向きは敗戦国のエルフリュレ王国の総大将である……という事をお忘れなく。これが何を意味するか、解りますか……?」

「? だから……どういう事じゃ? わしは何処にいても、エルフリュレの姫であろう?」


 王族に相応しい振る舞いは、場所を選ばない。

 私はどこまでも私らしく。

 そうとも、ヒノワは賢者からそう学んでいた。


 オホン! と、また侍女が咳をした。

 そして、ヒノワははっとする。

 そうだ、と一人呟く。


「もう……エルフリュレ王国は……な、無いんじゃったな……」


 じわり、とその瞳に涙が浮かぶ。

 言葉にすると、その事実はなんと心を沈ませることか。


 王が、王足りえるのは領地を持つからだ。

 王が、それを認められるのは民がいるからだ。


 しかし、今アースヴァルドの地図上には、エルフリュレはないのだ。

 

 冠だけでは王とは呼べない。

 領地も民も持たぬ王族がどこにいるだろう、誰がそれを王族と認めるだろうか……


ここに来て、すごいものを見過ぎて、気が紛れていた。

 いいや、気を紛らわそうとしていた。

 オークたちへの恐怖と彼らの作り出したエルフ離れした芸術が、少しばかり現実からヒノワを切り離していた。

 その甘い誘いに、ヒノワは遠慮なく乗っかっていた。

 だが、つい先ほどなのだ。

 故郷が滅ぼされたのは。

 

 ついさっきの事……


 ぽろぽろと、ヒノワは泣き出してしまった。

 ああ、まだどこに、こんな、涙が眠っていたのだろう。

 止まらなかった。

 ああ、なんと情けないのだろう。

 好奇心が刺激される興奮で無理やり浮かれてしまった自分を心底恥じた。


「まぁ、泣かないでくださいまし。そこが分かってらっしゃるのなら、及第点ですわ」


 侍女はハンカチを手に、ヒノワの涙を拭った。

 肌を沿うように優しく撫でた。

 ではこちらに、ヒノワ姫。

 そう言って、ヒノワに移動を促した。


「ヒノワでよい」


 用意していたらしい籠が見えた。

 その手前で立ち止まり、ヒノワは言った。

 決意のこもった声であった。

 もう、涙は止まっていた。


 侍女のオークが、ぱちりと目を見開いた。

 対するヒノワの眼は、満月のように真ん丸な目だった。

 腫れぼったく赤い目を、ぐい、と擦った。

 ヒノワは精一杯はにかむような表情をつくっていた。

 誰が見てもから元気の強がりだとわかった。

 侍女は何も言わなかった。

 目の下は赤く膨らんでいる。

 虫に刺されてかぶれているようだ。

 エルフは肌が白く、特にヒノワはそうだったので、それが余計に目立って見えた。


「ヒノワでよい、わしはこれから……ヒノワ姫の名残であり、エルフリュレの残骸じゃ。お主らの前では敗戦国の長として、民の前ではただのエルフのヒノワとして、在らねばならんのじゃろう? じゃから……」


 いい詰まって、声が裏返っていた。


「じゃか、ら……っ……!」


 また、涙が出そうになった。

 それを、必死で堪えていた。

 涙をこぼしてはならない。

 だが、悲しみに底がなかった。


 ヒノワはまるで、自分の半身がちぎられていく様痛みを感じていた。

 心身が引き裂かれる痛みを感じていた。


 聡明であるが故に、理解していた。

 これからは、それまでの自分の半分を否定せねばならないのだと。

 長寿種族のエルフとはいえ、その歳の相対比でいえばヒノワはまだ幼子である。

 歳不相応に明瞭な頭を持っていたがために、自身の状況と放つ言葉の意味と痛みを、本能と理性で十全に味わってしまったのだった。


 侍女のオークは何も言わず、一旦冷静に周りを見渡して、ヒノワに向き直った。

 そして、そっ、とヒノワの体を自分の胸に抱き寄せた。

 その豊満な体で包み込むようにして、太い指先でヒノワの頭を優しくなでた。

 気遣いの塊でできた所作であった。

 

 エルフの教えでは、オークの体は穢れているとされていた。

 その体に触れると、エルフは呪われてしまうのだと言われていて、この時まで、ヒノワも信じていた。


 だが、もう崩れている。

 ヒノワの今日までの常識だったがものが、ヒノワの中で音を立てて壊れていく。

 それは間違っていると思った。

 間違っていたのだと、思った。


 それを認めて仕舞えば、安心があった。

 ヒノワにとって母の腕に抱かれた心地に似ていた。

 もちろん抱きしめる腕の肉感も、髪を撫でる指の感触も、発する匂いも全然違う。

 

 だけれども、この太い指先から伝わる優しさは、匂いは、母のもたらすそれとは違う次元の、暖かくていい香りがしていた。



三.



「申し遅れました。わたくし、ボルバと申します」


 籠を降り、野営地にしては整った路面をまっすぐに歩いていた。

 ふと、侍女のオークは言った。

 ちら、とヒノワは侍女のオーク──ボルバを見た。

 色黒で、大柄で、太い。 

 体も太いが、声も、心も、背中も、腕も、エルフの男性を縦に並べて何人必要だろうか。

 なにより、顔が太ましい。

 唇が分厚く、牙が立っている。

 エルフとは似ても似つかない。

 だが、表情には一貫して、凶暴さではなく愛嬌がある。

 明快な声を発し……失礼ながら、女性とは思えぬたくましさと、先程感じだように、強い暖かさを持っている。

 強くて優しい。

 そしてやはりどこか野暮ったい。

 その彼女の名前が『ボルバ』とは、すごく似合っているように思った。


「ぷっ……」


 そう思うと、なんだかおかしくて、ヒノワは笑った。

 ボルバもまた、そんなヒノワを見て内心を察したのか、嫌味なくにこりと笑った。


「ボルバ、わしは何処に連れて行かれるのじゃ? ヴァルカン公のところにはいかんのか?」

「大公は今、エルフリュレ王国の今後の見積もりと、我が国の戦勝保障の振り分け。降伏書における文面の最終の確認と、声明文の確認、と……まぁ色々仕事をされています」

「な、なんじゃそりゃ……? ヴァルカンたちは戦争に勝ったのに、そんなになんか……色々やらんといかんのか?」

「はい」


 ボルバは人差し指を立てて、それをくるくると回しながら答えた。


「戦争、と言うのは本来あくまで外交の最終手段。多国家間の政治的判断の延長にすぎません。ヴァルカン大公は歴戦の将でありますが、同時に優れた王であるが故に、政治にも、自らの手と目と口を通すことを必定としています」


 ……というか、とボルバ。


「これはオークに限った話ではありません。戦争とは勝ったからこそ、やることが多いのです。戦勝国の主は敗戦国のその後まで含めて議論を酌み交わしまとめ、慎重に物事を運ばなければなりません。ヴァルカン公国はこれから、エルフリュレの領地領民の面倒を見るのですから」

「そ、そうなのか……」

「もちろんあなたもやることがありますよ、ヒノワ。あなたには明日の朝一番に、ヴァルカンと公国元老院が作成した文章をもとに、エルフリュレ王国民に降伏の声明を行ってもらいます」

「!!? な、なに……!? わしもやらねばならぬのか!?」


 呆れるわけでもなく、当然でしょう。とボルバは言った。

 

「戦争の最前線で戦っているエルフたちの中には、まだエルフリュレが負けたことを知らず。信じられずに継戦を続けている者もいるのですよ。あなたは責任を持って、彼らに『もういいよ、終わったよ』と伝える必要があります。それに、エルフリュレ王国の父王と母王は最後まで抵抗した結果、私たちは手を下さざるを得ませんでした。『森の賢者』と呼ばれる者は姿を消し、大臣は両王の後を……」

「そ、そうか……」

「!」


 申し訳ありません。とボルバは頭を下げた。

 続けて、無神経すぎました。

 とも言った。

 父と母の死を、改めて言葉として聞く。

 父と母がもうこの世にいない。

 未だ現実感がなかったことだった。

 ヒノワにとって、政局を担う大臣や賢者がいないこともそうだ。

 彼らは皆、等しくヒノワの親と言ってもいい存在。

 強く、たくましく、賢く、飄々としていた。

 死んでいることが、やはり信じられない。

 

 しかし、彼らはもういない。

 だから、ヒノワがここにいる。


 ましてや──全てを望んで行ったわけではないが──彼らの下手人はオークである。

 それは、すでに起こってしまったこととはいえ、今のヒノワには耐え難い現実である。

 ヒノワが浮かべる曇りがかった表情が、ボルバの考えを何より肯定していた。

 

 ヒノワは首を振った。

 悲しげな動きであった。


「……よいのじゃ。賢者にしても、負けた国に固執せず、長らえるために逃げ出したじゃろう。今もどこかで生きながらえておるのじゃろう。それならそれで、よいのじゃ……よ」

「ヒノワ」


 ボルバが呼びかけても、ヒノワは俯いていた。

 構わず、ボルバは言った。


「あなたは、強いのですね」


 ヒノワの言葉は、涙の代わりに言い聞かせるように吐き出したものだ。

 それを、ボルバは優しく肯定したのだった。

 もう泣かぬ、そう決めたヒノワの目に、涙はない。


 その心はぐずりながらも、

 ヒノワは確かに歩いていた。



四.



「来たか、ヒノワ姫」


 ヒノワは、野営地の中でひときわ大きな天幕の中に入った。


 待ち構えていたのはヴァルカンである。

 彼を対座に構え、彼を中心に左右に円状に伸びた机に、オークたちが着いている。

 彼らは一斉にヒノワに視線を投げた。 

 皆、その視線にさまざまな強さを秘めている者たちであった。

 総じて、只者ではない。

 ヒノワはくっと表情をこわばらせた。

 逃げるように視線を外した。

 流石に耐えられなかった。

 視線を外すと、大きな長机があることに気づいた。


 机の上には、使い古された大きなアースヴァルド大陸の地図が広げられていた。

 地図には赤い線と点と、色の違う石が数個転がっている。

 要所に付箋が打ち付けられており、おそらくオークの言語で書かれた文字がいくつもちりばめられていた。

 それらの文字は初めて見るのだが、ヒノワにはなんとなく読めるような気がした。

 ヒノワがそれについて理解できる、確たることは、おそらくこれは此度の戦での作戦書だということか。


 入口──つまり、ヒノワ達の右から始まり大きく左に孤を描くテーブルの中心にヴァルカンは其処に座っており、ヒノワと対面している。

 その左右の列に構えるは、歴戦の勇と言った面持ちのオークたちである。

 静かにヒノワを見る、その目をギラつかせている。

 品定めを行うように、ヒノワはジロリと睨まれていた。

 身震いする思いであった。


 彼らは立派な鎧や兜に身を包んで座っている。

 彼らの手元にはナイフやハンマーが、ヒノワに見せびらかすように転がっていた。

 話し合いの席でこんないかつい装備や武器が必要なものかとヒノワは思った。

 万が一自分がここで暴れたとして、何も出来ずに殺されるのは火を見るより明らかだろうに。

 徹底しているのだな、と冷静な心でそう思った。


 それは半分正解だった。

 しかし、これはヒノワに対するタテマエである。

 もとい『舐められないため』であることには、残念ながらヒノワは気づかなかった。


 ヒノワは、は、はっ。と細く息を吐いて、目に力を入れた。

 ぐるりと天幕内を、歴戦のオークたちを見回した。

 おそらくこれが、先ほどボルバが少し口にした『元老院』のメンバーなのだろう。


「ヴァルカン公、お仕事の方は、御済みになられたのですか?」


 ボルバがこれ以外、と口を開いた。

 その場の緊張感を叩き壊す、のんびりした口調である。

 ヒノワを突き刺す空気が、少し緩まった。


「いや」


 ヴァルカンはあっけらかんと答えた。

 少し威厳に欠く返事であった。


「まだ終わっていないモノもあるが、今日中に私の口からヒノワ姫に伝えるべきことを伝える。そちらの方を優先すべきと判断した」


 落ち着いた口調で話を進めるヴァルカンに、周りのオークたちは了承のしるしとしてか、深々と頷いた。


「ボルバ、案内ご苦労じゃった。悪いが、少し外してくれぬかね……?」


 ヴァルカンの左隣に座る、ボロ布を巻いた鉄兜をかぶったオークが言った。

 物腰が柔らかく、比較的穏やかな空気を纏っている。

 腹がぶりっと出ていて、腕がぶりっと丸く、太ましい。

 ヴァルカンやボルバより、横に大きな意味で、巨躯のオークだった。

 それはヒノワが教わっていたオーク像に最も近い姿である。

 だが、やはりというか、伝え聞いた汚さや穢れは感じられない。

 むしろそのオークからは、ボルバをさらに飄々とさせた気品と知性、茶目っ気を感じる。

 たっぷり蓄えた茶色のひげをしきりにいじっているのは、何かの癖だろうか。

 動作ひとつひとつに余裕と貫禄があった。


「アーマイン」


 ヴァルカンがそのオークの名を呼んだ。

 ちら、と視線を流した。


「口を挟むようで悪いが、私はボルバの同席は構わんと思っている。すでに諸君らには通達したように、これからヴァルカン公国の管轄内では、ヒノワ姫の面倒はボルバにみてもらうことが決定しているからだ。故に、ボルバにもこの場にいて、ヒノワ姫の今後の方針を知るべきだと私は思う」


 方向の手間も省けるしな。

 とヴァルカンはアーマインに目打ちし、続いて他のオークたちを見渡した。

 反論はあるか? 

 そう投げかけているのだ。


 何名か小難しい顔をしているものの、声を荒げるようなものはいなかった。

 アーマインと呼ばれたひげ兜のオークも、ふむ、と納得しているようだった。

 その一連の動きは、ヴァルカンが王として、元老院のオークたちの信を得ている何よりの証明であった。


「え……? わしの面倒を、ボルバが?」

「あら、わたくしじゃあご不満かしら?」


 ボルバは得意げにふふん、と鼻を鳴らした。  

 口角が緩んでいるのは、下心なく、単にからかっているためであった。

 やはり、女性的な愛嬌がある。

 

「いやっ、不満などあろうものか……むしろ安心したわい。わしこう見えて、けっこーかよわい美少女じゃからのう。面倒を見てもらえるなら最低限同姓で、かつ可愛く強き者じゃないとのう。わしゃーもう、不安で不安で……」

「あらー、言うじゃないですか! 照れるわあ」

「ふふん。本当に感謝はしとるんじゃぞ?」

「…………」


 にこにこと軽妙に会話する二人を、ヴァルカンたちはちょっと苦笑いしながら見ていた。


「仲良くなったようで何よりだ」


 安堵を言葉に変換して吐き出した。

 さて、と切り替えた。

 神妙な面持ちになったヴァルカンは、空気を変えながら続けた。


「ヒノワ姫。私が……いや、戦勝国ヴァルカンとして通達する。君にはやってもらいたい……というより、なってもらいたいものがある」


 ごく、とヒノワは唾をのんだ。

 ヴァルカンは少し勿体ぶって、口を開いた。


「結論から言うと、姫には敗戦国の将として、エルフリュレ王国の解体と再建の担い手になってもらいたい」

「……え? エルフリュレの解体と再建は、ヴァルカン公国がやってくれるのじゃ、なかったのかぇ!?」

「ソレについては、アーマインから説明してもらう。アーマイン!」

「ほっほっ」

   

 ひげを弄るのをやめ、アーマインは手慣れた動きで軽やかに立ち上がり、ヴァルカンの背後の木板に紙を広げていく。

 四隅を留めた紙に、びっしりと文字が敷き詰められたそれは、やはりというか、全てオークの言語で書かれている。

 ヒノワには眼がくらくらする。

 という事以外よくわからなかった。


「えー、ヒノワ殿。まず、なぜ貴殿を主軸にことを進めるか、ワケを話そう」


 アーマインは言う。


「まず、当たり前だがヴァルカンは戦勝国で、エルフリュレは敗戦国である。これはわかるかね?」

「あ、あったり前じゃあ! ……あいててっ!!」


 いきり立とうとするヒノワの口を、ボルバは引っ張った。柔かいヒノワの頬は、もちのように伸びあがっていく。


「いでででででー!!! やめで、ごべん!! わしのぐぢがわるがっだのじゃ~!!」

「分かればよろしいです」


 にっこりと笑って、ボルバは手を離した。 

 手加減こそしてくれたのだろうが、オークの力でつままれた頬はひりひりと痛み、ヒノワは赤くなったそれを、思わず両手で覆った。


「いでで、バカ力め~!」

「……話を続けても構わんかね?」


 にっこりと笑っていた。

 アーマインの問いに、ヒノワは涙目になりながら頷いた。


「此度のヴァルカンとエルフリュレの戦争は、侵略戦争でも殲滅戦争でもない。外交上のこじれから生じた、戦争としては極めて『全うな戦争』じゃった」


 ヒノワがむむ、とまゆをひそめた。

 ちょっと納得いかなかった。

 アーマインは変わらない落ち着きをもって、ゆったりと話を続けた。


「えーつまりじゃ。戦敵として対峙した以上、兵士は進んで殺しあった。これは仕方がない。じゃが我々は、誓って言うが民間人にはほとんど手をかけておらぬ。故にエルフリュレには、いまだ多くの国民が取り残されておる。戦勝保障……いや、はっきりと報酬と言わせてもらうがのぅ。本来、戦勝したヴァルカンは、エルフリュレから報酬をもらわねばならん。それは領土か、人材か……本来ならば政治適正者と会合を開き、決めていくものじゃ」


 しかし、と続ける。


「エルフリュレの王族はヒノワ殿を残して死に、外交を務めていた大臣らはそのあとを追い、知恵者である『森の賢者』は足跡を絶った……」

「つまり、わししかおらぬという事か……? 責任をとれる者が……!?」


 ──そうだ。

 

 アーマインに投げかけられた質問だが、答えたのはヴァルカンであった。

 短い台詞だったが、それは強い言葉だった。

 ヒノワが噛み砕くのに、ひと間を要するほどに。

 ヒノワが一生懸命に言葉を飲み込み切るまでひと呼吸を置いて、ヴァルカンが続けた。


「だが、姫はまだ幼く、我々の倫理でも本来は政治責任能力を問うことはできん。しかし、適任者が姫しかおらず、他に後継人もおらぬ以上、やってもらうしかない」

「む、むりじゃ!! そんな……!」


 ヴァルカンはヒノワに強いまなざしを向けた。

 暗く、熱い目であった。

 それはこれまで観た静寂を凝縮したものではなく、重厚な炎を宿していた。


 ヒノワは押し黙るしかできなかった。

 眼光に気圧された。

 そして、のしかかる現実の重さが言葉を失わせていた。


 幼いとはいえ、王族である。

 政治に疎くはない。

 いずれは王の座を継ぐ者として、エルフリュレの法と倫理はおさめている。

 賢者たちにもそれなりの実地教育はうけてきた。

 

 しかし、これは急すぎる。  

 あまりにも唐突すぎる。


 ヒノワの視界がグルグルと回った。

 途端に気分が悪くなった。

 胃がきゅっとなって、吐きそうになる気持ちをこらえた。

 ヒノワは自分なりの責任感と意地を持って、何とか踏みとどまっていた。


「わ、わしがやるしかないんじゃろうか……?」


 それでも、やっと吐き出した言葉は弱弱しいものだった。

 責任を誰かに投げ渡そうとしていた。

 そんなヒノワを軽蔑するわけでもなく、ヴァルカンはただ、じっと見つめていた。

 まだ、瞳には暗い炎が揺らいでいる。


「ヒノワ殿。もしヒノワ殿がエルフリュレを導かねば、わしらはわしらだけでエルフリュレの解体と再建を進めねばならぬのじゃ……国民が、エルフリュレの民が、はてさて、わしらにおとなしく従ってくれるかいのぅ……?」

「……!!」


 アーマインがひげをなでながら言った。

 少し、嫌味な物言いであった。

 愛嬌が裏返り、ねちっこい声色となっていた。


 もっともな意見ではあった。  

 ここに来て数少ない確信していることに、エルフのオークへの偏見はひどい、というものがある。

 それを知らぬエルフリュレの民は根本的に、ヴァルカンたちへの拒絶を示すだろう。

 エルフの培った歴史はオークへの迎合を許さない。

 ヴァルカンたちがどんなに誠意を持って接したとしても、それをすんなり受け入れるとは、どう考えてもあり得ない。


「もうわかっておろうが、エルフ族の……この世界においてのわしらオークへの偏見は、ひどい。何が一番ひどいというと、それがもはや常識と呼んでもいいもほどに、アースヴァルドのほぼ全域に浸透しておることなのじゃ」


 哀しみの色であった。

 その言葉の裏に、いかなる差別と偏見が実体験として張り付いているのか。

 ヒノワには想像もできない。


「特にエルフ、ハーピー、妖精、そして『神の使徒』たちには、わしらは蛇蝎のごとく嫌われておる。ヒノワ殿とて、まだわしらを完全には信じてはおらぬことじゃろうて」

「…………」


 ヒノワは言い返せなかった。

 図星だからである。


 確かに、ヴァルカンやボルバ、そしてこのアーマインというオークは信頼できると思っている。

 他種族としても、一個人としても、信用していい確かな「格」や、優しい気質が感じられる。


 しかし……


「わしは……わしは今、オークの中にも、信じるに値するものもいるかも知れぬ……と思っておる。いや、確信しておる。ヴァルカン公にせよ、ボルバにせよ、そこのアーマイン殿にせよ、その発言や優しさは信に足るものであると、わしは思う。しかし……」


 ヒノワはぐっと唇をかんだ。

 苦い心持ちで言っていた。

 言葉が震えている。

 確信に近い不安から。


「全てのオークを信じろと言うのは……むりじゃ! わしは父と母が、優しかった二人が、わしに嘘ばかり教えていたとは到底思えんのじゃ……何か理由があるにせよ、わしは今までずっと、父と母にオークたちは『そういう生き物』じゃと教えられてきた……」


 言い終わり、ヒノワは混乱した。

 気持ちが、感情がそこかしこに行ったり来たりしている。


 不安? どっちに? 

 心配? どういう意味で?

 怖い? 誰が? 何が?


 嘘を教えたかもしれない父と母が……?

 エルフリュレの歴史で正しいと教えられたことが、真逆であったかも知れない事実がか?


 それとも、自分を暖かく抱きとめてくれたヴァルカンやボルバが、やっぱり嘘をついているかもしれないという猜疑心か。


 その猜疑心を抱く、自分自身か?


「不安はわかる」


 思考を迷わせるヒノワを、ヴァルカンの言葉が止めた。

 ヒノワが顔を上げて、ヴァルカンを見た。

 眼の中に炎が燻っている。

 だが、先ほどより暗い色ではない。


「恐怖もあるだろう。その罪と責は、幼いその身には重すぎるのは十分に承知している……だが、それに足をとられている時間は、我々には無い」

 

 不安を押し潰すような、重い声だった。

 ヒノワが視線を射すくめると、ヴァルカンは、相変わらず強い目をしていた。

 先ほどより、暗く、強く、鋭い眼光であった。

 机の上に出されたその手が拳をつくり、強く硬く握りしめられている。


「ヒノワ姫。あなたには早急に『王政』と『世界』を学んでもらう。もちろんそれだけではない。エルフとして、この世界を癒し、正す力を持つものとして……」


 ヴァルカンが瞼を閉じた。

 間が、開く。


 次の言葉に乗せる、万感の想いと力をためているようだった。

 それはまるで、待ち焦がれた瞬間に立ち会っているかのような期待と不安が、動揺と決意が見て取れた。

 そんな感情の揺らぎを、ヒノワは恐々と眺めるしかできなかった。



「強くなってもらう」



 見開いた眼が、やはり炎を宿していた。


 ヒノワは、瞬時に理解した。

 せざるを得ない迫力があった。

 ヴァルカンは自分に、ただ強大な暴力を持つという事ではなく、ただエルフリュレをまとめるだけではなく、おそらくはエルフとして……それ以上の存在になることを望んでいる。


 この世界に君臨する者になれと言っている、と。 


 それはかつてない希望が込められた、自身に期待を『賭けた』まなざしであると、ヒノワは受け取った。



五.



「優しい娘ですな……」


 半ば放心していたヒノワが、ボルバに連れられて立ち去った。

 他の元老院の面々も仕事に取り掛かるべく退出し、天幕の中にはヴァルカンとアーマインだけが残っていた。


 アーマインはヴァルカンにとって、最も古い忠臣であった。

 元々は、二人は対等な友であった。

 だから、二人きりになり、心からの言葉を交わしている。


 ヴァルカンは背もたれに寄り掛かり、手を顎に当てて目線は天井に投げやり、じっと座っていた。

 

「あれが、本来のエルフなのだ。お前も知っているだろう?」


 二万年前の戦争で、歪められる前のエルフを。

 忘れたとは言わせぬ、『母』の優しさを。

 優れた頭脳を持ち、優れた魔力を持ち、自身の正義に関わらず、まず物事を公正に判断しようとする。

 

「エルフとは、『至高者』が作り上げた完璧な生命体だ」


 その言葉は、確かな羨望が混ざっていた。


「悪性を強く生まれ持った我々とは、本質を同じくして真逆なる存在だよ。その一点のみ、私はエルフが羨ましい」

「懐かしまれておりますか、無理もないでしょうな。勇者と神々に敗北したわしらは、醜きものと断ぜられ、見捨てられた」


 他でもないオークとエルフをそういうモノとして創造された『至高者』と、異界から来た『勇者』の手によって。


 アーマインが、眼下に広がる世界地図をなでた。 

 すっかり様変わりしてしまった世界。

 オークにとっての地獄であり、

 エルフにとっても地獄である世界。

 

 忌々しさ、虚しさ、虚脱感。


 アーマインはなぞる指先に様々な想いをにじませた。

 複雑な表情をしていた。

 それを見るヴァルカンも同様に、複雑な心情が顔に出ていた。


「勇者の功罪は大きい。確かに彼は世界を救った。だが、それは……」

「誰が為の世界、だったのでしょうな。勇者と神々に組し、戦の褒賞として繁栄を約束されたはずのエルフ族は、その実二万年の間に全く何も変わらなかった。いや、退化の道を進み続けたのじゃから……」


 変わったのではない。

 ヴァルカンは訂正する。

 変えられたのだ。

 吐き出す言葉は熱持っていた。


「エルフの心、本質は……変わったと言うより、歪められたのだよ。だが、それも今日で終わりだ。終わりにしなければならぬ……」


 ヴァルカンが口を噛み締めた。

 その表情は、とても威厳ある王の振る舞いではなく、夢に苦みを覚えたばかりの、ひとりの若者のようなみずみずしさがあった。


 ヴァルカンは、ずっとこの時を待っていた。


 オークの無念を晴らすために。

 エルフの滅びを回避するために。

 アースヴァルドを救うために。


『母』の血が濃いエルフが生まれるのを、遥か過去からずっと、待っていたのだ。


「大衆の認識を変えるには、『母』のカリスマが必要だ。そのための下準備として、致し方ないが暴力を振るい、依り代を破壊し、教育を変えなければらん……一つの集団としての国を、我々が支配せねばならん。そのためにもしばらくは、ヒノワに……エルフリュレ王国には、我々の傀儡となってもらう必要がある」

「……蛇の道ですぞ」


 アーマインは諭すように言った。

 その言葉に、ヴァルカンはこたえなかった。

 あえて、無視した。


 堅い木で造られた椅子をぎしりと鳴らし、ヴァルカンはゆっくりと立ち上がった。

 拳を握っていた。

 じっとりと、汗が滲んでいた。


「覚悟はできている。これは、私の、私たちの二万年にわたる、『罪と罰』なのだ」


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