君と曖昧な記憶力
「人間の記憶というのは、酷く曖昧なものだとは思わんかね」
お前は俺の上司か?
などと突っ込みたくなるそんな口調で呟いたのは、決して俺の上司ではない。
ましてや先輩でもない。
歳、は……誕生日を考えると何か月か上かもしれないが。
「いきなりどうした」
「いやいや、あのねお兄さん」
俺はお前の兄ではない。誕生日を考えればいっそ弟に近い。
いや、精神的には俺の方が兄かもしれない。
俺、長男だし。こいつ、末っ子だし。
「私は自分の記憶力の悪さに戦慄したのだよ」
「何だ、また買うべきものを忘れたとかそういう話か」
「確かにさっき店員さんが来た時にビールのおかわり頼めばよかった」
空になったジョッキを置いて、そいつは深いため息をつく。
「だがそういう話ではないのだよ、お兄さん」
「だいぶ酔ってんな。そろそろウーロン茶にすれば?」
「グレープフルーツジュース」
「自分で頼め」
そいつは少しだけむっとした後、店員の呼び出しボタンを押し、腰の低い態度でグレープフルーツジュースを注文した。
俺の方にも注文の確認が来たが、特に頼む物もないので遠慮した。
「で? お前の記憶力がどうしたって?」
「あー、うん、なんていうかね」
飲むものがなくなったそいつは、テーブルに肘をついて顔を伏せた。
「人間の記憶力というのは、ものすごく曖昧なものでね」
「さっき聞いた」
「どれだけ大切な記憶でも、こんなん絶対一生忘れないだろって記憶も、いつの間にか忘れてるんだよ」
「そんなもんかね」
忘れてしまったものは忘れてしまっているんだから、思い出しようもない。
そりゃ、例えば学生時代の一コマ一コマ、女子がよく言う『私らズッ友だよ!』みたいなやつだって、社会に出てしまえば頭の中で廃れていくばかりだろう。
いや、そうじゃない場合もあるのだろうけど。
「私が最近一番絶望したのはね」
「うん」
「お父さんのこと」
そいつの父親は、何年か前に鬼籍に入っている。
俺がそれを知ったのはそれよりずっと後。
そもそも学生時代の同級生であるこいつと再会した時点で、こいつの父親は亡くなっていたという話。
「お父さんの命日が、一瞬何日だったかわかんなくなってさ」
「マジかよ」
「そのあとすぐにちゃんと、ああ何日だった、って思い出したんだけど」
「うん」
「そこから、お父さんって生きてたら今年で何歳になるんだっけ?って言うのがちょっとわかんなくなって」
「……うん」
「お母さんよりいくつ上だから、って何とか思い出して」
そのあたりで、グレープフルーツジュースが運ばれてくる。
そいつは礼を述べながらグラスを受け取ると、すぐに一口飲んだ。
「で、それから、お父さんの声ってどんなんだっけ?とか、お父さんっていつもどんな話してたっけ?とか」
「……」
「あと、お父さんってどんなお酒が好きだったんだっけ、とか……癖とか、口癖とか」
そんなふうに話しながら、そいつはそのうちに机に突っ伏した。
「私、お父さん大好きなのにさ。なんでか、なかなか思い出せないんだよね」
大好きなのに。
過去形じゃない、現在進行形だ。
その言葉に、ああ、こいつはファザコンなんだな、などと実感した。
「……俺にはよくわかんないけどさ」
俺の両親はまだ健在だから、近しい親族を亡くした気持ちはよくわからない。
けれど。
「学生の頃は毎日会ってたけど、あんまり会わなくなった人って、やっぱり忘れてるだろ」
「ん?」
「中学の頃に席が隣だったやつとか、今になったらもう顔しか覚えてねーじゃん」
「……ごめん、私、顔すらアウトだわ」
「ならなおさらだわ」
俺より記憶力悪いじゃねーか。
「毎日会ってて、記憶がこう蓄積されてたとしても、会わない毎日が長くなると、やっぱり忘れていくんだよ」
「大切でも?」
「大切でも」
「そんなものかね」
腑に落ちないという表情で、そいつは眉間にしわを寄せる。
「まあでも、よく考えてみろよ」
「うん?」
「大切だからって全部覚えてたら、頭パンクするぞ」
例えば、仕事のこと。仕事のやり方とか、仕事の人間関係。忘れちゃいけない大事なこと。
家族のこと、友達のこと。あと、趣味のこととか。
自分という人格を構成するうえで、大切なことがこんなにもある。
「だから、思い出す回数が減ったものから順に忘れていくんだろ」
「……」
「ああ、あるいは、思い出す必要が減ったものから、かな」
そう話しながらそいつの顔を見る。
しばらく考え込んでいたそいつは、やがて小さくため息をつき、グレープフルーツジュースを飲んだ。
「じゃあ、私にとってお父さんはもうそこまで重要ではないという……?」
「あああ、そういうことじゃない。そういうことじゃなくて」
ああ、やっぱり言葉って難しいな。
「本当、なんて言えばいいのかわかんねーけど」
「うん」
「親父さんの重要度が下がったんじゃなくて、他のものの重要度が上がっただけなんじゃねーの?」
例えばほら、俺とか。
なんて、思っても口にはしない。
バカにされて終わる。
「そうかぁー」
グレープフルーツジュースを飲んで、そいつは小さく息をつく。
「私の記憶力が極端に悪いわけではない?」
「と思う」
自信を持っては言えないけれど。
「……そっかぁ」
腑に落ちたのか、腑に落ちていないのか、その表情からはよくわからないけれど。
とりあえず、少しだけ笑ってくれたんでよしとする。