愛ユエニ
・死に方が決める生き方
彼女が煙草を吸う。私は喫煙者ではない。ゆえに彼女にも禁煙者となってほしいのだ。だが、それを口にするのは、私の流儀ではないのである。
彼女に禁煙を懇願するは、彼女と言う色を私色に染める一歩である。だが、それは言い替えれば彼女と言う色を喪失させることになるのだ。
彼女は髪の毛を茶色に染めている。「この色が一番可愛く見えるの」そう、はにかんだ笑顔はまぎれもなく彼女色なのである。私は黒髪が好みだったが、彼女にそれを伝えたことも黒髪にしてくれと頼んだこともない。
喫煙とてそれと同意なのだ。
彼女が煙草をくわえる切っ掛けは、以前に交際していた男の影響であると言った。
英雄好色と言うが、その男は英雄でもなければ正義漢でもなかった。ただの好色漢であったのだ。彼女と交際をしている間、他にも数人の女性を関係をもっていたそうだ。
しかし、愛の前に現実とは盲目であり、彼女はそんな男のことを愛していた。嫌われたくない一心にて、気が付きながらも傷つきながらも決して口に出すことはなかった。
男の部屋へ入ると、いつも違う香りに時には相対する香りが混ざっていた。それはいずれも香水であり、香りの数だけその部屋で男と女が密語とを交わしていたのだ。
彼女はその男を心底愛していた。
だから、言い訳とてしない男に無言で愛想笑いを傾けるのである。
はたして、男は確信犯であったのか、または、彼女が気が付いておらず、己は二十面相のごとくうまく立ち回っていると、体たらく幸福な勘違いをしていたのだろうか。
愛想笑いの後、彼女はまだ温もりの残るベッドの上に腰を降ろすと、煙草に火をつける。
吸うのは決まって一本だけ。
忌まわしきも香水の匂いを立ち上る白煙と不快な匂いにて消し去るために……
「思えばバカだったわ」と痩せた頬で語った彼女は今でも一日一本の煙草がやめられないと言う。
夢から覚めてみれば、男は他の女と姿を消してしまっていた。全てを捧げた男は彼女をいとも容易く裏切ったのだ。彼女はその男を愛していた。今はよそ見をしていても、飄飄踉踉ひょうひょうろうろうとしていても、いずれは自分の元へ帰って来てくれと信じていたのだろう。
従順で純粋な彼女の想いを踏みにじった男はやはり唾棄すべき人間である。路傍の私とて石を投げつけ「それでも人間か!」と罵詈雑言を浴びせてやりたい。
盲目となり純然と一人を深愛にて愛した彼女を私はやはり尊敬するであろう。私は心に決めた乙女のためであるならば、たとえ矢が降ろうとも槍が降ろうとも死へすら勇ましく、喜んで矢面に立つ所存である。
しかし、これは矢も槍も降らぬことを前提にした詭弁でしかない。だとすれば私は偽善者でありペテン師となってしまう。人の心がそんな戯れ言に傾くだろうか。
私は考えたのである。判官贔屓な私は捨てられた子猫のごとき彼女に同情したい一心に、
彼女の擁護的立場に立って男を罵倒し続けた。
しかし、もしも男が新なる愛に目覚め、これまでに関係を持った女性全てから、恨まれ呪われようとも貫きたい愛に目覚めたというのなれば、男は私よりもずっと男気に溢れているではないか。
そうなのだ。彼は女性と姿をくらましたのだから。
今更ながら、私自身を弁護するようで見苦しいが、私と言う男はこれと言った特技もなければ見た目にも地味な人間である。
だが、矢が降り注ぎ槍が太陽を遮るのなら、やはり私は死へすら勇ましく意中の人の矢面に喜んで立つことだろう。
人の生き死になど、誰にもわかろうはずがない。唯一選べるというのなれば、それは死に方くらいなものである。安穏と布団の中でお迎えを待つのも悪くはない。布団とは肌触りよくも温かいからである。それは安良かなことだろう。
しかし、男子に生まれたからには本懐を遂げねばならぬ。
たとえそれに命をかけることになろうとも、譲ってはならぬ時がある。
人の一生とは死するまさにその時に決まると言う。死とはまことに恐ろしい。考えるだけで身震いがする。だが、我が愛すべき乙女の前ではさほど恐ろしくもあるまい。
愛の前に人は盲目になれるのであれば。