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異説戦記-ヒノワ伝-  作者: ロウシ
第1章:崩壊
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第1話:エルフリュレ王国の崩壊

よろしくお願いします


零.



 城が燃えていた。

 エルフの国の、城である。


 夜であった。

 普段は、星々の明かりと、ランプのほのかな灯りだけが照らし出す世界を、轟々とした炎が茜色に染め上げていた。


 その城は、かつては絢爛豪華な装飾に彩られていた。

 石積みの壁は計算され尽くして積み上げられ、歴史を思わせる重厚さを発していた。

 その上に、細やかな色の染め水で薄く緑を伸ばし、深緑と重責の中にあって、儚さに彩られていた。


 見る者に、その国の特性を一目で理解させるであろう城であった。

 城とは、国の象徴である。

 この国の持つ穏やかな気質と、儚い脆さを両立していた。


 それが、火に包まれていた。

 ごうごうと燃えていた。


 黒黒とした煙が空に立ち昇る。

 夜空の黒を、その上から、嵌め絵のように舐め尽くしていく。

 城壁は撃ち崩れされていた。

 それを成したであろう巨石が、いくつも炎の中を転がっていた。


 生物の焼ける臭いがした。

 倒れ伏した死体の骨と脂肪が、炎に炙られ熱波で弾けていた。

 その度に、ぱち、ぱち、と音がして、異臭が漂った。

 玉座へつながる一本道に、崩れ落ち踏み荒らされた装飾品が散乱していた。

 絵画の脂が黒ずんで、泡になって溶けている。

 溶けた油がすぐさま蒸発して、やはり異臭を放っている。

 城内は異様な光景であった。

 それはこの二万年に渡り、エルフたちには縁遠い景色であった。


 すなわち──死の様相である。


 森に降り注ぐ光をイメージされた、光色の絨毯は見るも無残に引き裂かれている。

 壁が打ち崩れされて、そこに死体が吊るされていた。

 どこを見ても、煙と、血と、異臭が目と鼻につく。

 死の活気に溢れていた。

 絶望的な光景だった。


 城下ではパニックが起きていた。

 しかし、この瞬間は、度を越した現実に足を止めてしまっていた。

 荷物を抱えたボロボロの臣民たちが、広がりゆく暗黒に、自分たちの未来を見ていた。

 絶望と恐怖を入り交えた表情を、誰もが浮かべている。

 堕ちていく城を、呆然と眺めていた。


 ──ああ、


 誰かがぽつりとつぶやいた。


 ああ──俺たちの国は、滅んだんだ。


 くしゃくしゃになった紙束のような声であった。

 否定する者は誰もいなかった。

 考えがまとまらない者、

 考えることができない者、

 感情が整理できずにいる者……

 皆々それぞれに、思いはあった。


 だが、ただ一つ。

 共通して、分かっていることがある。 



 もう二度と、あの城が、元の姿を取り戻すことはないだろう。



 物語は、まず、エルフたちの絶望から始まった。





『異説戦記‐ヒノワ伝‐』




一.



「姫ぇ!! ヒノワ姫はおられますか!!?」


 鉄の装備に身を固めたエルフの兵士であった。

 扉を蹴破り、煤だらけのブーツでそこに踏み行った。


 そこは、普段は王族しか入れぬ場所であった。

 母なる森と、父なる天と。

 大陸を救い、世界を立て直した英傑。

 この偉大なる国を生み出した「勇者」を讃える場所であった。


 勇者統一教。

 邪神を打倒し、二万年前にアースヴァルド大陸を救った勇者を信仰する大陸唯一の宗教である。

 ここは、その本拠地である聖都デミウルゴスに祀られる、『サンセリック教会』の内装をもとに造られていた。

  

 白を基調として、淡い空色を要所に落としている。

 永遠と不変を意味する造花に彩られたこの部屋は、エルフの世界を形成する大事な大事な場所であった。


 しかし、違う。

 しかし、今日、この日においては違う。

 慌ただしかった。

 心配と不安が満たしていた。

 ひたすらに喧騒のただなかで、ヒノワ姫が泣いていたからだ。


 部屋の中心で、泣き崩れていた。

 可憐な少女こそ、エルフリュレ王国の王女。


 ヒノワ・ウェンチェスターその人である。


 ここは、ある意味ヒノワの私室でもあった。

 実際はそうではないのだが、王族の管轄にある場所であり、自然を形成する精霊の拠り所であり、健やかな空気に包まれるここを、ヒノワは気に入っていた。

 だからか、自然とヒノワはこの部屋に入り浸るようになり、エルフリュレの重鎮たちも、それを「仕方ない」と諦めていた。

 可愛いものを見る目で、見逃していた。

 わがままなヒノワ姫は、決して咎められないこの場所にいると、すっかり良い気分になり、泣きたい時や辛い時は、逃げるようにここに飛び込んでいた。

 もはや、常任以外のエルフの神官たちや、『森の賢者』たちよりも、ヒノワがこの部屋を占領する時間は長いほどだった。


 そこに、兵士は飛び込んだ。

 刃こぼれし、色の悪い両刃の剣を握っていた。

 熱で刀身が歪んでいる。

 これではとても、鞘には収まらないだろう。

 炎にあぶられ泥の中でもがいたのだろうか、全身の鎧は余すことなく煤汚れの泥まみれ、関節部位に油が溜まって滲み、黒ずんでいた。

 その上から、粘ついた返り血が大量に付着していた。  

 水分が蒸発し、粘性が強く残って、固形化する手前の状態なのである。

 ぎょろりと、ヒノワへ落とす視線が鬼気迫って恐ろしかった。

 目が窪んで、ゴブリンのように、目玉がぎょろりと浮き上がっていた。

 煤の黒ずみが目の淵に溜まっている。

 しかし、ヒノワを見る光は、かすかな希望に揺らいでいた。

 希望に縋り付く、歪んだ色に揺らいでいた。


 その光は、血と、悪意と、殺意と、地獄と、それらが導き出す絶望を飲み込んできた色であった。

 彼がいかなる悲劇を乗り越えてきたのか、彼自身の想像や計算の及ぶところではないのだろう。


 王女は部屋の中心。

 そこまで、息を吐きながら、兵士は歩み寄った。

 ずしりとした質量が隣にかしづいても、ヒノワはまだ、穢れていない絨毯の上ですすり泣いていた。


「ううっ……お父さま、お母さま……!」


 目立った外傷はない。

 扉には中から閂が、外にはガラクタが積み上げられていた。

 避難のために、近衛兵たちが真っ先に、ヒノワをここに投げ込んだのだろう。

 

 良かった。

 と兵士は思った。

 ヒノワは、外の凄惨たる光景を目にしていない。

 敗色濃い自らの世界の有様を、まだ知らない。

 それならば、よかった。

 そう思った。

 

 窓に目をやった。

 開かない。

 内側からは変哲もないが、外側の格子が熱で歪んでいる。

 当然だった。

 窓の外、すぐ下には炎のゆらめきが見える。

 窓枠の金属が熱を溜め込んでいる。

 兵士は開くのを諦めて、目を細めて、その先を見た。

 この部屋と長い廊下を挟んで、ぐるりと回った先にある向こう側。

 城の中心である。

 そこは皇室だった場所。

 玉座が立ち、荘厳と静寂に気づいた魔力たちが羽根を休める、エルフの世界の中心である。

 だが、今、視線の先のそこは、炎とガレキに包まれていた。

 外壁は崩れて、入れ替わるように黒煙がもうもうと吐き出されていて、その中までを見通すことはできない。

 煙がいっぱいで、視界不良である。

 だが、その内部がもはや、原型をとどめていないことは瞭然であった。


 兵士がぐっ、と食いしばった。

 悔しさが滲んだ。

 不甲斐なさが滲んだ。

 増悪が表皮に染み出していた。


 だからか──ヒノワは顔を上げた。


「ヒノワ様!! どうか……どうかお立ちください!!」 


 お逃げください!!


 叫んだ。

 エルフは耳がいい。

 そして、その声は男子であれ、高々と叫べば成人を迎えてなお、ガラスを擦るような甲高さを備えている。

 耳をつんざく声に、ヒノワはぼうっと、ほんの一瞬呆けて見せた。

 その一瞬の後、兵士の判断と行動は迅速だった。

 涙を流す王女の細腕を、力付くでからめ捕り、体ごと持ち上げようとした。

 普段は無礼討ちと取られてもおかしくない行為だが、この場においては仕方がない。

 しかし、その兵士をヒノワは意外なほど強い力で突き飛ばした。

 腰から頭と壁に激突させ、金品装飾と共に崩れ落ちた。


「いやじゃいやじゃ!! どこにも……どこにもいきとうない!!」


 顔をくしゃくしゃにさせ、頬を紅色させ、涙でいっぱいのまま、ヒノワは叫んだ。

 怒りと悲しみのこもった声だった。

 しかし、混乱に掻き乱される表情にも声色にも──見惚れるほどの艶がある。


 こんな時だと言うのに。

 いや、こんな時だからだろうか?

 幼いながらも生ずるエルフ特有の妖艶さは、磨きをかけて発露していた。

 胸をすくようなエルフ王族の美貌。

 それを正面からぶつけられ、兵士の心身は再び弾き飛ばされた。

 しかし、すぐに立ち上がった。

 こんなことをしている場合ではない。

 目を覆って涙を流すヒノワに駆け寄った。 

 息を呑んで、片膝をつき、俯くヒノワに出来るだけ目線を合わせようとした。


「ヒノワ様。今すぐ、ここから脱出するのです……! もうすぐ獰猛なオークたちが、ここに来ます! 私は他の兵に頼まれて、ヒノワ様を伴いエルフリュレを脱出するために参りました……」


 ヒノワがびくりと体を震わせた。

 兵士を見た。

 宝石を散りばめたような目が、ひび割れているようだった。

 恐怖が浮かんでいた。

 滅びの美学を凝縮したような、美しさがあった。

 兵士は、思わずたじろいだ。


 ……一人ではないか。


 そして、ヒノワの言葉にはっとなり、口を閉ざした。


 王女を救出しに来たというのに、兵士は一人なのか……?


 他のものは?

 ヒノワは同じ言葉を繰り返した。

 他のものは?

 何度も繰り返した。


 兵士に降りかかる言葉の持つ質量は、吐き出すたびに、何倍も何倍にも重くなっていった。

 足が、床にめり込む心地であった。


「助けるではなく、逃げろというのか、おぬしは」


 ヒノワの目が静かに見開かれた。

 碧眼が瞬いている。

 気づきの現れであった。

 丸々とした中に散りばめられた宝石が、パキパキと音を立てて、砂塵がごとく崩れている。

 水気で固めた砂の外壁が、うるうるとその中から溢れ出した水分を押しとどめることができず、揺れて濁って決壊し、途端に溢れ出した。

 

 感情が涙となって流れてるのと同時に、現状を把握していた。

 この状況が意味することを、ヒノワ瞬時に理解していた。

 導き出された答えは、『絶望』。


 救いはない。

 朦朧と耳を澄ますが、何の音もない。

 この部屋に、ヒノワを護る精霊は、もういなかった。


 扉の向こうから爆発音が響いた。

 部屋全体がガタガタと震えた。

 兵士が舌打ちをもらす。


 近い。もう、時間が無い。


「足止めの兵も、もう持ちません! この国は終わりです……しかし、しかし!」


 兵士の言葉は、ヒノワの耳にはほとんど入っていない。

 ヒノワの脳裏には、オークの群れに無残に打ち殺される兵士たちが浮かんでいた。

 逞しい想像力は、その脳内でヒノワの絶望を具現化せんと、瞼の中に絶望をぶちまけていた。

 嬲り殺される父と、そして捉えられ凌辱される母の姿。

 兵たちの苦しみは想像しただけで内臓をつかまれる心地であった。

 つかまれ、握られ、振り回され、かき乱される。

 嘔吐感に従い、ヒノワは口内粘液を吐き出した。 

 ボトボトと粘ついた、酸性の強い液体がヒノワの指の隙間を縫って、床にこぼれた。


 自分と……とにかく、絶望に染まった未来と現在と、それらの妄想が歯止めなく頭を廻る。

 

 降伏はありえない。

 ヒノワの知る限り、オークは残虐な生き物である。

 かつての『聖戦』において、愚かにも勇者と神々に反旗を翻し敵対した種族だ。

 アースヴァルド大陸を己がものとするべく、欲望のまま暴れ回ったとされる種族だ。

 敵対するものに容赦はなく、

 男は嬲り殺しにし、

 女は慰み者にして、

 尊厳も力も奪い尽くしてしまうのだ。


 未来予想図に放心するヒノワ。

 それでも兵士は檄を飛ばし続けていた。

 耳に入らずとも、その心に届いて欲しいと懸命に。

 拳を握っていた。

 剣を握る手の内に、エルフには珍しい脂汗をじっとりと染み込ませている。

 

 続けた。

 続けた。

 それはヒノワに発破をかけるというより、自身に言い聞かせるようでもあった。

 地獄を潜ったこの兵士もまた、ギリギリの精神状態だった。

 ヒノワに折れてもらうわけには、いかなかった。


「よく聞いてください、ヒノワさま。ヒノワさまさえ生き延びたなら……いえ、この場を乗り越えたのならば。いつか必ず、この国は再興します……! あなたは生きてください! この国の為にです! 今、必死で戦っている兵士の為に、民の為に……あなたのお父さまや、お母さまの為にです!!」


 そこまで言い切って、兵士が言葉を詰まらせた。

 ここまで。

 自分ができる説得はここまでしかない。

 ヒノワは、震えていた。

 恐怖からである。

 だが、それだけではない。

 父と母を出されて初めて、恐怖以外の感情を、ヒノワは探し出した。

 恐る恐る顔を上げて、兵士を見た。

 見計らったかのように、心に安堵を呼び降ろして、兵士は言った。

 目を、しっかりと捉えていた。 

 不思議と、続く言葉が浮かんでいた。


「そして、あなた自身の為に!!」


 その一喝を受けて、ヒノワは目元を拭った。

 後から後から溢れ出ていた涙が、ぴたりと止んだ。

 最後のしずくが頬を零れ落ちた。

 ヒノワの目は腫れぼったく膨らんでいた。

 眼底に窪みができていた。

 そこに漂う涙のカスを拭った。


 深緑のドレスを持ち上げて、力強く、ヒノワは立ち上がった。

 まだ、体は震えていた。 

 心は折れる寸前であった。

 だが、虚勢をはってでも立ち上がって見せた。

 目じりは、ほっぺたは、真っ赤に腫れ上がっている。

 美しくも、誰にも見せたことのない顔であった。


 なんとブサイクな顔であろうか。

 なんと、逞しい表情であろうか。

 なんと、エルフらしからぬ顔であろうか。

 

 その眼には、確かな炎が宿っていた。

 心折れる寸前ではあるが、ヒノワは折れなかった。

 立ち上がって見せた。

 兵士は感涙していた。

 そして、確信した。

 ヒノワさえ生き延びることができれば、エルフリュレは再興する。

 ……違う!

 エルフリュレはまだ滅んでいない!

 このお方が折れぬ限り、まだ、滅んですれいないのだ!


「ここから脱出するぞ……案内しろ! はようせい!!」

「ヒノワ様……はい!! こちらです!!!」


 ヒノワの声は、うわずっていた。

 泣き果てた故に、カラカラの声であった。

 恐怖を必死に隠しているのだろう。

 叫び捨てる声と共に、きっと相対する現実そのものを捨てたがっているに違いない。

 だが、強さ秘めていた。

 負けるものか! という、強がりがあった。

 比率で言えば、確かな決意が上回っているのだ。

 生きてやる。

 逃げてやる。

 絶望を弾き飛ばさんとする力強さがあった。

 

 誰に聞いたか、それは、賢者の言葉であったか。

 危機に瀕する時、命に危険が迫る時ほど、そのものが秘める才能は開花するという。

 そんな言葉を兵士は思い出し、ヒノワに重ねていた。

 その言葉の通り、この危機的状況の、今この瞬間に、ヒノワは王たる素質を開花させ始めていたように思えた。  

 泣き虫の王女が、ひと皮剥けようとしている。

  

 途端に、崇拝に近い感情が兵士の内で芽生えていた。

 その顔には狂気が抜けて、しかし、兵士の身の内から湧き出た、別種の狂気によって、生気に満ちあふれた。

 岩肌に隠された雑草が、日の光を浴びたように背筋を伸ばすような変化であった。

 陽の光の下で、風に薙ぐ一瞬。

 息を忘れるような視覚的な美だと思った。


 早い話──兵士はときめいたのだ。


 こちらです。


 ヒノワを先導し、恐れながらとその手を引いた。 

 兵士の所作には怯えがなかった。

 この時この瞬間、兵士の心に陶酔があった。

 ヒノワの手を引く行いを、選ばれしものだけがやれる、神事の類と思い込んでいた。

 握り返すヒノワの手は小さく、指は細い。

 しかし、そこに頼りなさではなく、美しさを見出してしまっていた。

 その指先が、微かに震えていることに気づかなかった。


 戸棚の裏の隠し通路から、二人は脱出した。




二.




 ──はずだった。


 鮮血が舞う。

 そのひと粒ひと粒が空に向かって飛び散り、地に縫い付ける力によって落ちていった。

 兵士の頭部に振り下ろされた圧倒的暴力は、その頭を兜ごと潰してみせた。

 血と肉と贓物が撃ち出される様は、赤く紅い華が開くその瞬間を、緩慢な認識の元で見合ったようだった。

 吹っ飛んだでも、殴り倒されたでもない。

 文字通り潰れて、飛び散った。

 千切れた筋肉から繊維が破裂し、断層が砕けた骨が露出した。

 脳は紐解かれたように捻れて伸びて、血潮と共に舞った。

 

 ヒノワは、跳ね飛ばされた血液を頭から被った。

 確かな質量と暖かさがあった。

 頬に触れると、ぬるぬるとした感触が指先を湿らせた。

 髪の毛先から、ポタポタと粒となって滴り落ちた。


 ヒノワの目の前で、兵士は飛び散った。

 最期まで、その目に、陶酔が導き出した歪んだ希望を光らせていた。


「わ、わあああああーっ!!!?」


 ヒノワは尻餅をついた。

 腰が砕けた。

 立っていられなかった。

 見下ろす怪物の黒々とした眼が、闇の中で光っている。


「う、うそじゃあ! な、なぜじゃあ……!?」 


 混乱であった。

 抜け道に、先回りされていた。


 城の隠し通路は、城下町の裏手に通じている。

 そこは普段──と言うより、恒常的に人気の無い場所であり、おおよそ王族は愚か臣民たちですら容易に近づかない場所であった。


 泥沼で、ゴミ捨て場であるからだ。

 地面は、見渡す限りヘドロに満ちている。

 打ち捨てられたゴミに、動植物の死骸が無造作に転がり、腐乱臭に誘われた蛆がそこかしこで蠢いている。

 アースヴァルドに住まいし聖なる種族に置いては、嫌悪感を覚える場所である。


 華やかなる城下の表通りや絢爛な城をエルフリュレの『正の領域』とすれば、ここはエルフリュレの『負の領域』であった。

 他国者には決して知られてはならない場所。

 そもそも、負の気質に満ちたこの場所に近寄ろうものはいる筈がない。


 だからこそ、逃げられる。

 いくらオークとはいえ、こんな場所に来るわけがないとタカを括っていた。


 兵士の説明台詞に、道ゆく途中は半信半疑だったヒノワも、漂う異臭に嗚咽を鳴らした時には、確信していた。

 ここからなら、誰にも知られずに逃げ切れると。

 

 兵士の命が吹き飛んだのは、緊張が緩んだその瞬間だった。

 振り下ろされた鉄塊が全てを破壊した。

 全て、とはすなわち。

 兵士の命とヒノワの希望を、である。



「ひいっ……いや……いやあっ……!!」


 ヒノワは這いずった。

 腰から下には力が入らないので、その細腕を掻き回してはいずろうとした。

 王族の気概はどこかへいった。

 ヘドロに塗れてはいずった。

 それを、気にも留めなかった。


 身体が泥に塗れていく。

 賢者の祭壇を連想させる、深緑の鮮やかなドレスがどす黒く変色していく。

 遅れて、鉄の臭いがした。

 嗅いだことのない獣の臭いもした。

 蛆が身体を這い上っている。

 蛆だけではない。

 ヒノワの手から心臓へと昇りゆくそれは、絶望であった。


 真っ黒な臭いだと思った。

 全て嘘であれと願った。

 自分と世界を結びつける何かが、音を立てて壊れていくようであった。

 心が錆びついていくようだった。

 吐き気を催した。

 涙がとまらない。

 脳と胃を、絶えず強い刺激が襲った。


 巨躯であるオークは、武器を下ろしていた。

 哀れな動きに沈みゆくヒノワのことを、黙って見ていた。

 近寄ることもせずに、ただ黙って見下ろしている。

 沈黙が、かえってヒノワの恐怖心を煽った。

 心が壊れそうだった。

 口角が歪んで、そうとは知らずに笑顔を作っていた。


 オークの体は分厚く、大きく、太い。

 深い緑の肌をしている。

 獣の表皮を飾り立て、鎧の上に装飾している。

 長い槌を武器としていた。

 先端の塊は、無粋なまでに鉄を固めた鈍器である。

 その槌を持つ指が太く、大きい。

 手が分厚く、大きい。

 ヒノワの五本指全てをまとめ上げても、その太さの半分にも及ばないだろう。

 まるで、山の中に聳え立つ、切り立った崖のようだった。 

 その存在感と大きさは、おとぎ話に聞いた怪物そのものであった。

 

 ヒノワはただただ恐怖した。

 心が壊れてしまいそうだった。

 いっそ、このまま前後不覚にでもなってしまえと投げやりであった。


 だが、心のどこかで、ヒノワは自身を回勅させていた。

 理性的に、ヒノワは、元来た道を戻るしかないと確信していた。

 やることを決めたなら、足に力が入った。

 気のせいかもしれないが、詰んのめるようにだが、立ち上がれた。


 ヒノワは振り返って、走った。

 泥に脚を取られて、思うように進まなかった。

 待ち構えていたオークたちに背を向ける形になった。


 なので気付かなかった。


 獰猛で凶暴だと伝えられている野獣(オーク)が、首を垂れていることに。

 実に騎士道精神溢れる佇まいであった。

 しなやかに片膝をついて、深い敬意を携えて、静かに伏していることに。


「……ッ!?」 


 ヒノワが動きを止めた。

 オークの動きを察したからではない。

 壁が現れた。

 視線の先で、大きな影が動いていた。


 隠し通路の奥から、つまり、ヒノワの私室の方から──何者かが、こちらに向かって来ている。


 それが、あまりにも大きくて。

 それが、視界の全てを覆い尽くして。

 だから、ヒノワは最初、それを壁だと思ったのだ。

 

 それは、オークだった。

 しかし、ただのオークではなかった。


 大きく、太く、そして精悍な顔立ちをしていた。


 身長はヒノワの三倍はある。

 それは普通のオークより、頭ひとつ以上高い。

 だが、普通のオークと違う大きさは、身長ではなく身体の厚みである。

 肉が詰まっている。

 筋肉の塊であった。

 首が、顔より太いのである。

 肩が、巌のようにゴツゴツとしているのである。

 そこから伸びる腕が、千年育ち切った大樹の様相なのである。

 上半身は、素肌の上に獣の皮を羽織っているという雄々しい格好なのだが、胸の肉の太さが尋常ではない。

 腹筋のひとつひとつがコブになっている。

 見事な凹凸であった。

 デブではない。

 総じてよく引き絞られた筋肉だ。

 高密度に筋肉が圧縮されている。

 その上に、凹凸を隠しきれない分厚い脂肪が被さっているのだ。


 佇んでいるが、その肉と血が皮膚の下で脈動しているのが、傍目でも感じ取れる。

 硬い革製のズボンとベルトを、まるで柔肌のように履き潰していた。

 色褪せて、細かな傷がちらほらと見える。

 そのオークを形成するすべての要素が大きい。

 息を飲み込むほどに、太い。

 肌の色は、この夜、この吹き溜まりの中に置いても、精霊の木々を思わせる淡い緑であることがわかる。


 見上げる。

 彫りの深い顔があった。

 良く整えられて、力強さを見る者に与えてくる。

 白髪混じりだが、濃い顎髭を短く、几帳面に切りそろえていた。

 分厚い瞼と、分厚い眉だ。

 その下で、影から光るその瞳は、朝焼けの空のように暗く、紅い。

 閉じられかけた隙間から覗くその色は、暴力だけに優れている者が醸し出せる艶ではない。

 智慧と、深慮が容易に窺える。

 高い目鼻たちと揃えて、すべてのパーツが見事なバランスで整えられている。

 彫刻芸術がそのまま動き出したような、真摯で、冷静で、理知的な印象を与える(かお)を作り上げている。


 特別な存在感。

 ヒノワの視界が、認識する世界が、そのオークに飲み込まれているようだった。


 まるで一つの山を見ているようだった。

 雄大だった。

 圧倒的な質量を存在感に変換させ、静かに放つ目の前のそれに、ヒノワは思考も、言葉も奪われた。


 そのオークは伝承のそれとはまるで違う。

 父や祖父母などから聞いた──

 伝承のオーク像とは、かなりかけ離れた外見と雰囲気を纏ってある。


 ただ立っているだけである。

 格好は、戦士のそれである。

 だというのに、ヒノワはその佇まいに気品すら感じていた。


 その、変わったオークが口を開いた。

 ずっ、と雰囲気が変わる。

 褪せた古城の扉が音を立てて開く時とは、このような厳粛な雰囲気なのだろうか。


「エルフリュレ王国第一王女。ヒノワ・ウェンチェスター姫に、間違いないか?」


 聞いている言葉ではあったが、疑問ではなく確信の声色だった。

 ヒノワは思わず、素直に「はい」と答えそうになったが、先を制すように背後のオークが言った。

 これもまた、しなやかな声色であった。


「深緑のドレス。王妃の耳飾り。端正な顔立ちに加えて、『碧眼の瞳』……まず、間違いありませぬ、我が王よ」


 くっ、と。変わったオークは顔を沈めた。

 睨み落とす様な視線に貫かれ、ヒノワは身を強張らせた。

 しかし、その変わり者は、良く通る優し気な声で、ヒノワに語りかけた。


「我が名はフリント・イングラム・ヴァルカン。ヴァルカン公国の王である。我が声を聞け、エルフリュレの姫君よ」


 ヴァルカン──!


 ヒノワの眼が、大きく見開かれた。


「その方の国は、父王を無くし、我が手勢によって近衛騎士団も壊滅した。もはや敗戦は濃厚である。これ以上の『戦争いくさ』は我が国の望むところではない……この時を持って、私の、『フリント・イングラム・ヴァルカン』の名を持って、全面降伏を提案する」

「なん……じゃと……!」

 

 その名を聞いて、その声を聞いて、ヒノワは我に返った。

 そして、納得した。

 変わっていて当たり前だ。

 この男は、このオークこそが……オークたちの総大将なのだ。

 父王から常々聞かされていた。

 母や賢者は口々に、その名と共に恐れを吐き出していた。

 もっとも警戒すべきと、エルフリュレに伝えられてきた存在だった。

 このオークこそ、それだ。

 畏怖の具現化、生きた暴風。

 二万年前に、勇者に叛逆せし邪教の徒。

 

 すなわち、エルフの宿敵。


 

 …………?


 そこまで苦虫を噛み潰す憤怒をみなぎらせておいて、湧き上がった疑念に頭をひねる。


 まて、と。

 ヴァルカンは、オークの王。

 オークは、エルフの宿敵。

 二万年前に袂を別った、アースヴァルドの敵。


 だというのに……この静けさはなんだ?

 オークとは、暴君の下に生まれし天性の乱暴者。

 品位はなく、学もなく、文明を持たず、堕落に身を寄せてアースヴァルドのこぼれ落とす蜜を啜って生きる落伍者。


 そのはずでは、ないのか……?


 ヒノワの頭に、一握りの疑問が浮かんだ。

 ひとたびそれが頭に根付くと、絶えない。

 ヒノワはぱくぱくと口を動かして、ようやく言葉を絞り出した。


「こう……ふく……じゃと。なぜ……?」


 言葉はしどろもどろだったが、頭の中は意外なほどに冷静だった。

 許容量を超えた刺激に脳が麻痺したのか。

 目に見える現実と伝え聴く認識の差異に、脳が破裂したか。

 はたまた死を実感しすぎて、恐怖が弾けてしまったのか。


 それとも──ヴァルカンの畏敬に、慄いたからか。


 それは、今のヒノワにはどちらでも良かった。

 今すぐ欲しい答えが、ただひとつ。

 自分の知っているオークの知識と、目の前の現実の差異だ。

 ヴァルカンの存在は相反している。

 背後に跪く獣たちの振る舞いは、やはり相反している。

 この事実に、戸惑いを覚えている。

 死ぬならばせめて、この謎を解き明かして死にたい。


「お、オークは……」


 ヒノワは言った。


「オークは一度戦を始めると、敵を皆殺しにするまで、戦いを止めんのではないのか……? 男も女も凌辱して、慰み者にするのではないのか……?」


 ワザと、下劣な言葉を選んだ。

 それは父王が、そのまた父から聞き継いだもの。

 エルフリュレ王国の民ならば、誰もが知っている話であった。

 『勇者』の伝説から、今に伝わる史実であり、アースヴァルドでは歴然とした事実であると。


 父の言葉を思い返す。

 オーク族はおろかにも、この世界に変革をもたらした『勇者』と敵対し、邪神にくだり、神々と勇者の軍勢に撃ち倒された、醜き者たちだと。


 ヴァルカンは頭を振った。

 その動きひとつが、丁寧な動きであった。  

 

 静かに、反論した。


「そんなわけがない。あらゆる生き物にとって、戦争いくさなど好むわけがあるまい。仮に……自ら指揮をとらぬ愚鈍な政治家ならまだしも、前線の苦難苦闘を知っている者ならば、戦争など禁忌してしかるべきだと身に染みている。何を得るにせよ、何か大きなものを必ず失う。戦争とはそういうものだ……ましてや我らオークが、かつての同胞でもあったエルフを嬲り者にすることはありえぬ」

「どう、ほう……じゃと?」 


 ヴァルカンの言葉は、その一つ一つが驚愕であった。

 噛み砕こうにも、情報が大きくて混乱する。

 伝え聞いた話とは、全く違う。

 何より現実として、ヴァルカンの態度は真摯だ。

 理知的だ。

 淀みのない声だ。

 哀しみを背負った眼だ。

 ヒノワには、ヴァルカンがウソを言っているようには思えなかった。


 ふ、ふっ。


 息を吐いた。

 冷静さを取り戻すべく。

 恐る恐る、背後に目をやった。

 そこには、兵士の命を散らしたオークが跪いている。

 ひざを折って顔を地に伏し、微動だにしていなかった。

 その仕草、姿勢からはヴァルカン同様に、伝え聞く獰猛さも凶暴さも感じられない。

 むしろ、ヒノワには、エルフリュレ王国の、よく訓練された近衛騎士たちを思い起こさせた。


「して、ヒノワ姫」


 呆然とするヒノワの意識を、ヴァルカンはひと息で振り戻した。

 圧倒的な声であった。


「降伏を受け入れるか、それともこれ以上の民の虐殺を望むか……この場で決めてもらおう」


 場の空気が張り詰めていく。

 重く、重く、ヒノワの背中にのしかかる。

 何を隠そう、ヴァルカンの口調に重さが加わったからだ。

 息を呑んだ。

 背後のオークの息遣いが、空気通じて伝わってくるようだった。

 おそらくは側近の彼ですら、ヴァルカンの発する機微を感じ取り、そして、その重圧を感じている。

 

 ヒノワはヴァルカンの言葉の意味を悟っていた。

 ヴァルカンはこうも言っているのだ。

 ここで提案を断れば、我々(オーク)はもう、エルフリュレを完全に滅ぼすしかないのだと。

 違う種族の戦争。

 降伏のタイミングはここしかない。

 これを逃せば、戦争に負ける責任は、エルフリュレの民全てが取らねばならなくなる。

 つまり──殲滅戦が始まる。

 ヴァルカンたちには、すぐにでもそれを行うに足る力がある。

 

 空間を埋め尽くすようなヴァルカンの圧力が、ヒノワの膝を笑わせた。

 ヒノワは眉間に皺を寄せて、再度唾を飲み込んだ。

 それは、のどが焼けるように、熱かった。

 

「わしが降伏すれば……国は、民はどうなるのじゃ……?」


 ヒノワは意を決して聞いた。

 しかし、言葉は弱々しい。不安があった。

 ……とはいうものの、確信はしていた。


 不思議とここで降伏すれば、民が、自分が、無残に殺されることは、ない気がしていた。

 民を気遣う余裕があったのだ。


 何故だろう?

 なぜ、わしは今、落ち着いているのだ? 

 膝は、笑っている。

 身体はもうくたくただ。

 だと言うのに、心には、いっそ健やかな風が吹いていた。


 わからない。

 わからない──

 

 しかし、この質問が重いことは、よくわかっている。

 とてつもない重さであることは、自覚している。


 今この場には、自分しかいない。

 頼れる大臣も、森の賢者も、父も母もいない。

 国の行く末を握っているのは、他ならない自分である。

 安請け合いしていいのか、ここで、誰にも相談せずに、決めていいのか。

 本心から言えば、分からなかった。

 ヴァルカンの言葉が嘘でない証明はできない。

 信頼できるのはその存在が隔絶しているということ。

 心に吹く健やかさは、あくまで気のせいだ。

 戦争に負けることがどう言うことか。

 敗戦国が何をされるのか、ヒノワは知っていた。

 ヒノワはまだ幼いが、腐っても王族である。

 エルフリュレただひとりの姫である。

 そこは、全くの無知ではない。


 しかし、危機迫る状況での自身の言葉。

 たったひとつの問答が国の未来を左右するということが──

 『王』の言葉が、これほど重いとは思わなかった。


「エルフリュレは、一度国としては解体する……こんな言葉を使うのは私の本意ではないが、エルフリュレ王国はその幹から腐っているのでな。もはや、救い難いほどに……」 

「な、なんじゃと!!? わしらの国を……父と母の国を……今、何と言うたか!!」


 一転してこみ上げた怒りに、カッとなってヒノワは飛びかかった。

 無謀である。

 ヘドロに足をとられながらもお構いなしに立ち上がり、ヴァルカンの──胸倉は身長のせいでつかめなかったので──腰のベルトを掴もうとした。

 しかし、叶わなかった。

 跪いていたはずのオークが背後からヒノワを締め上げたからである。


「──ッ!?」


 太い腕が、ヒノワの首に回っていた。

 もう片方の手が、ヒノワの頭を上から掴んでいた。

 恐ろしい腕力がヒノワの身体に直に伝わる。

 恐ろしい殺気が、背後から首筋を撫で上げている。


「──ッッ! わ、わしの父と母を愚弄するな!! み、醜いバケモノめ!!!」


 それでも、ヒノワは懸命に叫んだ。

 ヴァルカンは押し黙っていた。

 ヒノワの言葉を最後まで聞き終わって、手を前にかざした。


 その指の先に視線を送り、一瞬殺気を込めて一瞥すると、すぐに優しさを湛えた目に戻った。

 オークの手が、ヒノワから離れた。

 ヒノワがげほっと咳き込みながら、背後に視線を投げる。

 オークはかすかに頭を下げた。

 何も言わず、そのまま二歩下がり、再びヘドロの中で片膝を折って傅いた。

 

 オークの行動は感情からの動きではなく、王を護らんとするための訓練された動きだった。

 彼らの本能と理性。

 そして忠義心からの行動である。

 訓練された兵士である。

 そして、ヴァルカンの沈黙と、ただ手を翳した動きだけで、兵士の心身をたやすく制してしまった。 

 忠義と信頼が窺える、一連の動きであった。

 いっそ、羨ましいほどに。


「ヒノワ姫……言葉が足りぬ無礼を、まず詫びたい。これは、貴殿の父王と母王が悪いのではない。ましてや、エルフリュレそのものが悪いわけでもないのだ」


 頭は、下げない。

 これは、戦に勝たんとする者の尊厳からだ。

 どんな理由があれ、勝者の代表が敗者の代表に頭を下げることはできない。


 そのぐらいのことは、ヒノワにも分かっていた。


「この問題は、根深いのだ……どうか、わかってくれ。私は、我々は、エルフを見下してなどいない。むしろ尊敬している。エルフたちは本来思慮深く、優しく、そして……」


 微笑んだように、見えた。


「そして、純粋すぎるだけだ」


 吐き出された言葉が、あまりにも優しい。

 暖かい。

 ヒノワの目じりが、また熱くなった。

 しかし、今度は恐怖や絶望のせいではない。

 なにか、感じたことのない想いから、こぼれたものだった。

 ヴァルカンの言葉は本心からのものだ。

 心に想いが伝わってきた。

 ヴァルカンはその心を言葉で伝えたのではなく、心に直接投げかけたのだ。

 取り繕った感情はない。

 ただ暖かさと、謙虚さと、哀しさがあった。


「こ……降伏を、認める……」


 泣きながら、ヒノワは言った。

 そして、自身の言葉に失望するように、泥の中にへたり込んで大声で泣き出した。


 ヴァルカンは目を閉じていた。

 本当は、ヒノワを包み込むようにひざを折り、背中をそっと優しく抱きたかった。

 たが、そのような行為は許されるものではない。

 背後のオークは剣を納め、立ち上がった。

 ヒノワの隣まで歩み寄った。

 じっ、と見つめていた。

 オークの目にも、ヴァルカンと同様の哀しみが込められていた。

 泣き崩れたヒノワに、同情的でさえあった。


 降伏宣言はエルフリュレに侵攻するヴァルカン軍に、すぐさま伝わった。

 彼らが武器を下ろし、それを見た捕虜のエルフリュレ兵が泣き崩れていった。


 鎮火作業が始まり、城内にオークたちがゾロゾロと踏みいった。


 玉座まで悠々と歩を進め、ヴァルカン公国の国旗を打ち立てた。





 こうして戦争は終わった。

 アースヴァルド大陸史における、ひとつの時代は幕を閉じた。



 そして、歴史は動き出す。


 ヒノワは、捕虜となった兵士とは別の馬車に案内された。

 向かう先はオークの野営地だと聞かされていた。


 未だ混沌から抜け出せないヒノワの心は、自身の未来に暗い闇を見出していた。


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